第一章 完璧な婚約者の終わり
王立学院の卒業祝賀会において、未来の王妃が自ら銀盆を持つなど、あってはならないことだった。
それでもアデライド・フォン・グランフェルトは、給仕の手から盆を受け取った。
載っているのは六脚のシャンパングラスであり、そのうち一脚だけ、磨き方が足りない。
大広間を埋め尽くす燭台の光を受け、縁の近くに小さな曇りが浮いている。
祝宴を楽しむ者なら気にも留めないほどの曇りだったが、今夜ここには西方三国の大使夫妻が招かれていた。
不手際を見つけて笑い話にできる者もいれば、エルミア王国の宮廷が弛緩している証拠として、本国への報告書に記す者もいる。
目の前の給仕はまだ若く、己が何を見落としたのかも分からずに青ざめていた。
「こちらは厨房へ戻してください」
アデライドは問題の一脚だけを盆から取り、給仕へ渡した。
「新しいものを用意して、三番卓へ」
「も、申し訳ございません、アデライド様」
「謝罪は必要ありません」
アデライドは給仕が萎縮しない程度に微笑んだ。
「次に同じものを見つけられれば、それで十分です」
「はい」
返事をした青年の肩から、目に見えて力が抜けた。
彼が厨房へ下がるのを見届け、アデライドは盆を別の給仕へ預けた。
祝賀会が始まって、まだ四半刻も経っていない。
それにもかかわらず、すでに席順の誤りを一つ直し、東方大使の夫人が食べられない香草を料理長へ伝え、緊張のあまり気分を悪くした男爵令嬢を休憩室へ送り届けている。
本来であれば、そのどれもアデライドの仕事ではない。
今夜の彼女は王立学院を卒業する学生であり、同時に王太子アルベルトの婚約者として、祝いを受ける側なのだから。
だが、彼女が動かなければ、誰かが失敗する。
失敗した者は叱責され、祝宴には小さなしこりが残る。
アデライドがほんのわずかに手を伸ばせば避けられる不幸を、見過ごす理由はなかった。
「相変わらず、よくご覧になっておられますな」
背後から声をかけたのは、白い口髭を蓄えたラウル・バルディエ大使だった。
アデライドは即座に向き直り、ドレスの裾を摘まんだ。
「バルディエ大使」
相手の国の作法に合わせ、腰ではなく膝を浅く折る。
「今宵はご臨席を賜り、心より御礼申し上げます」
「祝いの席でまで働かれるとは、エルミアの未来は安泰ですな」
「わたくしは何もしておりません」
「それほど巧みに何かをなさる方は、得てしてそうおっしゃる」
大使は上機嫌に笑った。
「殿下は果報者でいらっしゃる」
その言葉に、アデライドは完璧な角度で微笑んだ。
「もったいないお言葉でございます」
大使は満足げに頷き、他の招待客のもとへ向かった。
その背中を見送りながら、アデライドはさりげなく広間を見渡した。
天井から吊り下げられた十二基の硝子灯が、磨き上げられた床に光の花を咲かせている。
楽団が奏でる曲は南方の古典舞曲で、速すぎず、会話の邪魔にもならない。
各卓の花は白薔薇と青いデルフィニウムで統一され、王家とグランフェルト公爵家の色を表していた。
今夜のために選んだ組み合わせである。
彼女とアルベルトが卒業する、記念すべき夜だった。
十年前に正式な婚約を結んだ二人が、学生という立場を終え、王太子とその妃となる準備を本格的に始める夜でもある。
半年後には結婚式が執り行われる。
その後は王太子府へ入り、二年をかけて宮廷運営の実権を王妃から引き継ぐ予定になっている。
婚礼衣装の仮縫いは、来週から始まるはずだった。
「アデライド」
聞き慣れた声に呼ばれ、彼女の微笑みがわずかに柔らかくなった。
正面から歩いてくるアルベルトは、王家の色である深紅の礼装に身を包んでいた。
淡い金髪は丁寧に整えられているものの、左側の一房だけが言うことを聞かず、幼い頃と同じように少し跳ねている。
アデライドはそれを指摘しかけ、思いとどまった。
今から直す場所も時間もない。
人前で髪に触れるのも、王太子の婚約者として軽率に見えるだろう。
「殿下」
アデライドは一礼した。
「開会のご挨拶、お見事でございました」
「ああ」
アルベルトの返事は妙に短かった。
顔色もあまりよくない。
「お加減が優れませんか」
「そういうわけではないんだ」
「では、何かご心配事が?」
「少し、話したいことがある」
「承知いたしました」
アデライドは広間の奥にある休憩室へ視線を向けた。
「こちらが落ち着きましたら、別室へ参りましょう」
「いや」
アルベルトの声が強張った。
「今、ここで話す」
アデライドは初めて、婚約者の異様な緊張に気づいた。
彼の右手は拳を作り、爪が食い込むほど強く握られている。
演説を行ったばかりだから、緊張が抜けていないのかもしれない。
だが、アルベルトは人前での挨拶に慣れている。
今夜の原稿も昨夜まで二人で確認しており、難しい内容ではなかった。
「皆にも、聞いてもらいたい」
アルベルトが楽団へ片手を上げた。
指揮者はあらかじめ合図を知らされていたらしく、即座に演奏を止める。
楽器の余韻が消えていくにつれ、広間を満たしていた会話も薄れていった。
数百人分の視線が、一斉に二人へ集まった。
アデライドの胸に、形のない違和感が落ちる。
このような余興について、彼女は何も聞いていない。
卒業生代表としての挨拶はすでに終わっている。
王太子から新たな発表があるなら、宮内府を通して予定表に記載されるはずである。
壇上の脇には、王と王妃が並んで座っていた。
王妃の顔が強張っている。
王は何かを堪えるように、肘掛けを強く握っていた。
彼らも知っている。
少なくとも、アデライドよりは。
「今宵、僕から皆に伝えるべきことがある」
アルベルトの声が広間に響いた。
一度言葉を切り、彼はアデライドを見た。
その目にあるものを、彼女は読み取れなかった。
怒りではない。
憎しみでも、軽蔑でもない。
強いて名をつけるなら、恐怖に近い。
「アデライド・フォン・グランフェルト公爵令嬢」
なぜ、今さら家名を添えて呼ぶのだろう。
アルベルトが人前で彼女を正式名で呼ぶのは、婚約を結んだ日の宣誓以来だった。
「僕は、君との婚約を解消する」
耳に届いた音が、意味のある言葉として形を結ばなかった。
アデライドは微笑んだまま、婚約者の顔を見ていた。
アルベルトの唇が、まだ何かを語っている。
広間が水の底へ沈んだように遠くなり、天井の硝子灯だけが異様な明るさを増す。
笑い声は聞こえない。
悲鳴も、囁きもない。
けれど数百人の沈黙が、一斉に彼女の肌へ触れていた。
「これは王家とグランフェルト公爵家、双方の了承を得た正式な決定だ」
今度の言葉は理解できた。
王家だけではない。
父も知っていたのだ。
アデライドは壇上の近くに立っている父を探した。
コンラート・フォン・グランフェルト公爵は、血の気を失った顔で娘を見ている。
了承した者の顔ではなかった。
だが、否定もしない。
つまり、決定そのものは覆らない。
「理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
口から出た声は、自分のものとは思えないほど静かだった。
アルベルトの喉が動く。
「僕は、君と夫婦にはなれない」
「それは理由ではなく、結論でございます」
何人かが息を呑んだ。
アデライドは責めたつもりではなかった。
ただ、問いに対する答えが適切でなかったから訂正したにすぎない。
それなのにアルベルトは、ひどく傷ついたような顔をした。
「君は、何も間違えていない」
「では、なぜでございますか」
「正しいかどうかだけで決められることではないからだ」
意味が分からない。
婚姻は王家と公爵家を結ぶ国家的な契約であり、王太子妃の選定は王国の未来を左右する。
好き嫌いだけで決めてよいものではない。
まして、アデライドは王太子妃となるために必要な教育をすべて修めている。
王国史も、近隣諸国の言語も、税制も、軍制も学んだ。
王妃が病に伏せた際には代わって晩餐会を取り仕切り、若いながらも大使たちから信頼を得ている。
何を間違えたのかと尋ねても、何も間違えていないという。
ならば、なぜ自分が退けられるのか。
「そして、僕には新たに婚約を望む相手がいる」
広間の一角で、人の波が割れた。
そこに立っていたのは、栗色の髪をした令嬢だった。
白いドレスは簡素で、高価な宝石も身につけていない。
リディア・エヴァンス子爵令嬢。
学院では慈善活動委員会に所属していたが、成績も家柄も特筆するほどではなかった。
アデライドも何度か言葉を交わしたことがある。
目立たず、礼儀正しく、友人の多い娘だった。
「リディア」
アルベルトに呼ばれ、リディアは一歩を踏み出した。
その足が震えている。
伏せられた唇も細かく震え、笑みを隠そうとしているように見えた。
アデライドの中で、意味を持たなかった出来事が急速につながっていく。
近頃、アルベルトが慈善院を訪れる回数が増えていた。
リディアは学院と慈善院をつなぐ役割を担っている。
二人が話している姿も、何度か見かけた。
それでも、特別な関係だとは考えなかった。
考える必要がなかった。
アルベルトの婚約者は自分であり、将来の王妃も自分だったからだ。
「彼女とともに生きたいと思っている」
アルベルトはリディアの隣へ立った。
アデライドが十年間守り続けてきた位置に、別の女が立っている。
胸の奥にあった違和感が、ようやく刃物の形を得た。
「アデライド」
アルベルトの声が、今にも途切れそうに揺れた。
「すまない」
謝るのなら、なぜするのだろう。
彼女を傷つけると分かっているなら、なぜ衆人の前で宣言したのだろう。
なぜ昨日まで、何も言わなかったのだろう。
昨夜、二人はこの祝賀会の演説原稿を確認した。
アルベルトは紅茶を飲み、アデライドは彼が言いにくそうにしていた一節を整えた。 別れの素振りなど、どこにもなかった。
アデライドの右手がわずかに震えた。
扇を開き、その震えを隠す。
視線を巡らせれば、誰も彼女を見ていた。
同情。
好奇心。
憐憫。
あるいは、自分が選ばれなくて安堵している令嬢もいるかもしれない。
ここで泣けば、アデライドは生涯、婚約破棄されて泣き崩れた女として語られる。
怒りを露わにすれば、アルベルトの選択は正しかったと証明することになる。
縋りつけば、リディアの勝利を完成させる。
だからアデライドは扇を閉じた。
そして、未来の王妃として十年をかけて身につけた、最も美しい微笑みを浮かべた。
「承知いたしました」
アルベルトが目を見開いた。
「王太子殿下のご決断に、元婚約者であるわたくしが異を唱えるのは相応しくございません」
「アデライド、僕は」
「ただし、婚約解消に伴う公爵家との契約整理につきましては、後日、正式な文書をお送りくださいませ」
アルベルトの言葉を遮ったことなど、これまで一度もなかった。
だが今は、彼の言葉を聞きたくなかった。
どれほど柔らかな言葉を重ねられても、告げられた事実は変わらない。
アデライドは腰に提げていた小さな鍵束を外した。
王太子府の執務室、資料室、応接室、東離宮の書庫。
いずれも王太子の婚約者として預けられていた鍵である。
続いて指から青玉の指輪を抜いた。
王家の印章を簡略化した紋が刻まれており、彼女の指示が王太子府の正式な命令であることを示す。
最後に、胸元へ留めていた白鷹の徽章を外す。
それらを近くにいた王宮侍従の銀盆へ、順番に置いた。
金属の触れ合う音が、静まり返った広間へいやに鮮明に響いた。
「王太子府よりお預かりしていた品でございます」
「今、返さなくてもいい」
「いいえ」
アデライドは微笑んだまま答えた。
「婚約者でない者が王太子府の鍵と印章を持つことは、保安上、適切ではございません」
「そういう話をしているんじゃない」
「王太子府の安全以上に、優先すべきお話がございますか」
アルベルトは何も言えなくなった。
アデライドは今夜の祝宴のために作成した予定表を侍従へ渡した。
「西方大使夫妻のお帰りは九時半を予定しております」
「は、はい」
「夫人は階段で足を痛めていらっしゃいますので、正面ではなく西側の車寄せへ馬車を回してください」
「承知いたしました」
「食後酒は北方産のものを」
侍従が慌てて頷く。
「東方大使は北方の酒を好まれませんので、別に葡萄酒をご用意ください」
「アデライド」
王妃の声がした。
いつも厳しく、凜としている女性が、今は泣き出しそうな顔をしている。
「もうよいのです」
その言葉で、アデライドはようやく理解した。
自分はもう、ここで指示を出す資格を持っていない。
先ほどまで彼女が気づけば防げた不手際は、これからは彼女の責任ではなくなる。
「出過ぎた真似をいたしました」
アデライドは王と王妃へ一礼した。
「これまで賜りましたご厚情に、心より御礼申し上げます」
「待ちなさい」
王妃が立ち上がろうとする。
しかしアデライドは待たなかった。
王妃に慰められれば、耐えられなくなる。
優しくされれば、今まで自分が愛されていたと錯覚してしまう。
愛されていたのなら、捨てられないはずだった。
アデライドは父へ目礼し、出口へ向かった。
人々が道を開ける。
誰一人として話しかけてこない。
聞こえるのは靴音だけだった。
背後でリディアが何かを言った。
「お待ちください」と聞こえた気もする。
振り返らなかった。
勝者からの同情ほど、敗者を惨めにするものはない。
大扉の前に立っていた近衛将校が、彼女のために扉を開いた。
エリオット・ヴァレン中尉。
何度も王宮警備の打ち合わせをしたことがある青年で、アデライドの能力を高く評価していた。
彼は青ざめ、何か言いたそうに唇を動かした。
だが、軍人としての規律が私情を押しとどめる。
「お帰りのお支度を整えます」
「お願いいたします」
「護衛をおつけします」
「必要ございません」
「しかし」
「わたくしは、もう王太子殿下の婚約者ではありません」
エリオットの眉が苦しげに寄った。
「それでも、公爵令嬢であられます」
アデライドは一瞬だけ、返す言葉を失った。
何もなくなったわけではない。
王太子妃でなくなっても、自分はグランフェルト公爵家の娘だ。
頭では理解できたが、その事実は奇妙なほど慰めにならなかった。
「では、お言葉に甘えます」
玄関前にはすでに公爵家の馬車が回されていた。
マリアンヌが扉の脇で待っている。
彼女はアデライドの顔を見ても驚かず、いつもと同じように一礼した。
「お帰りでございますか、お嬢様」
「ええ」
「ずいぶんと早いご帰宅でございますね」
「祝うべきことがなくなりましたから」
マリアンヌは何も尋ねなかった。
アデライドが乗り込んだあとに続き、向かいの席へ座る。
馬車の扉が閉じた。
広間の光も、人々の視線も、重い木の扉によって遮られた。
車輪が動き出す。
その瞬間、アデライドの肺から息が漏れた。
微笑みを保つ必要がなくなったはずなのに、頬の筋肉が張りついたまま動かない。
手を開こうとして、指が固まっていることに気づく。
右手の手袋が破れ、掌に四つの赤い三日月が刻まれていた。
爪が皮膚へ食い込んでいる。
それを見つめているうちに、マリアンヌが座席を移った。
向かいではなく、アデライドの隣へ腰を下ろす。
「お嬢様」
「何かしら」
「泣いてもよろしいのですよ」
アデライドは侍女を見た。
幼い頃からそばにいる、姉のような女だった。
この女の前なら、泣いても許されるのかもしれない。
そう思った途端、喉の奥まで何かが込み上げた。
だが、アデライドはそれを飲み込んだ。
「なぜ、わたくしが泣くのです?」
マリアンヌは答えなかった。
ただ、アデライドの手袋を外し、傷ついた掌を布で包む。
馬車の窓から、王宮の灯が遠ざかっていく。
十年間、あの場所で生きるために努力してきた。
十年をかけて覚えた言葉も、作法も、笑い方も、今夜の短い宣言一つで意味を失った。
それでもアデライドは泣かなかった。
泣く必要などない。
王宮は明日の朝には、彼女がいなくなったことの意味を知るだろう。
アルベルトも、やがて理解する。
誰が彼の予定を整えていたのか。
誰が彼の失言を事前に防いでいたのか。
誰が大臣たちの利害を調整し、王太子の決定が正しく見えるよう支えていたのか。
リディア・エヴァンスにはできない。
王太子妃教育すら受けていない子爵令嬢が、アデライドの代わりになれるはずがない。
アデライドは包帯の巻かれた掌を膝の上へ置いた。
胸の中で砕け散った未来を、一つずつ拾い集めるように息を整える。
「すぐに、お気づきになります」
「何にでございましょう」
「あの方が、何を捨てたのかに」
窓硝子に映るアデライドは、まだ美しく微笑んでいた。




