第十四章 僕は頼んでいない
王都の東に位置するライゼン離宮は、長く使われていなかった。
かつて王族の避暑地として整えられた館も、北部に新しい宮殿が建てられてからは訪れる者が減り、今では最低限の使用人が風を通すばかりとなっている。
庭園の噴水は涸れ、蔦に覆われた白い彫像の肩には、枯葉が幾重にも積もっていた。
アデライドが馬車を降りると、老いた管理人が深々と頭を下げた。
「お待ちしておりました、グランフェルト公爵令嬢」
「殿下は?」
「西の温室にいらっしゃいます」
「人を近づけないでください。重要なご相談があります」
「承知いたしました」
彼女は一人で回廊を進んだ。
足を踏み出すたび、磨かれていない床板がかすかに鳴る。
壁には歴代王族の狩猟画が並び、その間に、幼いアルベルトとアデライドを描いた小さな肖像も掛けられていた。
十歳にも満たない二人が、離宮の庭で花冠を持って笑っている。
アデライドは絵の前で足を止めなかった。
西の温室には、午後の淡い光が満ちていた。
かつて異国の花々が咲き誇った硝子張りの部屋も、今では冬薔薇が数株残るだけである。
アルベルトは枯れた水盤のそばに立っていた。
護衛の姿はない。
アデライドの手紙には、リディアに関する重大な証拠を誰にも知られず渡したいと記した。
その言葉を信じたのだろう。
あるいは、信じたかったのかもしれない。
「来てくれたのですね」
「君が、リディアに関する話だと書いたから」
アルベルトは微笑まなかった。
以前より痩せ、目の下には濃い影が落ちている。
「その前に、僕から確かめたいことがある」
「何でしょう」
彼は上着の内側から、折り畳まれた書類を取り出した。
それが何であるか、開かれる前に分かった。
証拠品管理台帳の写し。
偽造命令書に用いられた紙の納入記録。
王妃府の保管庫へ出入りした者の一覧。
そして、アデライドが用いる特殊な略号の見本である。
「レーヴェ侯爵の命令書は偽物だ」
アルベルトは言った。
「そうお考えになる根拠は?」
「インクが作られた時期と、文書の日付が合わない。印章も、侯爵家で使われているものとは押し方が違う」
「それだけでは、誰が作ったかまでは分かりません」
「筆跡を似せすぎているんだ」
アルベルトの声には、苦い確信が宿っていた。
「本物の筆跡には揺れがある。けれど、これは一文字ずつ見本を写したように整いすぎている。君が、僕の代わりに招待状を書いてくれたときと同じだ」
遠い記憶が温室へ忍び込む。
まだ二人が十二歳だった頃、アルベルトは狩猟中に右手を痛めた。
招待状へ署名できず困っていた彼のために、アデライドは筆跡を真似た。
教師さえ見抜けなかった。
アルベルトは子供のように喜び、君は何にでもなれるね、と笑った。
「あの頃のことを覚えていらしたのですね」
「忘れていたよ」
彼は目を伏せた。
「忘れていたかった」
「では、昔の思い出だけで、わたくしが偽造したと?」
「エリアスという男が、死ぬ前に宿へ預けた手紙も見つかった」
アデライドの呼吸が止まりかける。
表情だけは崩さなかった。
「君の指示で、王妃府から紙を持ち出したと書かれている。最初は侯爵の不正を暴くためだと思っていた。でも、命令書が偽物だと気づき、怖くなったとも」
「死者の手紙は、本人に真意を確かめられません」
「まだある」
「ずいぶん準備なさったのですね」
「違っていてほしかったからだ」
アルベルトが顔を上げる。
その目には怒りよりも、深い疲労があった。
「君ではないという証拠を探した。でも、調べるほど君へつながった」
「侯爵の不正は事実です」
「分かっている」
「でしたら、何が問題なのです」
「無実の人が死んだ」
「それは、わたくしの意図したことではありません」
「意図しなければ、責任はないのか」
「責任がないとは申しておりません。ただ、侯爵を放置した場合に失われた命と比較すべきだと申し上げています」
「人の命を数で比べるな」
「王になる方が、それを仰るのですか」
アデライドは一歩、彼へ近づいた。
「一人を救うために千人を飢えさせるのが、殿下の正義ですか。何も決断せず、誰も傷つけなければ、ご自分だけは善良でいられるとお考えですか」
「そうじゃない」
「同じです。殿下は昔からそうでした。決断を先延ばしにして、結果が悪くなると、決めた者へ責任を負わせる。婚約の件も、そうではございませんか」
「今は僕たちの婚約の話ではない」
「すべて、そこから始まったのです」
自分の声が高くなっていることに、アデライドは気づいていた。
それでも抑えられない。
十九年間、喉の奥へ押し込めてきた言葉が、狭い裂け目から一斉に溢れようとしている。
「殿下が正しい手順を守ってくだされば、わたくしが侯爵の不正を調べる必要もなかった。リディア様と秘密裏に親交を深めず、わたくしにご相談くだされば、王宮は混乱しなかったのです」
「リディアは関係ない」
「まだ、そう仰るのですね」
「これは僕が決めた」
「その決断が誤りだったと、なぜ認められないのです」
「君には戻らない」
短い言葉が、温室の空気を切断した。
アデライドは動かなかった。
外では風が吹き、硝子板のどこかが低く軋んでいる。
「証拠を、どうなさるおつもりですか」
「父上へ提出する」
「そうすれば、公爵家と王家の関係は修復できないほど悪化します」
「分かっている」
「レーヴェ侯爵の裁判も揺らぎます。救済措置が撤回される可能性もある」
「偽造の罪と侯爵の罪は分けて裁く」
「世論は、法典どおりには動きません」
「それでも隠せない」
「わたくしが罪に問われても?」
「そうだ」
アルベルトは苦しそうに答えた。
「君がしたことなら、君が向き合うしかない」
アデライドは、彼の顔を見つめた。
幼い頃、熱を出した彼のそばで夜通し書類を整理した。
海軍へ行きたいと言った彼に、王太子が危険を冒すべきではないと説いた。
不得意な歴史の試験では要点をまとめ、外国使節との会談では失言しないよう事前に話題を選んだ。
彼が王となるために不足しているものを、一つずつ補ってきた。
それが愛でないなら、何だというのだろう。
「わたくしは、あなたのためにすべてを捨てました」
声は不思議なほど穏やかだった。
「アデライド」
「友人も、夢も、母の最期さえも」
母が亡くなった日、アデライドは隣国の使節を迎える晩餐会へ出席していた。
父は帰ってよいと言った。
けれど未来の王太子妃が私情で公務を欠席すれば、王家への覚悟を疑われる。
だから微笑み、完璧に役目を果たした。
帰宅したとき、母の手はもう冷たかった。
「絵を描くことも、海を見ることも、泣くことも、すべて諦めました。あなたの妻として恥じない者になるために、十九年の人生を捧げたのです」
「それは……」
「それだけではございません。あなたが王となった後の改革案も、外交政策も、王妃府の再編も、何年もかけて準備しました。あなたが苦手なことは、すべてわたくしが補えるように」
「アデライド、僕は」
「それなのに、あなたは、ただご自分が息苦しいという理由で、何もかも捨てた」
「違う」
「何が違うのです!」
声が硝子の天井へぶつかり、乾いた反響となって戻った。
アデライドは肩で息をしていた。
人前で声を荒らげたのは、いつ以来だろう。
あるいは、生まれて初めてかもしれない。
アルベルトは顔を青ざめさせ、長い間、言葉を探していた。
彼の優柔不断さが、この瞬間だけは慈悲に思えた。
何も言わなければよかった。
せめて、ありがとうと。
君の犠牲を知らなかったと。
そう言ってくれれば、まだ何かが残ったかもしれない。
「僕は……頼んでいない」
温室に、沈黙が落ちた。
言った本人が、最も深く傷ついた顔をしていた。
「違う。今のは、そんな意味じゃ」
「ええ」
アデライドは笑った。
唇は自然に美しい弧を描いた。
「そうでしたわね」
「アデライド、待ってくれ」
「何を待つのです」
「君がしてくれたことを、無意味だと言いたいわけじゃない。でも、僕のために捨てたと言われても、僕はそのことを知らなかった」
「知らなかったのであれば、存在しなかったことになるのですね」
「そうじゃない」
「頼んでいない犠牲だから、受け取ったあなたには責任がない。便利な理屈ですわ」
「僕も間違えた。公の場で婚約を破棄したことは、一生かけても償えない。でも、それと君のしたことは別だ」
また、分けるのだ。
父も、マリアンヌも、リディアも、アルベルトも。
人生は一つながりであるのに、自分たちに都合よく切り分け、これはあなたの責任、これは自分の過ちだと整理する。
その結果、アデライドにだけ罪が残る。
「証拠を、こちらへ」
「渡せない」
「では、破棄してください」
「できない」
「わたくしがお願いしても?」
アルベルトは目を閉じた。
その沈黙が答えだった。
「明日の朝、父上へ提出する」
彼は書類を上着へ戻した。
「今夜までに、自分から来てほしい。君が話すなら、僕もできる限りのことをする」
「できる限りとは?」
「裁判で、婚約破棄が君を追い詰めたことを証言する」
「憐れな女だったと、減刑を求めてくださるのですね」
「助けたいんだ」
「あなたは一度も、わたくしを助けてくださいませんでした」
「そうかもしれない」
アルベルトは否定しなかった。
その素直さは、リディアから学んだのだろうか。
「でも、今度こそ逃げない」
「立派になられましたね」
アデライドは一歩退いた。
温室の片隅には、庭師が置き忘れた剪定道具がある。
錆びた鋏。
小さな鋸。
植え替えに使う細身の刃物。
それを見たのは偶然だった。
何かを決めたわけではない。
ただ、アルベルトがこのまま温室を出れば、明日の朝にはすべてが終わる。
父は公爵家を守るため彼女を切り離す。
マリアンヌは証言するだろう。
リディアは悲しみながらも王太子妃となり、アデライドの功績を憐れみ深く語る。
歴史書には、彼女が救った者の名ではなく、偽造者という一語だけが残される。
「殿下」
出口へ向かいかけたアルベルトが振り返った。
「なんだ?」
「最後に、一つだけ教えてください」
アデライドは道具台のそばへ歩み寄った。
「リディア様に出会わなかったとしても、わたくしとの婚約を解消なさいましたか」
彼はすぐには答えなかった。
しかし、その沈黙には逃避ではなく、正確な言葉を選ぼうとする誠実さがあった。
「いつかは、そうしたと思う」
「そうですか」
指先が、細身の刃物の柄へ触れた。
「君に嫌いなところがあったわけじゃない。むしろ尊敬していた。でも、君の隣にいると、僕が何を望んでいるのか分からなくなった」
「わたくしは、あなたのために最善を選んでおりました」
「そうだったな」
「間違ったものを選ばないように」
「分かっている」
「王になる方には、それが必要です」
「でも、僕の人生だった」
アルベルトは穏やかに言った。
「間違える権利も、僕にあった」
アデライドには、その理屈が理解できなかった。
間違うと分かっている道を選ばせるのは、愛ではなく怠慢である。
崖へ向かう者の意思を尊重して手を放すなど、善良さの仮面を被った無責任にすぎない。
彼女は道具台から手を離した。
一瞬、アルベルトの顔に安堵が浮かぶ。
「今夜、待っている」
彼が背を向けた。
その背中は、記憶より広くなっていた。
幼い少年ではない。
アデライドの手を必要とせず、自分の誤りを選び、自分の意思で歩いていく男だった。
その事実が、耐え難かった。
気づいたときには、刃物を握っていた。
呼び止める声は出なかった。
数歩の距離が消える。
振り返ったアルベルトの目に、驚きが広がった。
「アデ……」
刃先が衣服を裂いた。
手のひらへ、抵抗の鈍い感触が伝わる。
アルベルトの身体が傾き、二人はもつれるように床へ倒れた。
アデライドは咄嗟に彼を抱き留めた。
温かな血が、濃紺のドレスへ染み込んでいく。
「どうして」
アルベルトが掠れた声を漏らした。
責める言葉ではなかった。
ただ、分からないという顔をしている。
アデライドにも分からなかった。
こんなことをするつもりではなかった。
証拠を渡してもらい、話し合い、誤解を解くはずだった。
「動かないでください」
彼女は傷口を押さえた。
「すぐに人を呼びます。ですから」
呼べば何が起きるかを考え、声が途切れた。
医師が来れば事情を聞かれる。
アルベルトが意識を取り戻せば、偽造命令書と襲撃の両方を証言するだろう。
それでも、まだ助けられるかもしれない。
「リディア……」
彼の唇が、その名を作った。
アデライドの手から力が抜けた。
死にかけてもなお、呼ぶのは彼女ではない。
十九年を捧げた婚約者ではなく、わずかな時を共に過ごした女だった。
「わたくしは、ここにおります」
アルベルトの焦点は、もう彼女に合っていない。
「殿下、わたくしです」
返事はなかった。
傷を押さえていた手の下で、脈が弱くなっていく。
やがて彼の胸は動かなくなった。
アデライドは血の広がる床に膝をつき、長い間、その手を握っていた。
子供の頃より大きく、剣の稽古で硬くなった手。
かつて彼女が未来のすべてを預けた手である。
「どうして、わたくしを選んでくださらなかったのですか」
涙が頬を伝った。
完璧な微笑みも、王太子妃としての姿勢も、もう必要なかった。
身体を折り、冷え始めた手へ額を押しつける。
母の死にも流さなかった涙が、次々に落ちた。
返事はない。
当然だった。
彼は最後まで、彼女を選ばなかった。
どれほど泣いていたのか分からない。
西日が温室の硝子を赤く染める頃、アデライドは顔を上げた。
泣いても、結果は変わらない。
アルベルトは亡くなった。
彼女が意図した結果ではない。
けれど死者を戻せない以上、生きている者がすべきことを考えなければならない。
まず証拠を回収する。
上着から書類を抜き取り、内容を確認した。
エリアスの手紙も入っている。
暖炉は使われていなかったため、持参した燐寸で火をつけ、一枚ずつ焼いた。
黒く縮れた紙が灰へ変わるまで見届ける。
次に床を調べた。
温室から遺体を運び出すのは難しい。
離宮には古い地下水路があり、庭園の外れにある湖へ通じている。
幼い頃、アルベルトと二人で入り込み、ひどく叱られたことがあった。
あの水路なら、人目に触れず森まで運べる。
管理人には、殿下は一人で王宮へ戻ったと伝えればよい。
馬は厩に残るが、迎えの馬車を使ったことにできるだろう。
アデライドは立ち上がり、涙の跡を拭った。
鏡代わりの硝子に映る顔は青ざめていたが、取り乱してはいない。
やるべきことがある。
誰かがしなければならないことだった。
ならば、最も上手にできる者がすべきなのだ。
彼女はアルベルトの瞼を閉じさせた。
「仕方のないことでした」
そう告げても、胸の痛みは消えない。
けれど痛みと誤りは同じではない。
必要な選択が、いつも心地よいとは限らなかった。
アデライドは血に濡れた刃物を布で包み、温室の扉へ鍵を掛けた。
庭園には、早くも夜の色が降り始めている。




