第二章 王妃でなくなった娘
公爵邸の正門には、当主コンラート・フォン・グランフェルトが立っていた。
彼はアデライトより先に公爵邸に戻り娘を出迎えようとしていたのだ。
夜着の上から外套だけを羽織り、急いで戻った際に乱れた髪は整える暇もなかったらしくただ風になびかせている。
そして公爵家の当主が、娘の帰宅を玄関の外で待つことなど一度もなかった。
馬車が止まるより早く、コンラートは石段を下りた。
御者が扉を開く。
アデライドが差し出された手へ指を載せると、父はその手を両手で包んだ。
「アデライド」
「ただいま戻りました、お父様」
「すまなかった」
謝罪から始まったことが、アデライドには不思議だった。
婚約破棄を了承した父が、なぜ謝るのか。
「何についてでございましょう」
「今夜、あのような形で発表されるとは知らなかった」
コンラートの声には、隠しようのない怒りが滲んでいる。
「国王陛下より婚約の再検討を告げられたのは三日前だ」
「三日前」
「あくまで打診だと聞いていた」
「では、お父様は反対なさらなかったのですね」
コンラートの手が強張った。
「反対した」
「それでも王家の決定に従った」
「王命だ」
「王命であれば、娘の人生を差し出すことも公爵家の義務でございます」
「違う」
「何が違うのでしょう」
アデライドは責めたつもりではない。
事実を整理しようとしているだけだった。
しかし父は、刃物を突きつけられたように息を詰めた。
その反応を見て、アデライドは自分の言葉が適切でなかったと判断した。
「申し訳ございません」
「謝るな」
父の声が荒れた。
「今夜、謝るべきなのはお前ではない」
使用人たちが玄関の奥から心配そうに見ている。
彼らにこれ以上の会話を聞かせるべきではない。
「中へ入りましょう」
アデライドは父の腕へ手を添えた。
「お風邪を召されます」
コンラートは何かを言いかけたが、結局、娘と並んで屋敷へ入った。
公爵邸の応接室には火が入れられていた。
季節は春を迎えているものの、夜の空気はまだ冷たい。
マリアンヌが紅茶を用意し、他の使用人を退出させる。
コンラートは長椅子へ座ろうともせず、暖炉の前を行き来していた。
「婚約解消の正式な文書は、まだ届いていない」
「明日には届くでしょう」
「届いたところで、署名するつもりはない」
「お父様」
「グランフェルトを侮辱して、何事もなかったように済むと思わせるな」
アデライドは紅茶へ角砂糖を一つ落とした。
銀匙を三度回し、音を立てずに受け皿へ戻す。
「王家との全面的な対立は避けるべきです」
「お前は、自分が何をされたのか分かっているのか」
「理解しております」
「ならば、なぜそのように冷静でいられる」
「わたくしが取り乱せば、状況が改善するのでしょうか」
コンラートが言葉に詰まった。
「婚姻契約には、王家から当家へ譲渡される予定だった鉱山の権利が含まれております」
アデライドは指を組んだ。
「契約解消に伴い、王家は代替となる補償を提示するはずです」
「金の話をしているのではない」
「当家に仕える者は、分家を含めれば数千人に及びます」
アデライドは父の目を見た。
「わたくし一人の感情で、彼らの生活を危険にさらすことはできません」
コンラートの怒りが、行き場を失って萎んでいく。
娘が正しいと分かっているからこそ、反論できない。
「明日、家令に婚姻契約書を確認させます」
「お前がする必要はない」
「わたくしが最も内容を理解しております」
「だからこそ、今は休めと言っている」
「休んだところで、変わることはございません」
コンラートは深く息を吐き、ようやく長椅子へ座った。
疲れ切った顔をしている。
父は今夜、何歳も年を取ったように見えた。
アデライドは不意に、自分が父を困らせていることに気づいた。
婚約を破棄された娘が泣きもせず、契約と補償の話を始めたのだから、どう扱えばよいのか分からないのだろう。
「心配をおかけして申し訳ございません」
「そうではない」
「では、何をお望みですか」
尋ねると、父はますます苦しそうな顔になった。
「望みなどではない」
「わたくしにしてほしいことがあるのでは?」
「アデライド」
コンラートは娘の名前を呼んだ。
「お前は、悲しくないのか」
答えるべき言葉が見つからなかった。
悲しいかと問われれば、おそらく悲しい。
胸には大きな穴が空いており、その周囲から少しずつ身体が崩れているような感覚がある。
しかし、それを悲しみと呼んだ瞬間、すべてが現実になってしまう。
アルベルトの妻にはなれない。
半年後の結婚式は行われない。
王妃となる日は来ない。
十年をかけて築いた未来が失われた。
そのすべてが決定したこととして、彼女の中へ定着してしまう。
「今は、判断できません」
アデライドは慎重に答えた。
「そうか」
コンラートは俯いた。
炎の爆ぜる音だけが、広い部屋へ響く。
「婚約解消の話が出たとき、私は陛下に申し上げた」
「何と?」
「娘に非があるなら、明確に示してほしいと」
父の拳が膝の上で震える。
「陛下は、お前に非はないと仰せになった」
「殿下と同じお答えです」
「王太子殿下が、お前との結婚を望まれていない」
「存じております」
「それだけなのだ」
コンラートは顔を上げた。
「お前が何かを失敗したわけでも、リディア嬢がお前より王太子妃として優れているわけでもない」
「それでしたら、なおさら不合理でございます」
「人の心は、合理だけでは動かぬ」
アデライドは目を伏せた。
今夜、アルベルトも同じようなことを言った。
正しいかどうかだけで決められることではない、と。
「不合理な判断によって、国家の未来を左右されては困ります」
「今は国家の話をしているのではない」
「では、何の話でしょう」
「お前の人生だ」
アデライドは答えなかった。
国家と切り離された自分の人生というものを、うまく想像できない。
八歳で婚約が決まってから、彼女の未来は王国の未来と重ねられてきた。
何を学ぶか。
誰と交友を持つか。
どのように笑うか。
どの色の服を着るか。
すべて、未来の王妃として適切であるかどうかによって決められた。
今になって突然、自分の人生を考えろと言われても、何を基準に選べばよいのか分からない。
「王妃にならなくとも、お前は私の娘だ」
父の声は、ひどく優しかった。
アデライドは微笑んだ。
「ありがとうございます」
それが正しい返事だと知っていたから、そう答えた。
しかし胸の内側では、別の言葉が響いている。
王妃になれなくとも。
その言葉は慰めではなく、王妃になれない事実を改めて突きつける宣告にしか聞こえなかった。
自室へ戻ったあとも、アデライドは眠れなかった。
マリアンヌに手伝われて祝賀会のドレスを脱ぎ、寝間着へ着替えたものの、寝台に横になる気にはなれない。
「何か温かいものをお持ちしましょうか」
「結構です」
「では、湯たんぽを」
「必要ありません」
「眠り薬は?」
「マリアンヌ」
アデライドは侍女を振り返った。
「わたくしを病人のように扱わないでちょうだい」
「病人なら、もう少し素直に寝台へ入ってくださるでしょうね」
マリアンヌは淡々と答えた。
「健康なお嬢様の方が、よほど手がかかります」
「あなたは、わたくしを慰めたいのか、怒らせたいのか、どちらなの?」
「少し怒っていただければ、その勢いで泣けるかと存じまして」
「泣きません」
「左様でございますか」
マリアンヌはそれ以上勧めなかった。
アデライドは窓辺に立った。
庭園は闇に沈み、噴水だけが月光を受けて白く浮いている。
幼い頃、アルベルトはこの庭園で迷子になったことがある。
王太子が公爵邸を訪れた最初の日だった。
護衛から逃げ出し、生け垣の奥で泣いていた彼を、アデライドが見つけた。
手を引いて屋敷まで連れ帰ると、アルベルトは涙で濡れた顔のまま笑った。
あのとき彼は何と言っただろう。
君は何でも知っているんだね。
僕のそばにいて。
そう言ったはずだ。
だから、そばにいた。
彼が道を間違えそうになるたび、正しい方へ手を引いた。
なのに、彼はその手を振り払った。
「マリアンヌ」
「はい」
「王太子殿下とリディア・エヴァンス嬢について、どの程度知っていますか」
侍女はわずかに間を置いた。
「学院の慈善活動を通じて、お知り合いになられたと伺っております」
「いつ頃から?」
「一年ほど前かと」
「一年」
それほど長い間、アルベルトは別の女を見ていたのだ。
昨夜も、先月も、その前の冬も。
アデライドと結婚の予定を話しながら。
「お嬢様」
「何かしら」
「お調べになるおつもりですか」
「状況を把握する必要があります」
「把握して、どうなさいます」
「それは、把握したあとで判断します」
マリアンヌの目が細くなる。
彼女はいつも、アデライドが答えたくない問いを正確に見抜く。
「お嬢様は、何があれば納得なさるのでしょう」
「意味が分かりません」
「リディア様が殿下を誘惑した証拠が見つかれば、納得なさいますか」
「そのようなことは申しておりません」
「では、何も見つからなければ?」
アデライドは窓の外へ視線を戻した。
「理由のない結果などありません」
水面を打つ噴水の音が、夜の庭に響いている。
「必ず、原因があるはずです」
マリアンヌはしばらく黙っていた。
「承知いたしました」
その答えに満足し、アデライドは頷いた。
「エヴァンス子爵家の財政状況、交友関係、リディア嬢の学院内での行動を調べてください」
「かしこまりました」
「殿下との接触が始まった時期も」
「はい」
「ただし、誰にも気づかれないように」
マリアンヌは一礼した。
その顔には、侍女としての従順さしかない。
だが部屋を出る直前、彼女は足を止めた。
「お嬢様」
「まだ何か?」
「原因が見つかったとしても、それがお嬢様の望むものとは限りません」
アデライドは微笑んだ。
「真実に、望むも望まないもないでしょう」
マリアンヌは返事をせず、扉を閉めた。
一人になったアデライドは、再び夜の庭を見下ろした。
真実を知れば、すべてを正しい形へ戻せる。
そのときの彼女は、疑いすら抱いていなかった。




