第三章 未来の王妃が作られるまで
アデライドが初めてアルベルトに会ったのは、八歳の春だった。
その日の彼女は、王太子の婚約者ではなかった。
公爵令嬢らしくもなかった。
母に隠れて庭園の林檎の木へ登り、最も高い枝になった赤い実を取ろうとしていた。
「アデライド」
下から母に呼ばれ、彼女は葉の間に身を隠した。
「いないの?」
いると答えれば叱られる。
黙っていれば見つからない。
幼いアデライドはそう考えたが、枝の下からは泥で汚れた靴が丸見えだった。
「お嬢様」
若い頃のマリアンヌが木の下へ来た。
「そちらにいらっしゃるのは、よく存じております」
「いないわ」
「それは失礼いたしました」
「今日は誰にも会いたくないの」
「本日は王太子殿下がお見えになります」
「だからよ」
アデライドは頬を膨らませた。
「王子様なんて、きっと偉そうだもの」
「お会いしたこともない方を、そのように決めつけてはいけません」
「わたしがこの木に登っていたことを、お父様に言いつけるわ」
「それはお嬢様がお戻りにならなかった場合、奥様へご報告申し上げます」
「マリアンヌの意地悪」
「よく存じております」
アデライドは枝から下りようとして、足を滑らせた。
悲鳴を上げる間もなく落ちる。
だが地面へ叩きつけられる直前、誰かが小さな身体を受け止めた。
マリアンヌではなかった。
金色の髪をした少年が、アデライドと一緒に芝生へ倒れ込んでいる。
「痛い」
少年は涙目で呟いた。
その服に縫いつけられた白鷹の紋章を見て、アデライドは彼が誰なのか理解した。
「王子様?」
「たぶん」
「たぶんなの?」
「僕は王子だけど、君が言っている王子が僕かは分からない。」
アデライドは声を上げて笑った。
アルベルトもつられて笑った。
駆けつけた大人たちは青ざめたが、二人に怪我はなかった。
それが、すべての始まりだった。
二人はすぐに親しくなった。
アルベルトは偉そうではなかった。
むしろ気が弱く、護衛や教師の目を盗んではアデライドの後ろへ隠れた。
庭園で迷えば、彼女が手を引いた。
欲しい菓子を料理人へ言えなければ、代わりに頼んだ。
馬に乗るのを怖がれば、隣で同じ速さに合わせて走った。
「君は何でもできるんだね」
アルベルトは目を輝かせた。
「何でもじゃないわ」
「僕より、ずっとできる」
「わたしの方がお姉さんだもの」
「一月だけだろう」
「一月でもお姉さんよ」
アデライドは胸を張った。
「だから、わたしがアルを守ってあげる」
アルベルトは嬉しそうに笑った。
「ずっと?」
「ずっとよ」
「それなら、僕のお嫁さんになって」
「いいわ」
子供同士の約束だった。
しかし大人たちは、その約束に政治的な価値を見いだした。
グランフェルト公爵家は王国内でも最大の領地を持ち、軍部と財務院の双方へ強い影響力を有している。
王太子と公爵令嬢が互いを気に入っているなら、両家を結ぶうえで、これほど都合のよいことはない。
二人が九歳になった年、婚約は正式に結ばれた。
アデライドは白いドレスを着せられ、王宮の大広間でアルベルトと並んだ。
「本日より、あなたは未来の王太子妃です」
王妃は幼いアデライドの前に膝をつき、両手を握った。
「いつかアルベルトを支え、この国の母となるのです」
「はい」
「決して容易な道ではありません」
「分かっています」
本当は分かっていなかった。
けれどアルベルトの隣にいられるなら、どのような勉強も難しくないと思っていた。
その日から、アデライドの時間は王妃教育によって埋められた。
朝は夜明け前に起き、王国史を学ぶ。
朝食後は二つの外国語。
昼からは礼法、舞踏、音楽、宗教、紋章学。
夕刻には政治と経済の基礎。
夕食の席でも、料理の味より、客人との会話を学ぶことを求められた。
最初の一年で、木登りは禁止された。
転落して傷を残せば、王太子妃として相応しくないからだ。
二年目には、絵の稽古をやめた。
アデライドは絵が好きだったが、教師は才能が人並みであると評した。
王太子妃が人並みの才能に時間を使う必要はないと父から言われ、彼女は絵筆を箱へ戻した。
三年目には、親しかった令嬢たちとの旅行を断った。
同じ時期に隣国の使節団が来訪し、彼らの言語を学ぶ必要があったからである。
「寂しくないの?」
アルベルトに尋ねられた。
「何が?」
「友達と旅行に行きたかったんだろう」
「来年でも行けます」
「来年も忙しいんじゃないかな」
「王太子妃になるのですから、当然です」
アデライドは笑った。
「これくらい、何でもありません」
アルベルトは何かを言いたそうにしていた。
だが、結局口を閉じた。
十五歳の夏、アデライドの母が病に倒れた。
その日は南方使節団を迎える晩餐会が予定されており、王妃も体調を崩していた。
王太子の婚約者として、アデライドが女主人の代理を務めることになっている。
晩餐会の朝、公爵邸から母の容体が悪化したとの知らせが届いた。
「帰った方がいい」
アルベルトは言った。
「ですが、今夜の席には南方の王弟殿下が出席なさいます」
「晩餐会なら、別の者に任せればいい」
「誰に?」
尋ねると、アルベルトは答えられなかった。
王妃に代わって王族の客人を迎えられる女性は、宮廷でも限られている。
急な変更を行えば、南方使節団へ無用な不安を与える。
「母も、わたくしが帰ることを望みません」
「聞いたの?」
「聞かなくても分かります」
「でも」
「わたくしは大丈夫です」
アデライドは晩餐会を完璧に取り仕切った。
南方の王弟からは、十五歳とは思えない立派な女主人だと称賛された。
その夜、公爵邸へ戻ったとき、母はすでに亡くなっていた。
最期に娘の名前を呼んでいたと、マリアンヌから聞かされた。
アデライドは母の寝台のそばで朝まで座った。
泣かなかった。
自分が正しい選択をしたと、何度も胸の中で繰り返した。
国のために必要なことだった。
母も理解している。
誰かがしなければならないことだった。
ならば、最も上手にできる自分がすべきだった。
翌朝、父は娘を抱き締めた。
「お前は我が家の誇りだ」
アデライドはその言葉を、失われた母の代わりに胸へしまった。
十六歳になったアルベルトは、海軍への視察から戻った日、珍しく興奮していた。
「アデライド、海を見たことはある?」
「幼い頃に一度だけ」
「水平線は、本当に端がないように見えるんだ」
アルベルトは両腕を広げた。
「船の上では風が強くて、声を張らないと何も聞こえない」
「それは大変でしたね」
「大変だけど、楽しかった」
彼の机には、海軍士官の帽子が置かれている。
視察先で借りたものらしい。
「僕は、海軍に入りたい」
アデライドは冗談だと思った。
しかしアルベルトの瞳は真剣だった。
「王太子殿下が、海軍へ?」
「士官として船に乗ってみたい」
「不可能です」
アデライドは即座に答えた。
アルベルトの顔から喜びが消える。
「どうして?」
「王位継承者が海へ出るなど、危険に過ぎます」
「でも、父上も若い頃に軍へ」
「陛下は第二王子でいらっしゃいました」
「一年だけでもいい」
「一年の間に戦争が起きれば、どうなさるのです」
「戦争が起きなければ」
「嵐も、海賊もございます」
アデライドは机の上の帽子を取り、侍従へ渡した。
「王となられる方が、個人的な憧れだけで危険へ身を投じるべきではありません」
「憧れだけじゃない」
「殿下」
アデライドは幼い弟を諭すように、声を柔らかくした。
「国王陛下にも王妃陛下にも、ご心配をおかけします」
「君も、心配する?」
「もちろんでございます」
「だから、反対するの?」
「殿下のためです」
アルベルトは長い間黙っていた。
「そうか」
最後には、それだけを答えた。
海軍士官の帽子は、その後二度と彼の部屋に現れなかった。
婚約破棄から三日後、アデライドは王妃教育に使っていた部屋へ入った。
壁一面の書棚に、各国語の辞書や法律書が並んでいる。
大机の上には、結婚後の宮廷改革案が置かれたままだった。
慈善院の管理制度を改め、寄付金の流れを明確にする。
地方領主の娘を王都へ招き、宮廷で教育を受ける機会を与える。
王妃府の経費を削減し、孤児院へ回す。
すべて、王太子妃となったあとに実現するつもりだった計画である。
アデライドは椅子へ座り、一冊ずつ資料を閉じた。
必要とされなくなった計画を残しても意味がない。
机の引き出しから鍵を取り出そうとしたとき、一枚の紙が落ちた。
幼い頃に描いた絵だった。
庭園の林檎の木。
その下に立つ、金髪の少年と少女。
絵の中の少女は、口を大きく開けて笑っている。
「ずいぶん、品のない笑い方ね」
アデライドは呟いた。
背後にいたマリアンヌが、絵を覗き込む。
「楽しそうでいらっしゃいます」
「子供だったのよ」
「左様でございますね」
「王太子妃となる者が、このような顔で笑うわけにはいかないでしょう」
「もう、王太子妃ではございません」
アデライドの指が止まった。
マリアンヌは表情を変えない。
「でしたら、またそのように笑ってもよろしいのでは?」
「今さら、笑い方など変えられません」
アデライドは絵を引き出しへ戻した。
机上の改革案を箱へ収め、蓋を閉じる。
「倉庫へ運んでください」
「処分なさらないのですか」
「いずれ、必要になるかもしれません」
「誰にとって?」
アデライドは答えなかった。
窓から差し込む春の光が、閉ざされた箱の表面を照らしている。
十年をかけて未来の王妃は作られた。
その未来だけが取り上げられ、残された女が何者なのかを、誰も教えてはくれなかった。




