仕事帰りの花屋さん
研究施設の廊下は、夜中でも明るかった。
天井の白い照明が、磨かれた床にまっすぐ映っている。足音を立てずに歩くぼくの影だけが、その上を横切った。
警備員が角を曲がってくる。
ぼくは立ち止まらない。
身体にまとわせた魔力が、視線と気配を薄くする。警備員はぼくのすぐ横を通り過ぎ、向こうの扉を確かめてから戻っていった。
隠密魔術は、ぼくがいちばん得意なことだ。
いつ覚えたのかは知らない。自分が何歳なのかも知らない。
物心がつくより前、家族が殺されたとき、ぼくだけがこの魔術で隠れていたらしい。組織の人たちは、そう教えてくれた。
その人たちがぼくを拾った。
行くところのないぼくに寝る場所と食べ物をくれて、人の殺し方も教えてくれた。
今夜も、その仕事をしている。
階段を上がり、奥の研究室へ入った。
机には分厚い資料が開かれていた。〈神性存在の制御〉と題されたページには、細かな図と術式が並んでいる。
神性存在。制御。
説明されたことはあるけれど、ぼくにはよくわからない。
世の中には、よくわからない技術を研究している人たちがいる。その人たちを殺したがっている人たちもいる。ぼくを飼っているのは、後者だ。
研究員は机に向かったまま、ぼくが入ってきたことに気づかなかった。
またひとり、殺した。
室内が静かになる。
夜の暗さを隔てる窓ガラスに、ぼくの顔が映っていた。
黒い髪。青い瞳。人を殺すことに慣れてしまった顔。
つまらなそうだ、と自分で思う。
ぼくは窓から目を離し、残った仕事を進めた。
指定された場所を回り、組織から渡されたものを仕掛ける。研究室に戻る必要はなかった。資料はぼくが読めなくても、回収役があとで確認することになっている。
家族のことを考えていたせいか、手順を終えたときには、思っていたより時間が過ぎていた。
施設の外へ出ると、空が白み始めていた。
朝の配達車が門の前を通る。その運転手は、ぼくのほうを一度も見なかった。
しばらく歩いて、隠密魔術を解く。
息を吐くと、冷えた空気が胸に入った。
仕事があった日は、必ず花屋さんへ行く。
この時間なら、もう開いているはずだ。
*
店は、大通りから一本入ったところにある。
柔らかそうな色の木造の建物。店先には鉢植えが並び、その上を飾りのフラワーアーチが覆っている。朝の光を受けて、小さな葉が透けて見えた。
入口の前で足を止める。
花の匂いがする。
ここに来ると、気持ちが楽になる。
人殺しはいけないことだと思う。でも、小さい頃からしているせいか、ほかの人ほど強くは感じられない。仕事が終われば、次の指示を待つだけだ。
それでも胸の奥には、よくわからないものが溜まる。
ぼくは花を眺めて、気に入った植物を買う。帰って水をやり、新しい葉が出たら、しばらくそれを見る。
そんなことを繰り返していたら、部屋はこの花屋さんの二号店みたいになった。
「ぼくくん、おはようっ」
奥から声が飛んできた。
花屋のお姉さんだ。
栗色の長い髪が、振り向いた拍子に肩を流れる。宝石みたいな桃色の瞳が、ぼくを見つけて細くなった。
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宙に浮くような、甘ったるい声。
花の香りに囲まれて聞くと、鼻も耳も甘すぎて溶けそうになる。
「おはようございます」
「今日も早いねえ。朝ごはん、食べた?」
「まだです」
「じゃあ、あとで食べてね」
「はい」
「ちゃんとあとで、だよ」
お姉さんは毎回そう言う。ぼくは毎回返事をする。実際に食べたかどうか確かめられたことはない。
ぼくは殺し屋だから、名前を明かしたくなくて教えなかった。
最初に「ぼく」とだけ言ったら、お姉さんはそれを名前だと思ったらしい。
違うと説明しても、「じゃあ、ぼくくんで」と笑った。
変なお姉さんだ。
お姉さんの名前も、ぼくは知らない。ぼくが教えるまで内緒なのだという。だから、ぼくもお姉さんと呼んでいる。
「今日は何を見る?」
「決めてません」
「じゃあ、ゆっくり選んで」
そう言って、お姉さんは会計台の椅子に座った。
机に上半身を預け、大きな胸を台の縁に乗せる。
「あーーー、楽……」
ぼくは足を止めた。
この人は、恥じらいがないのかな。
それとも、ぼくの隠密魔術がまだ発動している?
自分の手を見下ろす。ちゃんと見える。魔力も流していない。
「なに、その顔」
「お姉さんを見ていました」
「それはわかるよぉ」
お姉さんは頬をついたまま、勝手に喋り始めた。
「昨日、鉢がたくさん届いたの。店先に出す分を並べたら、裏に置いた箱まで運ぶ元気がなくなっちゃって。ぼくくん、手伝ってくれる?」
「はい」
「重いから、持って」
ぼくは店の裏手へ向かおうとした。
「ちがうちがう、こっち」
お姉さんが自分の胸を指さす。
「バカじゃないのか」
「いま、声に出てたよ?」
「出しました」
ぼくは会計台の向こうへ回り、お姉さんの腕を引いて立たせた。
「荷物はぼくが持ちます。お姉さんも仕事してください」
「はあい」
返事だけは、やけに素直だった。
裏口を開けると、箱と鉢が整然と並んでいた。
お姉さんの言う「元気がなくなった」は本当らしい。それでも届いた品物を雨の当たらない場所へ移し、種類ごとに分けるところまでは済ませてある。
「まず、この箱を作業台までお願い。中の花、立てて入れてあるから傾けないでね」
「わかりました」
箱を持ち上げる。見た目よりずっと軽い。
お姉さんはその横で、別の箱を開けた。薄い紙に包まれた花を一本ずつ取り出し、茎の先を見ている。
「そっちは?」
「今日届いた切り花。水につける前に、傷んだ葉を取るの」
お姉さんは花をぼくへ一本差し出した。
「やってみる?」
桃色の小さな花が、朝の光の中で揺れた。
ぼくは受け取った。
人を殺した手で花に触れている。
お姉さんはそんなことを知らず、すぐ隣で、どの葉を取るか教えてくれた。




