不治のユラ
「水に浸かるところの葉っぱは取ってね。残っていると、水が傷みやすいから」
お姉さんが一本を手に取り、見本を見せた。
ぼくも渡された花の下の葉を外す。力を入れすぎないように指を動かすと、葉は思ったより簡単に取れた。
「上手」
「これだけですよ」
「最初は、花びらまで握っちゃう人もいるの」
お姉さんは作業台の上に、葉を取った花を並べた。
次は桶の準備だった。洗って乾かしてある桶にぼくが水を張り、お姉さんが茎の先を切り直して、花を一本ずつ入れていく。
「青いシールの箱は、予約のお花。涼しいほうへ置いてね」
「はい」
箱を運び終えると、今度は鉢植えを店先に並べた。
お姉さんは札を見て数を確かめ、葉の裏を覗き込み、鉢の向きを少しずつ変える。
「この鉢も外に出しますか」
「その子は直射日光が苦手だから、アーチの下にお願い」
言われた場所へ置くと、お姉さんが隣の鉢との間を空けた。
「風が通るようにね」
「覚えることが多いですね」
「うん。わたしも毎日おべんきょう!」
お姉さんは花を見ているとき、いつも楽しそうだ。
さっきまで会計台に突っ伏していた人が、一本一本の様子を確かめている。ぼくが鉢を一つ運ぶあいだに、お姉さんは何度も店先と裏手を行き来した。
「お姉さん、ちゃんと働いてますね」
「ちゃんとってなあに?」
「褒めてるんです」
「ほんとかなあ」
お姉さんが隣に来る。肩が触れそうなくらい近い。
どんな花よりも、お姉さんはいい香りがする。
ぼくは、お姉さんが好きだ。
どういう種類の好きなのか、自分でもわからない。一緒にいると落ち着くし、帰ったあとも、またここへ来たいと思う。
ずっと一緒にいたい、と考えたこともある。
たまにうざいけど。
「ぼくくん、それ、さっき運んだ鉢だよ」
見下ろすと、同じ鉢をまた持ち上げていた。
「置く場所を考えていました」
「さっき一緒に決めたよぉ」
「……確認です」
お姉さんが笑う。
その声に重なって、入口のベルが鳴った。
店に入ってきた男は、花を見なかった。
灰色の上着。片手は袖の中に隠している。視線が店先の鉢を通り過ぎ、会計台と裏口の位置を確かめた。
なによりも、殺意が隠せていない。
ぼくは息を浅くする。
隠密魔術を発動した。
お姉さんのすぐ横に立っているのに、男の視線はぼくを素通りする。お姉さんも、入口のほうへ顔を向けた。
「いらっしゃいませ。お花をお探しですか?」
男は答えなかった。
ぼくは棚の陰へ移る。足音も気配も、男には拾えないはずだ。
「……不治のユラ」
男がそう呼んだ。
お姉さんのことを見ている。
不治のユラ。
聞いたことのない名前だった。
「はい?」
お姉さんが首を傾げる。
「ユラ、ですよね。ずいぶん捜しました」
「そうなんだぁ。大変だったねえ」
いつもの、宙に浮くような声。
ぼくが鉢の置き場所を間違えたときと、ほとんど同じ調子だった。
男は笑わない。
「こちらへ戻っていただきます」
「いま、お店があるから」
「あなたに店を続ける権利はありません」
「えー……お花、まだ水に入れたばっかりなのに」
お姉さんは桶を振り返った。
その一瞬、男の指が袖の中で動く。
ぼくは棚を離れ、男の背後へ回った。
今なら殺せる。
男はお姉さんに意識を向けている。首筋は無防備だ。
でも、男はまだ攻撃していない。
ここでぼくが殺したら、お姉さんはどう思うだろう。
花を選びに来たはずのぼくが、目の前で。
まだなにもしていない人を殺したら。
「ユラ」
男の声が低くなる。
「次は、頼みません」
袖口から術式が広がった。
待て。
ぼくは魔力を刃に変える。
お姉さんに向けてそれが放たれる前に、男の首を――。
そこまで考えたときには、もう遅かった。
あまりにも早すぎる術式の構築。
そこから放たれた光が、お姉さんを呑み込んだ。
耳を裂くような音がした。
お姉さんの背後の壁が吹き飛ぶ。鉢が砕け、ガラスが降り、棚に置かれた包装紙へ火が移った。
お姉さんの姿が見えない。
ぼくは男の首筋へ、魔力の刃を滑り込ませた。
「見えていたぞ」
男に手首を掴まれた。
振り返りもせず、ぼくの腕を止めている。反対の手には、次の術式。
ぼくが隠れていることを知っていたのか。
そんなことは、どうでもよかった。
お姉さんが死んじゃった。
よくわからない男が来て、よくわからない名前で呼んで。ぼくが迷っているあいだに、お姉さんが吹き飛ばされた。
もっと早く判断すべきだった。
お姉さんを引っ張って逃げればよかった。
ぼくのせい?
男の手元に光が集まる。
ぼくは目を閉じた。
掴まれた腕の力を抜く。
お姉さんにもう会えないなら、もういいかな。
けれど、何も起きなかった。
男の手が、ぼくの手首から離れる。
目を開ける。
目の前に立っている男には、首から上がなかった。
身体が傾き、燃え始めた床へ倒れる。術式の光も消えた。
ぼくは動けないまま、吹き飛んだ壁のほうを見た。
炎の向こうに、お姉さんが立っていた。
栗色の長い髪も、桃色の瞳も、さっきまでと同じだ。何が起きたのかわからないくらい、いつもの雰囲気のまま、ぼくを見ている。
「ぼくくん」
お姉さんは足元の火を避けて、こちらへ来た。
ぼくの顔を覗き込む。
「……お姉さん?」
「うん」
「生きてるんですか」
「生きてるよぉ」
お姉さんはぼくの手を取った。
あたたかい。
ぼくが掴み返すと、お姉さんは少しだけ目を丸くした。
「ごめんね。怖かったよね」
お姉さんはぼくの手を引き、そのまま抱き締めた。
顔が、大きな胸に押しつけられる。
「……っ」
柔らかい。あたたかい。近すぎる。
ぼくは何か言おうとして、声が出なかった。
ついさっきまで、この人はもう死んだと思っていた。目を開けたら、もう一度いなくなっているかもしれない。そんな考えが頭から離れず、ぼくはお姉さんの服を掴んだ。
「ぼくくん?」
「……息が、できません」
「あっ、ごめんねえ」
お姉さんが慌てて腕を緩める。
顔を上げると、桃色の瞳がぼくを見つめていた。いつものように笑おうとしているのに、少しだけ眉が下がっている。
「大丈夫?」
「はい」
「ほんとに?」
「お姉さんこそ」
「わたしは平気だよぉ」
平気だと言う人の背後で、店の棚が焼け落ちた。
ぼくはその音に肩を揺らす。お姉さんは振り返り、朝から二人で並べた花を見た。
「……あのお花、今日届いたばっかりだったのになあ」
さっきまで、お姉さんの手の中にあった花だ。
ぼくが葉を取って、お姉さんが水に入れた。
「また、仕入れられます」
「うん」
「お店の片づけも、ぼくが手伝います。箱も鉢も運べますから」
お姉さんがこちらを向いた。
何か言いかけて、やめたように見えた。
「ぼくくん、力持ちだもんねえ」
「お姉さんが運ばせたんでしょう」
「そうだった」
お姉さんは笑った。
ぼくは店の奥を見た。火はもう、作業台のほうまで広がっている。
「元どおりにするのは大変そうですけど」
「うん」
「ぼく、また手伝いに来ますよ」
お姉さんは答えず、棚に残っていた小さな鞄を取った。
それから、さっきと同じ調子でぼくに笑いかける。
「逃げよっか」
お姉さんがぼくの手を引いた。
ぼくはもう一度、燃える店を振り返った。
朝、二人で運んだ鉢が見えた。あれをどこに置くか、ようやく覚えたところだった。
お姉さんに引かれて、ぼくは裏口へ走った。




