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婚約破棄された完璧令嬢は、微笑みのまま王都を去る~王太子に選ばれなかった私が、自由を手に入れるまで~   作者: カルラ


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第十八章 海の見える席

セレーネの海は、正午を過ぎると青さを増した。

白い石壁へ反射した陽光が街全体を明るく照らし、海岸通りには夏の祭りを迎える人々が行き交っている。

窓辺には色鮮やかな布が飾られ、広場では楽団が陽気な曲を奏でていた。

海に張り出した高台のレストランは、街でも特に眺めがよいことで知られている。

テラスの下には白い砂浜が続き、その先に商船の群れと水平線が広がっていた。

アデライドは、最も海に近い席へ座っていた。

セレーネでは、誰も彼女をアデライドとは呼ばない。

アデル・グラン。

夫を海で失い、わずかな遺産を元手に商売を始めた異国の未亡人。

それが彼女の新しい人生だった。

最初の一年は、何もかも自分で行った。

市場価格を調べ、船主と交渉し、倉庫の鼠害を防ぐ方法まで指示した。

眠る時間を削り、損失の出る航路を整理し、信用できる商人とそうでない者を見分ける。

二年目には、銀帆商会は南方の島々へ穀物を運ぶまでに成長した。

三年目の今、彼女の名を知らない港湾商人はいない。

王家の権威も、公爵家の財産も使っていない。

少なくとも、今ある富の大半は、自らの才覚で築いたものだった。


「アデル様、お待たせいたしました」


若い給仕が冷えた白ワインを運んできた。


「本日は北方産の葡萄酒でございます」

「エルミアのものかしら」

「はい。三年前は不作だったそうですが、今年はよい葡萄が採れたと聞いております」

「そう」


アデライドはグラスを受け取った。

淡い金色の酒が太陽を映し、卓上へ揺れる光を落としている。

一口含むと、懐かしい酸味が舌に広がった。

王都の祝賀会でも、同じ地方の葡萄酒が出されていた。

婚約を破棄された、あの夜である。

記憶はもう、彼女を傷つけなかった。

遠い国で起きた、別の誰かの出来事のように思える。

アルベルトの顔も、以前ほど鮮明には浮かばない。

最後に手を握ったときの冷たさだけは覚えている。

けれど後悔ではなかった。

彼が証拠を提出すれば、アデライドは罪人となり、自分の人生を再び他人の判断へ委ねることになった。

アルベルトは、自らの意思を尊重してほしいと言った。

だから彼女も、自らの意思を尊重したのである。

互いに自分の人生を選んだ。

ただ、選択が両立しなかっただけだ。

リディアについても同じだった。

彼女には戻る機会があった。

何も告げず王宮へ帰り、疑惑が晴れるのを待つこともできた。

それでも真相を暴くと決めた。

意思を尊重することが美徳なら、アデライドが自分を守る意思もまた尊重されるべきである。

必要なことだった。

あのとき別の選択をしていれば、今ここにはいない。

誰かの婚約者でもない。

誰かの期待に応える必要もない。

王妃らしく微笑むよう命じられることも、王国のために望みを捨てることもない。

自分が働きたいから働き、助けたい者へ自分の財産を使い、休みたい日には海を眺める。

十九年を費やしても得られなかった自由が、ここにはあった。


「会長」


商会の共同経営者であるミゲルが、帽子を片手にテラスへ現れた。

四十代半ばの陽気な男で、かつては借金を抱えた倉庫の管理人だった。


「遅くなりました。孤児院の子供たちが、どうしても会長へ見せたいものがあると言い出しまして」

「何かしら」

「これです」


彼が差し出したのは、色紙を貼り合わせて作った一艘の船だった。

帆には不揃いな文字で、アデルおばさまへ、と書かれている。

アデライドは思わず笑った。

宮廷で身につけた微笑みではない。

声を立て、目を細める笑い方だった。


「ずいぶん立派な船ね」

「先生が半分ほど作ったそうですが、子供たちは自分たちだけで完成させたと言い張っています」

「では、そのように信じて差し上げましょう」

「会長にも、子供を甘やかす心があったのですね」

「失礼ですこと」

「褒めております」


ミゲルが向かいへ腰を下ろした。

給仕が料理を運んでくる。

魚介のスープ。

香草を添えた白身魚。

焼きたてのパン。

どれも王宮の晩餐ほど繊細ではないが、海と太陽の匂いがした。


「東方航路の件ですが」


ミゲルが書類を出しかける。

アデライドは片手を上げて止めた。


「食事中はお仕事の話をやめましょう」

「会長が、そのようなことを仰るとは」

「わたくしも学ぶのです」

「何をです?」

「誰かに任せることを」


銀帆商会を始めた頃、彼女は再びすべてを一人で管理しようとした。

だが規模が大きくなるにつれ、限界が訪れた。

王妃府と同じ失敗を繰り返さないため、仕事を分け、記録を共有し、部下へ判断を任せた。

最初は耐え難かった。

間違った数字を書かれれば、自分で直した方が早いと思った。

交渉で不利な条件を受け入れた者には、なぜ事前に相談しなかったのかと問い詰めた。

それでも、彼らは間違いから学んだ。

やがてアデライドが数週間留守にしても、商会は滞りなく動くようになった。

自分が必要とされながら、自分がいなくても壊れない場所。

それは彼女が初めて手にした、健全な居場所だった。


「明日から一月ほど、北の島へ行こうと思っています」


アデライドが告げると、ミゲルは目を丸くした。


「視察ですか」

「休暇です」

「熱でもおありで?」

「海を見ながら、絵を描きます」


口にすると、胸の奥に小さな温もりが灯った。

先月、孤児院の子供にせがまれ、何年かぶりに絵筆を取った。

描いたのは、窓から見える海だった。

技術は幼い頃からほとんど進歩していない。

それでも青い絵具を混ぜ、光の色を探している時間は、不思議なほど心地よかった。


「会長の絵ですか。高く売れますかな」

「売りませんよ」

「それでは、何のために?」

「何のためでもなく描くのです」


昔の彼女なら、理解できなかった答えだった。

意味のないこと。

役に立たないこと。

誰にも評価されないこと。

今では、それらが人生には必要だと知っている。

母の肖像も描こうと思っていた。

記憶の中の母は、いつも窓辺に座っている。

病で痩せた最後の姿ではなく、幼いアデライドの髪へ花を挿し、笑っていた頃の顔を描きたかった。


「よい休暇を」


ミゲルはグラスを掲げた。


「あなたも、わたくしが戻るまで無理をしないように」

「会長にだけは言われたくありません」


グラスが軽く触れ合い、澄んだ音を立てた。


同じ頃、エリオットたちを乗せた小舟が中央港へ到着していた。

兵士たちは武器を外套の下へ隠し、祭りの人波へ紛れて上陸する。

市政府の役人が先導し、六人は海岸通りへ、残りはレストランの裏手へ向かった。


「対象は二階のテラスにいます」


偵察に出ていた兵が報告した。


「同行者は男性一名。銀帆商会の共同経営者です。護衛はいません」

「客は?」

「一階に二十名ほど。二階は祭りの予約客が八名です」

「騒ぎを起こすな」


エリオットは命じた。


「正面から四人。裏口と厨房へ二人ずつ。海側の階段も塞げ」

「抵抗した場合は?」

「取り押さえろ。剣は最後まで抜くな」


隊長が頷き、兵士を振り分ける。


「抵抗しない限り、傷つけるな。彼女には王国で証言してもらう」


エリオットは外套の内側にある逮捕状を確かめた。

紙は何度も開いたため、折り目が柔らかくなっている。

そこには、アデライド・フォン・グランフェルトの名が記されていた。

アデル・グランではない。

彼女が捨てたつもりでいる、本当の名である。

海岸通りは祭りの音楽と人声に満ちていた。

露店では果実と焼き菓子が売られ、子供たちは色鮮やかな風車を持って走り回っている。

兵士たちは二人ずつに分かれ、目立たぬよう歩いた。

遠目には、祭りを警備する巡回兵にしか見えない。

レストランの白い建物が近づく。

エリオットは二階のテラスを見上げた。

日除けの布の下に、淡い金髪が見えた。

アデライドは海へ顔を向け、グラスを片手に笑っている。

王都で見た微笑みとは違った。

婚約破棄を告げられた夜にも崩さなかった、形だけの笑みではない。

彼女は本当に幸福なのだ。

その事実が、エリオットの胸を重くした。

罪の意識に苛まれ、悪夢に耐えながら逃げていてくれた方が、まだ理解できた。

だが彼女は自らを被害者と信じ、二人の死を新しい人生のために必要だったと位置づけている。

だから笑える。

慈善事業を行い、孤児を救い、人々から尊敬されながら、奪った二つの命だけを過去へ置き去りにできる。


「正面を押さえます」


隊長が小声で告げた。

エリオットは頷いた。

兵士たちが路地へ分かれていく。

裏手ではすでに厨房の扉が塞がれ、海側の階段にも二人が配置されていた。

逃げ道はない。


テラスのアデライドは、遠くの桟橋へ目を向けた。

外套姿の兵士が何人も歩いている。

今日は普段より警備が多い。

おそらく祭りのためだろう。


「今日は、ずいぶん賑やかなのね」

「この街の人間は、理由さえあれば毎月でも祭りを開きます」


ミゲルが笑う。


「王都では、そうではなかったのですか」

「祭りにも格式がございました」

「格式ある祭りとは、楽しいものですか」


アデライドは少し考えた。


「楽しまなければならない催しでした」

「それは気の毒に」

「けれど、もう関係のないことです」


彼女は海を見た。

青い水面の上を、白い帆船がゆっくり進んでいる。

あの船のように、自分も過去の岸を離れた。

誰の許しも必要とせず、望む方角へ行ける。

アルベルトが求めた自由とは、これだったのだろうか。

もし、もっと早く彼が説明してくれていたなら。

もし、自分も役割を捨てることができていたなら。

違う結末があったかもしれない。

思い浮かべても、痛みはなかった。

可能性は事実ではない。

事実として、彼は彼女を選ばず、彼女は生きるために選び返した。

それだけである。

何も失っていない。

才能も、誇りも、自分の手で築いた財産もある。

王太子妃という地位を失った代わりに、誰にも定められない人生を得た。

マリアンヌがそばにいないことだけは、時折寂しく思う。


それでも、彼女も自分で残る道を選んだ。

今頃は新たな主人を迎え、どこかで暮らしているかもしれない。

いつか手紙を書いてもよい。

もう怒ってはいないと伝えれば、また会える可能性もある。

時間は、たいていの傷を穏やかにする。

アデライドは白ワインを飲み干した。

胸の奥に、揺るぎない満足が満ちていく。

わたくしはようやく、すべてを取り戻したのだ。


一階の入口で、エリオットは立ち止まった。

手袋を片方ずつ外し、上着のポケットへ入れる。

逮捕の際、相手の手首を傷つけないためだった。

給仕長へ市政府の令状を見せる。

男は文面を読み、顔を青ざめさせた。


「アデル様が、何をなさったのです?」

「ここでは話せない」

「何かの間違いです。あの方は」

「願いと事実は分けてください」


かつて自分にも、何度も言い聞かせた言葉だった。


「案内を」


給仕長は震えながら階段を見た。

その先では楽団の演奏と波音が重なっている。

二階へ続く階段を、兵士たちが静かに上り始めた。

アデライドには、まだその足音が聞こえない。

料理を終え、給仕が運んできた小さな菓子を眺めていた。

砂糖漬けの柑橘と、白い花を模した焼き菓子。

花弁の形が、グランフェルト公爵邸の白薔薇に似ている。


「こちらの菓子を、孤児院へ二箱届けてください」


アデライドは給仕へ告げた。


「子供たち全員へ行き渡る数をお願いします」

「かしこまりました」

「費用は商会の慈善会計ではなく、わたくし個人の勘定から」

「いつものように、でございますね」


給仕が伝票へ書き込む。

アデライドは、子供たちから贈られた紙の船を手に取った。

不格好な帆。

接着剤の跡。

曲がった文字。

王宮にあれば、完成度が低いとして人目につかない場所へ片づけただろう。

今は、その歪さが愛おしい。


「アデル様」


別の給仕が、テラスへ現れた。

呼吸がわずかに乱れている。


「何かしら?」

「お客様に、ご連絡が来ております」

「商会から?」

「いいえ」


給仕は背後の階段を一度だけ見た。

そこでは、外套姿の男たちが静かに近づいている。

先頭の男は手袋を外していた。

腰には剣がある。

ミゲルも異変に気づき、椅子から半ば腰を浮かせた。

けれどアデライドは、海から吹く風に髪を揺らしながら、少し意外そうに首を傾げただけだった。


「私に?」

「はい」


給仕の声が震える。


「お待ちの方がおられます」


正面玄関はすでに閉ざされている。

厨房には兵士が立ち、海側の階段も塞がれた。

エリオットは最後の段へ足を掛けた。

あと数歩で、彼女の姿が見える。

アデライドは白いナプキンを丁寧に畳み、テーブルへ置いた。

紙の船が風で飛ばされないよう、ワイングラスのそばへ寄せる。

それから、人生で初めて自分だけのものとなった海を背に、穏やかに微笑んだ。


「まあ。こんな時間に、どなたかしら」




終幕


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― 新着の感想 ―
人殺しは確かによくないことだけどそこまで追い詰めたのは王太子と新しい婚約者だよね。 リアルでもいるよね。浮気したり略奪しておいて 「アタシ悪くない。許してほしい」という男女。王太子も婚約を見直したいな…
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