第五章 新しい王太子妃
リディア・エヴァンスは、自分が王太子妃に相応しいと思ったことなど一度もなかった。
アデライドが王立学院を去ってから一か月後、彼女は王宮の礼法教室で、三度目の失敗をした。
晩餐会を想定した長机に、銀器と硝子器が並べられている。
教師を務める老侯爵夫人は、リディアが手に取った匙を見て、扇で机を叩いた。
「魚料理に、その匙をお使いになるおつもりですか」
「申し訳ございません」
「謝罪は結構です」
夫人は冷たく言った。
「謝れば国賓の前での失態が消えるとでも?」
「いいえ」
「アデライド様は十二歳で、すべて覚えていらっしゃいました」
その名前が出るたび、リディアの胸が痛んだ。
王宮のどこへ行っても、アデライドの名がある。
廊下の花瓶一つを取っても、彼女が産地と季節を考えて選んだと聞かされた。
晩餐会の規則。
慈善院の制度。
王妃府の記録。
アデライドは何もかも正しく整え、それをリディアが壊した。
少なくとも、宮廷の人々の多くはそう考えている。
「もう一度、初めからお願いいたします」
リディアは頭を下げた。
老侯爵夫人が眉を上げる。
「本日の授業は、すでに二刻を超えております」
「先生がお疲れでしたら、手順を書き写して一人で復習いたします」
「あなたは、お疲れではないのですか」
「疲れております」
リディアが正直に答えると、夫人は意外そうな顔をした。
「ですが、疲れたから覚えられなかったと言えば、次の晩餐会でも間違えます」
夫人はしばらくリディアを見つめ、扇を閉じた。
「では、もう一度だけです」
「ありがとうございます」
「魚料理の際に使うものから」
リディアは一つずつ銀器を確認した。
完璧には程遠い。
それでも、分からないことを分かったふりだけはしないと決めていた。
授業後、廊下へ出るとアルベルトが待っていた。
「終わった?」
「はい」
リディアは笑おうとしたが、疲労が勝った。
アルベルトは彼女の顔を見て眉を下げる。
「無理をさせている」
「必要なことです」
「アデライドと同じことを言うんだね」
リディアは足を止めた。
「申し訳ございません」
「なぜ君が謝るんだ」
「殿下は、その言葉を聞くのがお嫌なのかと」
「嫌というより、怖い」
アルベルトは窓の外へ目を向けた。
「必要だと言われると、何も言えなくなる」
「でしたら、無理をしてほしくないとおっしゃってください」
「言ったところで、君は休まないだろう」
「休めない理由もございますので」
「ほら」
アルベルトは困ったように笑った。
「結局、必要なことを優先する」
「ですが、私は間違えることができます」
「何だって?」
「アデライド様には、間違えることが許されなかったのでしょう」
リディアは廊下の先を見た。
「私は間違えます」
今日も匙を取り違えた。
昨日は挨拶の順序を誤り、その前は公文書へ敬称を一つ多く書いた。
「間違えたら謝り、直します」
「それでいい」
アルベルトはすぐに答えた。
その声があまりに切実で、リディアは胸が苦しくなった。
「殿下」
「うん」
「今からでも、婚約を取りやめることはできます」
アルベルトの表情が消えた。
「また、その話か」
「私が身を引けば、アデライド様とお話し合いになる機会を」
「君まで僕の人生を勝手に決めないでくれ」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
それでもリディアは、頬を打たれたように息を止めた。
アルベルトも、自分の言葉の強さに気づいたらしい。
「すまない」
「いいえ」
「君を責めたいわけじゃない」
「ですが、今の私は、アデライド様と同じことをしました」
リディアは唇を噛んだ。
「殿下のためだと言いながら、殿下の意思を聞かずに結論を出そうとしました」
「僕も、君を困らせた」
「少し、考えさせてください」
アルベルトは頷いた。
「分かった」
引き止めなかったことが、リディアにはありがたかった。
その日の午後、リディアは王太子府の会議へ出席した。
セシルを中心に、各部門の文官が長机を囲んでいる。
以前ならアデライドが一人で判断していた案件を、現在は担当者全員で確認している。
「北方大使の歓迎晩餐会についてです」
セシルが資料を配った。
「過去の記録によれば、夫人は階段で足を傷めておられます」
「それなら、西側の車寄せを使っていただきましょう」
リディアが言うと、一人の文官が頷いた。
「アデライド様も、前回はそのように手配されました」
また名前が出た。
リディアは胸に走った痛みを顔へ出さず、資料をめくる。
「北方大使は強い酒を好まれます」
別の文官が報告する。
「では、食後酒を」
「ただし東方大使は北方産の酒を嫌っておられます」
「別のものを用意しましょう」
「二種類をお出しすれば、北方大使が侮辱と受け取る可能性が」
会議室に沈黙が落ちた。
アデライドなら、即座に正解を出しただろう。
全員の視線が、リディアへ集まる。
王太子妃候補として、判断を求められている。
だが、彼女には正解が分からない。
「皆様は、どうするのがよいと思われますか」
年長の文官が怪訝な顔をする。
「妃殿下のご判断を伺っております」
「私は、まだ妃ではございません」
「しかし」
「それに、私は北方と東方の酒に詳しくありません」
リディアは机の上で指を組んだ。
「知識のない者が、立場だけを理由に判断すれば、失敗します」
「では、どうなさるおつもりで?」
「皆様のお考えを聞かせてください」
最初は戸惑っていた文官たちも、一人ずつ意見を述べ始めた。
酒を使わない。
両国と交易のある第三国の酒にする。
食後酒ではなく、果実を用いた菓子を用意する。
最後に、外交担当の文官が提案した。
「北方の酒を菓子の香りづけに使い、酒自体は東方産のものをご用意してはいかがでしょう」
リディアは他の者を見回した。
「ご意見は?」
反対する者はいなかった。
「では、その方法でお願いいたします」
会議が終わると、セシルが資料をまとめながら言った。
「少し意外でございました」
「何がでしょう」
「妃殿下であれば、ご自分で判断なさるものかと」
「私は、アデライド様ではありません」
リディアは苦く笑った。
「そのことだけは、誰より理解しております」
「卑下なさる必要はございません」
「事実です」
リディアは立ち上がった。
「アデライド様なら、お一人で正しい答えを出されたのでしょう」
「おそらくは」
「ですが、私はできません」
窓から午後の光が差し、長机に積まれた資料を照らしている。
「ですから、私にできる方法を探します」
リディアは一度言葉を切った。
「一人で正しくあれないなら、皆様のお力を借ります」
廊下の向こうに、王妃付きの侍女が立っていた。
その言葉は、翌日には宮廷中へ広まった。
ある者は謙虚だと褒めた。
ある者は王太子妃として頼りないと嘲った。
そして公爵邸へ届く頃には、別の意味へ形を変えていた。
「アデライド様にはなれないから、自分のやり方で王宮を変えるとおっしゃったそうです」
調査役の男は、アデライドの前で頭を下げた。
「なるほど」
アデライドは報告書を閉じた。
自分が去って、まだ一か月。
それにもかかわらず、リディアはすでに王宮を自分のやり方へ作り替えようとしている。
「ずいぶんと、ご立派なことで」
「お嬢様」
マリアンヌが静かに呼んだ。
「何かしら」
「リディア様は、ご自分がアデライド様には及ばないと認められたのでは?」
「言葉だけなら、何とでも申せます」
「では、何とおっしゃればご満足なさったのですか」
アデライドは報告書へ視線を落とした。
答えは明白だと思った。
自分には王太子妃など務まらない。
アデライド様にお返しします。
リディアがそう言えば、すべては正しい形へ戻る。
だが、その言葉を口に出せば、自分がアルベルトとの復縁を望んでいると認めることになる。
「満足の問題ではありません」
アデライドは報告書を机へ置いた。
「王国にとって、どちらが有益かという問題です」
マリアンヌは何も言わなかった。
その沈黙が、アデライドにはなぜか非難のように感じられた。




