それ、返せや
お姉さんの手を握り、路地裏を進んだ。
町では建物が壊され、大勢の人が操られていた。騒ぎが広まらないはずがない。ぼくたちは人目を避けながら、町の外へ向かっていた。
路地の先から声がした。
「おーい、もういい。もういいぞ」
よれたスーツの男が、こちらへ歩いてくる。
襟は曲がり、髪には寝癖がついていた。散歩の途中にでも見える足取りだった。
でも、ぼくはその声を知っている。
男の向こうでは、首に印が残ったままの人たちが、こちらへ向かってきていた。
声を聞いても止まらない。
よれたスーツの男が耳に手を当てる。
「もういいっつってんだらぁ!!」
怒鳴り声が路地に響いた。
次の瞬間、向かってきていた人たちが一斉に倒れた。
「お姉さん!」
「うん」
お姉さんが指を振る。
ふわりと飛んだ光が、倒れる人たちを地面に触れる前に受け止めた。誰も頭を打たず、眠ったように横たわる。
男はそれを見ても驚かなかった。
「ったく。止めろっつったら、すぐ止めろよ」
耳のあたりに向かって吐き捨てる。返事は、ぼくには聞こえない。
あの人たちを操っていた魔術師が、どこか別の場所にいる。
この男は、その魔術師に命令しているんだ。
男がお姉さんのほうを向いた。
ぼくは息を止める。
あの人だ。
いつもぼくに仕事を与えてきた、ジェラー。
仕事の場所も、相手の顔も、終わったあとの報告先も、全部あの人から知らされていた。
組織を抜けると決めたばかりなのに、もう見つかった。
それより、どうしてジェラーはお姉さんを見ているんだろう。
「おひさ」
お姉さんが片手を上げた。
いつもの、お客さんに挨拶するときみたいな声だった。
「おひさ、じゃないよ!」
思わず言うと、お姉さんはぼくの手を握り直した。
ジェラーはぼくの声に反応しない。
お姉さんだけを見て、口の端を歪めている。
「ようやく見つけたぞ、ユラ」
「見つかっちゃったねぇ」
「花屋とはな。笑わせんなよ」
「お花、きれいだったでしょ?」
「おめぇが切り花の水を替えてるとこなんざ、想像したくもねえ」
「ちゃんと毎日替えてたよぉ」
お姉さんは本当のことを言っている。ぼくも手伝ったことがある。
ジェラーは笑わなかった。
「組織から逃げ出して、あんな店に隠れてたってわけか」
「隠れてないよぉ、毎日接客してたもん」
「そうかよ。こっちは何年も探したんだぞ」
お姉さんが、組織から逃げた。
ぼくがさっきまで逃げる計画を立てていたのと同じ、あの組織から。
頭の中で、花屋のお姉さんと、ジェラーの言うユラがうまく重ならない。
「お姉さん、知り合いなんですか」
「うん。昔、同じところで働いてたの」
「働いてた、で済ますな」
ジェラーの声が低くなる。
「おめぇはうちのエージェントだった。最後まで誰も止められなかった、いちばん強えやつだ」
ぼくはお姉さんの横顔を見た。
刺客を空へ投げ飛ばした腕。炎を受けても傷つかなかった背中。操られた人たちを、一人ずつ助けていた指先。
ジェラーの言葉を疑う理由が、ひとつもなかった。
「今は花屋さんだよぉ」
「もう店じまいしてやっただろうが」
お姉さんの手に、少しだけ力がこもった。
焼けた花屋を思い出したんだと思う。あの木の棚も、店先の鉢植えも、もうない。
ジェラーはお姉さんを見つめたまま、続けた。
「最初に店へ送ったやつは、おめぇに何もできなかった。ここで集めた連中も、空の向こうまで飛ばされたそうじゃねえか」
「ちゃんと光、つけたもん」
「ああ、そうだな。そういうやつだったよ、おめぇは」
知っているみたいな言い方だった。
お姉さんも、ジェラーから目を逸らさない。
「起きたら全部終わってると思ってよぉ、おれぁ飲みながらいい気分に浸ってたんだよぉ」
ぼくの知らない時間が、二人の間にある。
ぼくはお姉さんの手を握ったまま、一歩だけ前へ出た。けれど、ジェラーの視線はぼくを通り越し、お姉さんへ向いている。
「おめぇ、それ返せや」
何を、と聞きそうになった。
お姉さんがぼくの手を引き、隣に戻す。
「ジェラー」
「おめぇのそれよお、いつまで制御できんだよお」
ジェラーの声には、さっきまでの嫌味がなかった。
お姉さんは答えない。
「さっさと返せや、殺すぞ。俺たちも死にたくねえんだよぉ」
最後の声が、かすかに震えた。
ジェラーはお姉さんを脅している。
なのに、怖がっているのはジェラーのほうに見えた。
それ、って何だろう。
返したら、お姉さんはどうなるんだろう。
「返すつもりはないよぉ」
お姉さんは静かに言った。
桃色の瞳は、ジェラーをまっすぐ見ている。
「ここで力ずくか?」
「やめてください」
ぼくは思わず口を挟んだ。
さっきから無視されているみたいで、むかついてきたのもある。
でも何より、目の前でお姉さんにひどいことばかり言うジェラーを許せなかった。
「すっこんでろてめぇはよお、お花屋さんでさんざんこいつにデレデレしやがっててめぇ」
お姉さんは、その発言が引っかかったみたいだった。
ぼくと同じことを考えているのかな。
ジェラー……なんで知ってるの?
いや、デレデレはしてないはず。
……そんなに分かりやすく振る舞ってないはずだ。
「ジェラー、どうしてぼくくんのこと知ってるの? ぼくくんに何か、した?」
ぼくにしたこと。
ジェラーが、ようやくぼくへ視線を向けた。
けれど、すぐには答えなかった。
耳につけていた小さな通信機を外し、足元へ落とす。
靴底で踏むと、硬いものが割れる音がした。ジェラーはもう一度踏みつけてから、ぼくを見た。
「ああ。お前、知らなかっただろ?」
「何をですか」
「追跡魔術だよ。お前に付けてある」
ぼくは自分の腕を見た。
何も見えない。
魔力の流れを探っても、何も感じない。
「気付けるわけねえよな」
ジェラーはぼくの顔を見て笑った。
「びっくりしたよ、マジでよぉ。お前が花屋に足しげく通ってくれたおかげで、見つけられたんだからな」
「駒の私生活なんて覗く趣味はねえが、おまえさん、毎度毎度同じ店に通うから、ちょっと様子見したらよお、これがビンゴだったわけだわぁ」
笑ったまま、視線をお姉さんへ戻す。
「ユラよぉ」
ぼくの部屋には、お姉さんの店で買った植物がたくさんある。
仕事が終わるたびに通った。忙しい日にも、少しだけ顔を見に行った。
そのたびに、居場所を教えていた。
花屋を見つけたのは、ぼくだ。
あの朝、お姉さんの店が襲われたのも。
「ぼくが……」
「ぼくくん」
お姉さんが手を引く。
顔を上げると、すぐ近くにお姉さんの瞳があった。
「知らなかったんでしょ? わたしも知らなかった」
「でも」
「なら、ぼくくんのせいじゃないよぉ」
そんなふうに言われても、すぐには頷けなかった。
ジェラーは肩をすくめた。
「逃げても同じだ。そいつが一緒にいる限り、おめぇの居場所はわかる」
お姉さんがぼくの手を離す。
ジェラーのほうではなく、ぼくのほうへ向き直った。
「ぼくくん、ちょっぴり我慢してね」
「え?」
お姉さんは両手を振り上げた。
「えい!」
ぼくを叩き潰した。




