第十三章 まだ戻れる場所
夜明け前から降り始めた雨は、グランフェルト公爵邸の窓を細い指で絶え間なく叩いていた。
庭園に咲く白薔薇は水滴の重みにうなだれ、灰色の空の下で、まるで処刑を待つ罪人のように首を垂れている。
アデライドは書斎の机に向かい、レーヴェ侯爵の事件に関する新聞を一枚ずつ読み返していた。
侯爵の逮捕によって穀物の買い占めは止まり、倉庫に隠されていた小麦は市場へ戻された。
救援金を奪われていた北部の村々には、国庫から新たな補償が支給されるという。
官職の売買に関与した役人も次々に罷免され、侯爵の名を恐れて口を閉ざしていた商人たちは、ようやく証言台へ立ち始めている。
結果だけを見れば、何も間違ってはいなかった。
飢えていた者は救われた。
不正を働いた者は裁かれた。
誰にも暴けなかった悪事を、アデライドが白日の下へ引きずり出したのである。
ただ一人、偽造された命令書によって罪を着せられ、獄中で命を落とした若い官吏を除けば。
新聞の隅には、亡くなった官吏の名前が小さく記されていた。
エリアス・ノルト、二十二歳。
文章はその程度で終わっている。
アデライドはその名前を見つめた後、記事の上へ別の新聞を重ねた。
彼の死は望んだものではない。
自ら命を絶つほど脆いとも知らなかった。
取り調べが適切に行われていれば、あるいは彼自身が潔白を明確に説明できていれば、あのような結末にはならなかったはずだ。
彼女が作ったのは侯爵の罪を証明するための一枚であり、若者を死なせるための刃ではない。
責任の所在は、正確に分けて考えるべきだった。
扉が二度、重く叩かれた。
「アデライド、入るぞ」
返事を待たず、コンラートが書斎へ入ってきた。
普段の彼なら、娘の部屋へ足を踏み入れる前に必ず許可を求める。
その礼節を忘れたこと自体が、彼の動揺を物語っていた。
「おはようございます、お父様」
アデライドは新聞を揃え、何事もなかったように微笑んだ。
「ずいぶんお早いのですね」
「昨夜、王宮から使者が来た」
コンラートは机の前まで歩み寄ったものの、椅子には座らなかった。
雨に濡れた外套の肩から、冷たい雫が絨毯へ落ちている。
「レーヴェ侯爵の命令書について、再調査が始まる」
「存じております」
「エリオット・ヴァレンが指揮を執るそうだ」
「優秀な方ですから、適任でしょう」
コンラートの太い眉が苦しげに寄った。
「お前が証拠品管理台帳を閲覧した記録も残っている」
「不正の告発者が証拠を確認するのは、不自然ではございません」
「それだけではない」
父の声が低くなる。
「命令書に使われた紙は、三年前に王妃府へ納入されたものだという。その紙を保管していた部屋の鍵を、かつてお前が預かっていた」
「鍵を預かった者は、わたくしだけではございません」
「アデライド」
名を呼ばれ、彼女はわずかに首を傾けた。
そこには問いよりも、答えを恐れる響きがあった。
「お前が作ったのか」
雨音が一段と強くなった。
アデライドは父の目を正面から見つめた。
幼い頃から、その目に恥じぬ娘であろうとしてきた。
母を失った日にも泣かず、外交使節の前に立ったのは、父が誇らしそうに頷いてくれると知っていたからである。
難解な法典を暗唱したときも、乗馬で落馬して肋骨を痛めたまま式典へ出席したときも、コンラートは同じ言葉をくれた。
お前は我が家の誇りだ、と。
「侯爵の罪は事実です」
アデライドは答えた。
「私は命令書のことを聞いている」
「その命令書によって、事実が覆されたわけではございません」
「作ったのか」
問いが繰り返される。
彼女は指先を机の上で組み合わせた。
「必要な措置でした」
コンラートの顔から血の気が引いていく。
怒鳴られると思っていた。
机を叩かれるかもしれないとも考えていた。
けれど父は、何かを取り落とした者のように両手を垂らし、長い間、娘の顔を見つめていた。
「エリアス・ノルトという官吏が死んだ」
「存じております」
「彼には婚約者がいた。老いた母親もいる」
「お気の毒に思います」
「お気の毒に、だと」
その声音には怒りさえなかった。
空洞へ石を落としたような、底の見えない虚しさだけが残っている。
「お前は、自分に責任があると思わないのか」
「わたくしが彼へ自害を命じたわけではございません。偽りの自白を強要したのは取調官であり、監督を怠ったのは拘置所の責任者です。わたくしの行為だけを抜き出して、彼の死の原因であるかのように扱うのは正確ではありません」
「人の死を、帳簿の計算のように分けるな」
初めて、コンラートの声が震えた。
「原因がいくつあろうと、お前の一枚がなければ、あの青年は牢へ入らなかった」
「では、何もせず、侯爵に虐げられた何千人もの民を見捨てるべきだったと仰るのですか」
「違う」
「何が違うのでしょう」
「お前には、やめる道があった」
アデライドは微笑みを消さなかった。
やめれば侯爵は罪を逃れた。
救援金は戻らず、飢えた民は冬を越せなかっただろう。
そんな未来を選ぶことが、正しいとは思えない。
ただ、父の顔に浮かぶ苦悩を見ていると、彼が理屈を求めているのではないことだけは理解できた。
「王都を離れろ」
コンラートが言った。
「……どこへ行けと?」
「国外だ。西のルーヴェン公国に、古い友人がいる。身分も財産も用意する。そこで名を変え、新しい人生を始めなさい」
「逃げろと仰るのですか」
「まだ逃亡ではない。調査は始まったばかりだ。お前を名指しする証拠もない。今なら療養という名目で出国できる」
「お父様は、わたくしが罪人だとお考えなのですね」
「父親として、お前を牢獄へ送りたくないだけだ」
「それは同じことでございます」
アデライドは静かに立ち上がった。
父と娘の間に、黒檀の机が横たわっている。
それは埋められない溝というより、初めから存在しながら、二人が見ないふりをしてきた境界に思えた。
「国外で何をせよと仰るのです。誰にも知られず、王国で起きることへ口を出さず、ただ呼吸をして暮らせと?」
「絵を描けばいい」
予想もしなかった言葉に、アデライドの瞼が動いた。
「お前は絵が好きだっただろう」
「子供の頃の話です」
「海を見たいとも言っていた。母親の肖像を、自分で描くのだとも」
「王太子妃教育を始める以前の、幼稚な望みでございます」
「幼稚でも、お前の望みだった」
コンラートは机を回り込み、娘の肩へ手を置こうとした。
しかし指先が触れるより先に、アデライドは半歩だけ身を引いた。
拒絶と呼ぶには小さく、見落とすには明確な距離だった。
「王妃にならなくとも、お前は私の娘だ」
以前にも聞いた言葉だった。
婚約を失った夜、父は確かにそう告げた。
あのときと同じく、慰めには聞こえない。
失敗しても生きていてよい。
優秀でなくなっても、哀れな娘として引き受けてやる。
そう宣告されているようにしか思えなかった。
「ご厚意には感謝いたします」
アデライドは完璧な礼をした。
「ですが、わたくしは何も失敗しておりません」
「アデライド」
「侯爵は裁かれ、民は救われました。わたくしが王都を去れば、事実を歪めようとする方々の思うままになります」
「それで、次は何をするつもりだ」
「何も」
嘘ではなかった。
少なくとも、その時点ではまだ、具体的には何も決めていない。
「わたくしは、ただ正しい裁定を待つだけです」
コンラートは、もう説得の言葉を持っていなかった。
肩を落として扉へ向かう父の背中が、記憶にあるよりも老いて見える。
扉の前で立ち止まり、彼は振り返らないまま言った。
「お前に、できないことがあってもよかったのだ」
アデライドは答えなかった。
「私が、それを教えなかった」
扉が閉じる。
謝罪のような言葉だけが、書斎に取り残された。
父は誤解している。
問題は彼女にできないことがあった点ではない。
できることをした結果、周囲がそれに耐えられなかっただけなのだ。
午前十時を過ぎた頃、マリアンヌが朝食の盆を運んできた。
銀の蓋の下には、手をつけられなかった昨日の夕食とよく似たものが並んでいる。
「召し上がらなければ、料理長が自信をなくします」
「食欲がないだけです。味に不満はございません」
「では、そのように料理長へお伝えして、安心して辞職していただきましょう」
「マリアンヌ」
「冗談でございます」
侍女は盆を机へ置いたが、いつものようにカーテンを開けようとはしなかった。
雨に閉ざされた室内で、その横顔はひどく疲れて見えた。
「昨夜、証拠品管理室へ提出する修正記録を作成いたしました」
アデライドが告げると、マリアンヌの手が止まる。
「あなたの机に置いてあります。確認後、以前と同じ手順で差し替えてください」
「お断りいたします」
即答だった。
アデライドは聞き間違いを疑った。
「何と?」
「差し替えはいたしません」
「記載時刻に誤りがあります。このままでは、命令書が保管庫へ入った時期について、不要な疑いを招きます」
「誤りではございません」
マリアンヌは、まっすぐ主人を見た。
「正しい記録を、お嬢様に都合のよい記録へ変えるのでしょう」
「わたくしの都合ではありません。捜査の混乱を防ぐためです」
「エリアス様が亡くなられたときも、そう仰いました」
言葉が出ない。
ただあれは想定外だった。
あのような結末に至ったのは、アデライドの命令ではない。
「彼の死と、この記録に何の関係があるのです」
「お嬢様には、どなたの死も関係がないのでございましょう」
「感情的な言い方はおやめなさい」
「では、理性的に申し上げます」
マリアンヌは腰に提げていた鍵束を外した。
王太子妃候補だったアデライドの予定表、私文書、薬棚、宝石箱を管理してきた鍵である。
彼女はそれを机へ置いた。
金属の触れ合う音は小さかったが、アデライドには雷鳴より鮮明に聞こえた。
「偽造した命令書を公表してください」
「できません」
「レーヴェ侯爵の罪は、ほかの証言でも立証できます。すべてが崩れるわけではございません」
「偽造を認めれば、告発そのものの信頼が失われます。侯爵は自分への追及を陰謀だったと主張するでしょう」
「それでも、真実です」
「真実だけで人を救えるなら、わたくしはあの一枚を作っておりません」
「その真実を曲げたために、無実の方が亡くなりました」
「意図した結果ではありません」
「結果でございます」
マリアンヌの目に涙はなかった。
泣いてくれればよかった。
感情に押し流されているのだと判断できたからである。
ところが彼女は冷静で、声も揺れず、一語ずつ選びながら主人の逃げ道を塞いでいく。
「お嬢様が教えてくださったことです。善意ではなく、結果に責任を持てと」
「状況が違います」
「ええ。今回は、責任を負うのがお嬢様ですものね」
「無礼ですよ」
「存じております」
マリアンヌは深く頭を下げた。
「けれど、もう黙っている方が無礼でございます。わたくしはお嬢様の侍女です。罪を罪でなくする魔法使いではございません」
「あなたまで、わたくしを見捨てるのですか」
口にしてから、アデライドはわずかに驚いた。
そんな問いを投げるつもりではなかった。
マリアンヌも息を詰めたが、やがて苦しそうに首を振った。
「見捨てたくないから、申し上げております」
「同じことです。わたくしが罪を認めれば、公爵家も、わたくしを信じた人々も傷つく。救われた民まで、自分たちの救済が偽りの上に成り立っていたと知ることになります」
「それでも、償ってください」
「わたくしのこれまでを、すべて捨てろと言うのですね」
「違います」
「何が違うのです」
「間違いを認めることと、人生のすべてを否定することは違います」
父と似たことを言う。
失敗してもよい。
罪を犯しても、それまでの功績は消えない。
そんな都合のよい分割が、本当に可能だと彼らは信じているらしい。
完璧であるから任されてきたのだ。
正しいから従われてきた。
たった一つでも根に腐敗があると認めれば、枝先に実った功績まで毒だったと疑われる。
人はそれほど寛容ではない。
「下がりなさい」
「お嬢様」
「鍵は置いていって結構です。あなたには休養が必要なようです」
マリアンヌは唇を結び、しばらく動かなかった。
やがて再び礼をし、朝食の盆を残して部屋を出ていく。
足音が遠ざかってから、アデライドは鍵束を手に取った。
長年、マリアンヌの腰で揺れていたため、角が滑らかに摩耗している。
冷たいはずの金属には、まだ彼女の体温が残っていた。
午後、予告のない訪問者があった。
リディア・エヴァンス。
その名を執事から告げられたとき、アデライドは一度だけ断ろうとした。
しかし、逃げたと思われるのは不愉快だった。
応接室へ通すよう命じ、自らも衣服を改める。
選んだのは喪服を思わせる濃紺のドレスだった。
対するリディアは、飾りの少ない灰白色の外套を羽織っている。
王太子の新たな婚約者とは思えないほど地味だったが、その質素ささえ誠実さの証しとして賞賛されるのだろう。
「突然お伺いした非礼をお許しください」
リディアは立ち上がって頭を下げた。
「本当に突然ですこと」
「お断りされると思っておりました」
「でしたら、先に使者を立てるべきでしたわね」
「はい」
素直に認めるところが、かえって腹立たしい。
アデライドは向かいの長椅子へ腰を下ろした。
「ご用件を伺いましょう」
「レーヴェ侯爵の事件についてです」
「殿下から何かお聞きになったのですか」
「殿下は、アデライド様を疑っておられます」
言葉を飾らず告げることも、リディアの流儀だった。
「ですが、まだ証拠を提出なさってはいません」
「わたくしへの温情でしょうか」
「違います。ご自分の疑いが間違っていてほしいと願っておられるのです」
「ずいぶん身勝手な願いですこと」
アルベルトは婚約を破棄し、彼女の人生を公衆の面前で切り捨てた。
それでいて、アデライドには清廉なままでいてほしいと望む。
自分が捨てたものに傷がついていれば、捨てた判断まで汚れるからだ。
「あなたは何をしにいらしたのです」
「戻っていただくためです」
「どちらへ?」
「真実へ」
アデライドは薄く笑った。
「抽象的なお話は好みません」
「では、明確に申し上げます。命令書を作ったのがアデライド様なら、そのことを公表してください」
「仮定に基づいて罪を認めろと仰るのですか」
「私は、アデライド様の功績まで否定するつもりはありません」
リディアは膝の上で両手を握っていた。
怖いのだろう。
それでも視線を逸らさず、言葉を続ける。
「侯爵の不正を暴いたことも、飢えていた方々を救ったことも、アデライド様が王宮のために尽くしてこられたことも、消えません」
「罪を認めた悪人にも、昔は善行があったと慰めてくださるのですか」
「そういう意味ではありません」
「同じですわ」
「違います」
リディアの声が、珍しく強くなった。
「間違えたからといって、これまでのすべてが嘘になるわけではありません」
また、その言葉だった。
父もマリアンヌも、示し合わせたように同じ理屈を持ち出す。
「戻れます」
リディアは続けた。
「今なら、まだ戻れます。すべてが元通りになるという意味ではありません。罪をなかったことにもできません。でも、ご自分のしたことを認めて、償う場所には戻れます」
「そして、あなたは王太子妃になる」
リディアの表情が曇った。
「今は、そのお話をしているのではありません」
「いいえ、同じ話です。わたくしが罪を認めれば、あなたを妨げる者はいなくなる。殿下は同情を集め、あなたは悲劇を乗り越えた献身的な妃として迎えられるでしょう」
「私は、そのようなことを望んでいません」
「あなたが何を望もうと、結果は変わりません」
「では、アデライド様は何を望んでおられるのですか」
その問いに、アデライドは答えなかった。
以前も聞かれた。
あなたは、どうしたいのですか、と。
王太子妃として何が正しいか。
公爵令嬢として何をすべきか。
王国のために何が必要か。
そうした問いなら、幾千の答えを持っている。
けれど自分だけの望みを問われると、胸の内には形を持たない空白しかなかった。
「わたくしの望みは、正しい状態へ戻すことです」
「何を正しいと呼んでいるのです」
「殿下が、誤った判断をなさる以前の状態です」
リディアは悲しそうに息を吐いた。
「殿下は、もう戻りません」
「あなたが決めることではございません」
「殿下ご自身が決めたことです」
「誤った決断です」
「それでも、殿下の決断です」
アデライドの指が、ドレスの布を強くつまんだ。
リディアはそれを見たが、憐れむような顔はしなかった。
「アデライド様は、殿下を愛していらっしゃるのですか」
「当然です」
「では、殿下の意思も愛してください」
胸の奥を、冷たいものが貫いた。
あまりにも無責任で、美しい言葉だった。
王家との婚約によって人生を定められ、未来の王妃として育てられた者に、今さら一人の男の意思を尊重して身を引けと言う。
その意思が彼女のこれまでの人生を踏み潰すものであっても、愛して受け入れよと。
「お帰りください」
アデライドは立ち上がった。
「アデライド様」
「これ以上は、お互いのためになりません」
「私は、また参ります」
「その必要はございません」
「それでも参ります」
意外な頑固さだった。
リディアも立ち上がり、深く一礼する。
「あなたにしたことを許していただけるとは思っておりません。私も、自分が正しかったとは思っていません。それでも、あなたがこれ以上、ご自分を壊していくのを見たくないのです」
「わたくしは壊れてなどおりません」
「でしたら、なぜそんなに苦しそうなのですか」
アデライドは答えなかった。
リディアが去った後も、応接室には彼女の紅茶が残された。
ほとんど口をつけられておらず、薄い水面だけが静かに冷えている。
三人とも、同じ誤りを犯していた。
戻れると信じている。
けれど一度でも罪を認めれば、アデライド・フォン・グランフェルトという人間は終わる。
完璧な王太子妃候補ではなく、婚約者に捨てられ、嫉妬から証拠を偽造し、無実の人間を死なせた愚かな女として歴史へ刻まれるだろう。
救った民の数も、捧げた年月も、誰も数えてはくれない。
彼らが残すのは、罪の名だけである。
ならば、罪そのものを成立させなければよい。
問題は命令書ではない。
命令書を調べる権限を持つ者と、その調査を正当化する政治的な流れだ。
アデライドは書斎へ戻り、机の抽斗から王宮の人事記録を取り出した。
エリオット・ヴァレンは王太子直属の調査官。
彼の捜査を止めるには、王太子の命令が必要になる。
しかしアルベルトが聞き入れないなら、彼の命令を無効にするだけの疑惑を作ればよい。
たとえば、新たな婚約者が他国と通じ、王位継承へ不当な影響を与えようとしていたなら。
リディアの母方には、南西のベルナール連邦出身者がいる。
連邦は長年、エルミアの港湾税を引き下げるよう要求していた。
リディアが連邦の密使から金を受け取り、王太子を操って婚約を破棄させたという筋書きなら、政治的には十分な説得力を持つ。
婚約破棄。
王太子への接近。
レーヴェ侯爵事件の直後に始まった王宮内部の混乱。
ばらばらの事実も、一本の意図で結べば陰謀へ変わる。
アデライドは白紙を取り出した。
ベルナール連邦の外交官が用いる言い回しは熟知している。
封蝋の紋章も、王太子妃教育の一環として何度も目にした。
筆を取る前に、一瞬だけマリアンヌの言葉が蘇った。
お嬢様の最後は、何度目でございましょう。
「これで、本当に最後です」
誰もいない書斎で呟く。
リディアが排除されれば、アルベルトは自分の判断が誤りだったと理解する。
エリオットの調査も、外国勢力による王家への攻撃として処理できる。
すべてが正しい場所へ戻るのだ。
インクを含んだペン先が、白い紙へ触れた。
最初の一文字は、祈りのように美しく記された。




