ぼくくん……?
走っても走っても、追手は現れた。
お姉さんは塀を越え、裏通りを二つ抜けた。ぼくたちを見失ったはずの人影が、次の角にはもういる。
カフェの店員は、注文を書きつける紙片を握ったまま術式を展開した。買い物袋を提げた人も、仕事帰りらしい人も、ぼくたちを見るなり同じように手を上げる。
「この町に来るってわかってて、待ち伏せされてたんでしょうか」
「たぶん、そうじゃないよぉ。あの人たち、精神支配の魔術にかかってる」
追手の一人が炎を放った。お姉さんはぼくを庇って曲がり角を抜ける。逃げ遅れた人には、指先から淡い光を飛ばした。
「町の人を、あんなにたくさん?」
「うん。魔術まで使わせてる。相手は高位の魔術師だよ」
「それなら、ぼくたちを直接操えばいいのに」
「できない条件があるんだと思う。でも、この人たちをどうやって動かしてるかは、見てみないとねえ」
路地の奥に人影が現れた。引き返そうとすると、入ってきたほうからも足音がする。
お姉さんはぼくを降ろし、脇にある背の高いゴミ箱の蓋を開けた。
「わたし、見てくるねー。動かされてる人を近くで調べれば、何かわかるかも」
「ぼくも行きます」
「ここで隠れててね。すぐ戻るよぉ」
返事をする前に、ぼくはゴミ箱へ押し込まれた。蓋が閉まる。
暗い。それに、臭い。
「お姉さん!」
「だいじょうぶ。安全だよ、たぶんね」
「たぶんで汚いところに押し込めないで!」
軽い足音が遠ざかる。蓋を少し持ち上げると、お姉さんが追手へ向かって歩いていた。相手の手元で術式が光る。壁が弾け、煙がお姉さんを隠した。
ぼくは飛び出しかけた。けれど煙の向こうから栗色の髪が現れる。お姉さんは歩みを止めず、追手の脇を抜けて角の向こうへ消えた。
助けに行くつもりで、ぼくは花屋を飛び出した。今はゴミ箱の中で、あの人が戻るのを待っている。
何も見えないままでは、助けが必要になってもわからない。
それでも、ぼくまで姿を見せれば、お姉さんの動きを妨げるかもしれなかった。ぼくは蓋を閉じ、隠密魔術を使う。ゴミ箱まで見つからないように。
遠くで魔術の音がした。蓋へ手をかけるたび、「隠れててね」という声を思い出す。
「ぼくくーん。戻ったよぉ」
今度こそ蓋を押し上げた。
お姉さんが、男を一人連れていた。首に腕を回して抱え込み、踏ん張る男をずるずる引きずってくる。
「条件はやっぱみただけじゃわかんないやぁ。この人を近くで調べてみるね」
男の手元に術式が開いた。
「危ない!」
炎がお姉さんの肩に当たる。服は焦げたのに、腕は緩まなかった。次の衝撃が間近で弾けても、「熱いねえ」と言っただけだ。
男の顔には怒りも恐怖もない。攻撃をやめられないまま、どこか眠そうな目をしている。
「この人、ずっと止まらないの。ちょっと調べさせてもらうね」
お姉さんは男の手を押さえ、術式がぼくへ向かないようにした。袖をめくり、襟元を確かめる。
ぼくも男の身体を流れる魔力を探った。本人の魔力とは違う細い流れが、首の後ろに集まっている。
「お姉さん、そこ」
お姉さんが男の髪を分けた。肌の上に、小さな印がある。丸い線が幾重にも重なり、男が術式を作るたび、かすかに光った。
「これだねぇ」
お姉さんが、印へ指を伸ばす。
男が初めて身をよじった。眠そうだった目にはっきりと怯えが浮かぶ。男自身が怖がったのか。それとも、この印の向こうにいる誰かが。
お姉さんの指が、男の首の後ろで止まった。
小さな印の中心に、魔力が集まっている。
「これ、壊せばいいんですか」
「うん。印だけ、きれいに剥がせないみたい」
お姉さんは男の手を押さえ、首の後ろへ指を添えた。
「ちょっと痛いよ。ごめんね」
男の手元に術式が生まれ、お姉さんの頬に衝撃が当たる。男は自分の手を止めようとしているように見えたが、指は勝手に次の術式を組んだ。
お姉さんの指が、印のある首元を掴む。
「えいっ」
握りつぶした。
ぼくは息を呑んだ。印が皮膚ごと潰れ、そこから伸びていた魔力の線が途切れる。
男の身体から力が抜けた。
お姉さんが手を開くと、首の後ろに淡い光が灯った。潰れた場所がぱっと再生し、傷ひとつない肌に戻る。印だけは消えていた。
「……俺、いま、首を」
「無理に立たないで。もう身体、動く?」
男は震える手を開いたり閉じたりして、頷いた。
路地の入口に、数人が現れる。首の後ろから、さっきの男と同じ魔力が伸びていた。
お姉さんはぼくの前へ出る。
「また操られた人たちですか」
「うん。あの人たちは、助けないとね」
先頭の人が光を放った。
お姉さんは正面から受け、そのまま走り出す。
速い。
跳ぶたびに長い髪が流れ、胸元も大きく弾む。着地するより早く次の一歩を踏み出している。
お姉さんは攻撃してきた人の腕を掴み、くるりと身体を入れ替えた。術式が壁へ逸れる。
その首筋を掴み、印を握りつぶした。
光が走る。首元はすぐに再生し、印だけが消えた。
二人目が背後から近づく。
お姉さんは振り返らずにその手を取り、肩越しに前へ回した。地面へ落とす寸前、淡い光で身体を包んでから、そっと座らせる。
お姉さんは座らせた人の背後に回り、また印を握りつぶす。潰れた首元がぱっと再生した。
ぼくは隠密魔術をかけ、路地の端へ移る。
三人目が来た。
首に印がない。
その男はお姉さんの正面へ行かず、助けられた人たちの背後へ回った。路地の反対側では、買い物袋を持っていた女が袋を捨て、手元に術式を開く。
さらに、カフェから逃げてきた客のふりをしていた男が刃を抜いた。
三人とも印がない。
それに、操られている人たちにはない、明確すぎる殺気を感じる。
操られた町の人たちに、刺客が紛れていた。
「お姉さん、後ろ!」
刃を持った男がお姉さんへ踏み込む。お姉さんが身をひねると、刃は袖だけを裂いた。
その隙に、助けられた人たちの背後へ回った男が魔力の刃を作る。
「そっちは、だめ」
お姉さんの指先から光が飛んだ。座っている人たちを包む。
男は刃を向け直した。光に守られた人ではなく、少し離れて立つ、最初に印を消された男へ。
お姉さんは刃を持った刺客と、その男の間にいる。片方へ跳べば、もう片方が動く。
ぼくは隠密魔術の奥へ潜った。
足音を消す。呼吸を消す。
誰の視線にも入らず、男の背後へ回る。
手の中に魔力の刃を作った。仕事のときと同じ長さ。同じ形。
でも、今日は手が震える。
お姉さんに見られたら、どう思われるだろう。
男が、助けられた人へ刃を振った。
ぼくは首筋へ、自分の刃を滑り込ませた。
男が倒れる。振り下ろされた刃は、相手に届かなかった。
ぼくは隠密魔術を解いた。
お姉さんがぼくを見た。倒れた男を見て、またぼくを見る。
桃色の瞳が大きく開いた。
ぼくを抱えて逃げていたお姉さんは、ぼくが戦えると知らなかった。
本当はぼく、強いんだ。
そんなことを思ってしまった自分に、少し驚いた。人を殺したばかりなのに。
「お姉さん!」
女の攻撃魔術が飛んだ。
お姉さんは振り向いて、ぼくと座り込んだ人たちの前に立つ。炎が背中に当たり、服が焦げた。
刃を持つ男が、その背後から斬りかかる。
お姉さんは避けなかった。
「えいっ!」
胸を突き出す。
振り下ろされた刃が、お姉さんの胸の間で挟まった。
男が柄を引いても動かない。
お姉さんは胸で白刃取りをしていた。
「ふざけんなよお前!」
「は?」
男とぼくの声が、ほとんど同時に出た。
お姉さんの指先から淡い光が出て、男を包む。
次に腕を掴み、足を踏み替え、腰をひねった。
男の身体が路地から消える。
上を見る。屋根を越え、雲の下を一直線に飛んでいった。悲鳴だけが遠くに残る。
「……投げた?」
「うん」
お姉さんは、花の鉢を置く場所でも答えるみたいに頷いた。
女が次の術式を組む。
その光がお姉さんの手元へ届くより早く、お姉さんが女の目の前にいた。
胸と髪が大きく揺れ、遅れて服の裾が跳ねる。
お姉さんは女の手首を掴み、淡い光で包んだ。
「あの人と同じところだよぉ」
女も空へ飛んだ。先に投げた男を追うように、屋根の向こうへ遠ざかっていく。
「着地する頃には、わたしの魔術、解けてるからねー! 自分で着地しないと、落としたトマトみたいになっちゃうよぉ!」
聞こえているかどうかは、わからない。
「それ、怪我をしないようにする魔術じゃないんですか」
「飛んでるあいだはね」
「着地まで守ってあげてくださいよ」
「魔力は節約しないとねー。 二人とも魔術師だし、ちゃんと降りられるって」
お姉さんは笑った。
さっき、ぼくは自分も強いと思った。
あの人が驚くほどの隠密魔術を使い、刺客が動くより先に殺せた。
そのお姉さんは、ぼくが倒した相手と同じレベルの刺客を、二人まとめて空の向こうへ放り出している。
ぼくの知っていた花屋さんではなかった。いや、花屋さんであることも、本当なのだと思う。
お姉さんがこちらを向いた。
笑みが消える。
ぼくの手。倒れた男。また、ぼくの手。
さっきは戦いが続いていて、何も聞けなかったのだとわかった。
「……ぼくくん?」




