第十六章 消えた三人
リディア・エヴァンスの遺体は、王太子失踪から四日後、エヴァンス子爵家が所有する別荘で発見された。
寝台の上にはベルナール連邦の金貨が積まれ、暖炉からは焼け残った暗号表と外交書簡が見つかった。
王都の新聞は一斉に、王太子失踪への関与を報じた。
外国の密使。
王位簒奪の陰謀。
身分の低い令嬢が王太子を籠絡し、旧来の婚約を破棄させたという醜聞は、人々が理解しやすい物語でもあった。
昨日までリディアを慈愛の姫と褒めていた者たちは、その地味な服装を偽善の証しと呼び始める。
だが、騒ぎは二日と続かなかった。
アデライド・フォン・グランフェルトが、王都近郊を流れるエルン川へ身を投げたと見られる事件が起きたからである。
岸辺には彼女の外套と靴が残されていた。
内ポケットから発見された遺書には、アルベルトとリディアの事件に心を痛め、自らの人生に意味を見いだせなくなったと記されている。
急流のため、遺体は上がらなかった。
王国は七日のうちに、未来を担うはずだった三人を失った。
王太子アルベルトは行方不明。
リディア・エヴァンスは死亡。
アデライド・フォン・グランフェルトも、死亡したものとして扱われた。
人々はこれを、呪われた婚約と呼んだ。
王家は服喪を宣言し、王都の劇場と酒場には十日間の休業が命じられる。
大神殿の鐘が鳴り続けるなか、一艘の小さな商船が南の港を出た。
積荷目録には、毛織物、葡萄酒、陶器と記載されている。
乗客は四人。
老いた商人夫婦と、その召使い。
そして療養のため南方へ向かう、アデル・グランという未亡人だった。
アデルは黒髪の鬘を被り、片方の頬に薄い火傷の痕を作っていた。
歩く際には杖を使い、背をわずかに丸めている。
検問の兵士は彼女の旅券を眺めた後、喪服の女を長く引き留めなかった。
「ご主人を亡くされたのですか」
「昨年の冬に」
アデルは目を伏せた。
「南の暖かな土地で、静かに暮らそうと思っております」
「海は身体に障ります。船室で横になっていた方がいい」
「ご親切に、ありがとうございます」
船が港を離れると、王都の尖塔は夕靄の向こうへ沈んでいった。
アデライドは甲板に立ち、見えなくなるまで祖国を眺めていた。
悲しみはなかった。
十九年を過ごした土地でありながら、今となっては巨大な教育施設のようにしか思えない。
そこでは常に役割を与えられ、正しく振る舞うことを求められた。
娘。
公爵令嬢。
王太子の婚約者。
未来の王妃。
どの名も、他人が彼女へ望んだ形である。
アデル・グランだけが、自ら選んだ名だった。
海風が黒いヴェールを揺らす。
水平線の先には、誰も彼女を知らない土地がある。
何をすべきか命じる父も、正しさを疑う侍女も、過去を突きつける者もいない。
自由とは、これほど静かなものなのか。
アデライドは欄干へ手を置いた。
その指には、王家から贈られた指輪も、公爵家の紋章もなかった。
出国のために使った資金は、何年も前から国外へ分散していた公爵家の運用資産である。
王太子妃になれば、外交上の緊急事態へ備えて独自の資金網が必要になる。
そのために用意したものを、自分自身の人生へ使っただけだった。
マリアンヌには、何も告げていない。
告げれば止めただろう。
あるいは、すでに彼女はアデライドを裏切る記録を残している。
ならば連れていく理由はなかった。
それでも船が外海へ出た夜、長年そばにいた侍女の顔を思い出した。
髪を梳いてくれた指。
熱を出した夜に握っていた手。
王太子妃教育で泣くことを禁じられた少女へ、戸棚の陰で菓子を差し出してくれた笑顔。
懐かしさと、連れてこられなかった残念さはある。
しかし後悔ではない。
マリアンヌは自分の意思で、主人の正しさを信じることをやめた。
選択には、結果が伴う。
それだけだった。
アデライドを乗せた船が領海を離れた頃、マリアンヌは王都警備隊の取調室にいた。
窓のない石造りの部屋は、昼でも薄暗い。
机の向こうにはエリオット・ヴァレンが座っている。
軍服の襟には皺が寄り、頬には剃り残した髭が浮いていた。
アルベルトの捜索が始まって以来、ほとんど眠っていないのだろう。
「もう一度、確認します」
エリオットは机の上の記録を開いた。
「レーヴェ侯爵の命令書が証拠品管理室へ運び込まれた時刻を、あなたが書き換えたのですね」
「はい」
「誰の指示ですか」
マリアンヌは答えなかった。
「アデライド様ですか」
「申し上げられません」
「彼女は亡くなった」
エリオットの声に、わずかな揺れが生まれる。
「少なくとも、王国はそう判断しようとしています。あなたが今さら庇っても、名誉が戻るわけではない」
「お嬢様は亡くなっておりません」
エリオットが顔を上げた。
「なぜ、そう思うのです」
「あの方は、ご自分から死を選びません」
「王太子殿下とリディア様を続けて失ったのなら」
「それでもです」
マリアンヌはゆっくり首を振った。
「お嬢様は、ご自分が生きることを正しいとお考えになります。たとえ世界中の誰かが代わりに死ぬとしても」
言い切ると、胸の奥が鋭く痛んだ。
かつてなら、同じ言葉を敬意とともに語っただろう。
アデライドは決して折れない。
何があっても前へ進む。
その強さを誇りに思っていた。
今では、彼女が立ち止まれないことの恐ろしさを知っている。
「では、川辺の遺書は偽物だと?」
「筆跡は、お嬢様のものでしょう」
「内容は違う」
「はい」
「根拠を」
「お嬢様は、ご自分の人生に意味がないとは書きません」
マリアンヌは遺書の写しへ目を落とした。
「失ったから死ぬのではなく、取り戻すために他人を捨てる方です」
エリオットはしばらく沈黙した。
それから別の紙を差し出す。
「これは、あなたが残した記録ですか」
そこには、命令書の偽造に気づいた日付、証拠品台帳を書き換えた経緯、エリアスへ渡した金額が記されている。
さらに、アデライドがベルナール連邦の封蝋について調べていたことも書き留めてあった。
「はい」
「なぜ残したのです」
「お嬢様が、さらに罪を重ねたときのためです」
「止めるためではなく?」
マリアンヌは唇を噛んだ。
「止めるつもりでした」
「だが、台帳を書き換えた」
「はい」
「エリアスの宿から、彼女の名が記された手紙を回収したのも、あなたですね」
「はい」
「燃やしたのですか」
「燃やしたふりをしました」
エリオットの目が鋭くなる。
マリアンヌは衣服の内側から、小さな鍵を取り出した。
「公爵邸のわたくしの部屋に、古い裁縫箱がございます。底板の下へ隠しました」
「手紙を?」
「それだけではありません。命令書を試し書きした紙の一部と、王妃府から持ち出された紙の管理番号も」
「なぜ今まで提出しなかったのです」
「お嬢様が戻ってくださると思っておりました」
自分の口から出た言葉が、あまりにも幼く聞こえた。
何度罪を隠しても、いつか主人は気づく。
いつか昔の少女へ戻り、泣きながら謝る。
そのとき自分が抱き締めればよいのだと、心のどこかで信じ続けた。
だがアデライドは戻らなかった。
戻る道を一つずつ焼き払い、ついには王太子とリディアまで消した。
「あなたは、なぜアデライド様を守ったのですか」
エリオットが尋ねた。
責める口調ではない。
理解しようとする者の声だった。
「守っていたつもりでした」
マリアンヌは両手を膝の上で握った。
「けれど、わたくしが守ったのはお嬢様ではありません。お嬢様が間違いを認めずに済む場所です」
証拠を隠した。
嘘を整えた。
疑う者を遠ざけ、失敗の痕跡を消した。
そのたびアデライドは、自分が正しいと信じたまま先へ進んだ。
守ることと甘やかすことは違う。
気づくのが、あまりにも遅かった。
「わたくしも裁かれるのでしょうか」
「証拠隠滅と公文書改竄への関与は免れません」
「そうですか」
「だが、あなたの証言は必要です」
「すべてお話しいたします」
エリオットは鍵を受け取った。
「アデライド様を見つけた場合、彼女を庇いますか」
マリアンヌは窓のない壁を見つめた。
主人が生きているなら、どこかで新しい衣服をまとい、新しい名を名乗っている。
きっと困っている者を助け、周囲から信頼されているだろう。
彼女の善良さも、有能さも、偽物ではない。
だからこそ、罪を犯した事実まで消えることはなかった。
「いいえ」
マリアンヌは答えた。
「もう、わたくしに後始末をさせないでくださいと、お伝えください」
「あなた自身で言わなくてよいのですか」
「わたくしが目の前にいれば、また迷います」
苦い笑みがこぼれた。
「お嬢様は、わたくしの弱いところをよくご存じですから」
取調室の扉が開き、衛兵が入ってきた。
マリアンヌは立ち上がり、自ら両手を差し出す。
手首へ鉄の輪が掛けられた。
冷たさと重みを感じた瞬間、かえって心は軽くなった。
アデライドの侍女としてではなく、マリアンヌ・ローゼンとして選んだ結果だった。
エリオットは机に残された記録を見つめた。
王太子は見つかっていない。
リディアの死は自害として処理されかけている。
アデライドも川へ身を投げたと信じられていた。
だが三つの事件は、別々ではない。
特殊な略号。
整いすぎた筆跡。
消された管理番号。
ベルナール連邦の封蝋。
そして、死を選ばない女が残した遺書。
線はまだ細い。
それでも確かに、一人の名へ集まり始めていた。
エリオットは立ち上がった。
「河口の捜索を続けろ」
待機していた部下が目を見開く。
「遺体を、ですか」
「違う」
エリオットは壁に掛けられた王国地図を見た。
「出港記録だ」
アデライドが死んでいないのなら、必ずどこかで生き直そうとする。
彼女は何も持たずに逃げる人間ではない。
金と身分と、新しい役割を準備しているはずだった。
追跡は、そこから始まる。




