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不治のユラ~花屋のゆるふわ殺し屋お姉さんとの逃避行~  作者: 硝子玉の宇宙


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17/20

逃避行

 研究所を出てから、二日が経った。


 大きな道は避けた。町へ寄るのは食べ物を買うときだけにして、暗くなる前に寝られる場所を探した。


 海へ向かっているはずだった。


 地図にない細い道を選ぶたび、少しだけ不安になった。


「今日は、ここにしましょう」


 村には、誰もいなかった。


 井戸の桶は底が抜け、畑だった場所には膝より高く草が伸びている。家は何軒もあったけれど、屋根の残っているものは少なかった。


 ぼくが選んだ家も、奥の部屋は空が見えた。


 手前の一部屋だけなら、雨は避けられる。


 裏口もあった。外には狭い庭と、隣の家との間を通る路地がある。


 先に一回りしてから、お姉さんを呼んだ。


「火は、やめておきます」


「うん。お水、ここでいい?」


「お願いします」


 お姉さんが鞄を下ろした。


 ぼくは壁際の床を踏んだ。少し沈む。


 その隣は、大丈夫だった。


「こっちに寝てください。そこ、板が腐ってます」


「ぼくくんは?」


「入口の近くに」


「一緒のところがいいなあ」


「入口を見ていたいんです」


「じゃあ、わたしも入口」


 二人で入口に寝たら、出られない。


 そう言いかけたとき、戸の向こうで靴が止まった。


 ぼくは、お姉さんの腕を引いた。


 壁際から離れる。


「火を焚かないのは、いい判断だ」


 知らない声だった。


 戸が、外から押された。


 短い髪の男が立っていた。


 土埃のついた外套。片手には、持ち手の短い金属のケース。


 剣も銃も見えない。


 男はぼくを見て、それからお姉さんを見た。


「ユラ」


 お姉さんが、ぼくの腕から手を離した。


「……こんばんは」


 男は挨拶を返さなかった。


 敷居の外へケースを置き、留め金を外す。


 内側に、太い線を重ねた術式が刻まれていた。


 蓋の裏には紙が挟んである。


 見えたのは、『前段階試験』と、その下に並んだ小さな図だけだった。


 男は紙を一瞥し、蓋を開いたまま立ち上がった。


「器は処分可、か」


 ぼくは、男の顔を見た。


 お姉さんを見ていた。


 ケースへ、視線を戻す。


 人の入る大きさではない。


 でも、この人は持って帰るつもりで、先に開けた。


 お姉さんを殺したあと、残るものを。


「それ、使えないと思うよぉ」


 お姉さんが言った。


 男は返事をしなかった。


 袖口を、一度だけ引いた。


 ぼくは隠密魔術を使った。


 ジェラーに忠告されたばかりだった。


 俺以外のやつらも、相当動いてる。


 男の目が、床へ下りた。


 ぼくが消えた場所。


 そこから、戸口までの埃。


「お姉さん、奥へ。魔力は、使わないでください」


 言いながら、ぼくは横へ動いた。


 お姉さんが何か言いかけた。


 ぼくは男との間へ入った。


 返ってこない魔力を、使わせたくなかった。


 そのために、ぼくがいる。


     *


 男の首へ刃を入れた。


 踏み込む直前まで、魔力は漏らさなかった。


 男の目は、床に向いていた。


 ぼくの足が埃を押し分ける。


 顎が引かれた。


 刃先が襟を裂く。


 同時に、肩をぶつけられた。


 振り切った右腕が、男の胸との間に挟まる。


 腰の横に、小さな光があった。


 ぼくは膝を折った。


 頭の上で壁が弾けた。


 鋭い音が、耳の奥へ刺さる。


 男は腕を引かず、身体を寄せてきた。


 ぼくは右手の刃を消す。


 空いた手を抜いて、横へ逃げた。


 男の肩の上で、別の光が膨らむ。


 その向きを見て、さらに外へ跳んだ。


 最初の光が、そこにあった。


 男の腰の横にあったはずの術式。


 男だけが動いて、術式は部屋の真ん中に残っていた。


 跳んだ先に、足を置く板がなかった。


 腐った床へ片足が沈み、身体が傾いた。


 背中を熱いものが掠めた。


 落ちたから、背中の皮一枚で済んだ。


 足を引き抜き、そのまま床へ伏せる。


 頭の上を、続けて二発が抜けた。


 壁に三つの穴が並んだ。


 その向こうで、隣家の瓦が落ちる。


 狙撃用の魔術弾だ。


 壁ごと人を撃ち抜くものを、こんな距離から。


 しかも、一発では終わらない。


 ぼくは床を蹴った。


 四発目が、さっきまで胸のあった場所を抜いた。


 男の靴が来た。


 腕で受けず、足首へ刃を向ける。


 男が膝を畳んだ。


 ぼくの刃が空を切る。


 その膝の脇に、また光。


 ぼくは男の懐へ飛び込んだ。


 近ければ、自分の身体が邪魔になる。


 男は、撃たなかった。


 左手でぼくの肩に触れた。


 それだけで、消えているぼくの位置を掴む。


 右の拳が引かれた。


 肘の後ろに、輪ができた。


 さっき弾を送り出していた術式と、よく似た形だった。


 ぼくは顎を引いた。


 間に合ったのは、そこまでだった。


 拳が、途中から見えなくなった。


 頬を掠めた衝撃で、視界が横へ飛ぶ。


 背後の壁が砕けた。


 男の拳が、そこまで届いていた。


 弾ではなく、腕を撃ち出した。


 ぼくは肩に置かれた指へ刃を返した。


 男が手を離す。


 その隙間から、身体を抜いた。


 まっすぐ下がるのはやめた。


 部屋の真ん中には、まだ術式が残っている。


 男は、その光とぼくの間を空けながら歩いた。


 いつ撃つのかわからない。


 ぼくが横へ逃げれば、自分が追いつく。


 ぼくが自分を避ければ、置いた弾の前へ出る。


 男は、その位置を崩さなかった。


「ぼくくん、こっち!」


 お姉さんが壁際の椅子を倒した。


 ぼくと光の間に、背もたれが入る。


 止められる厚さではなかった。


 でも、その陰へ潜る瞬間だけ、足元の埃が見えなくなる。


 隠密を深くかけ直した。


 椅子の脚を蹴り、右へ転がす。


 ぼくは左へ抜けた。


 弾が椅子を砕く。


 破片に紛れて、男の背後へ回った。


 今度は、届く。


 右手の刃を首へ振った。


 男の足元が光った。


 身体が、横へ飛んだ。


 跳んだのではなかった。


 踵の下に開いた術式が、男を斜め前へ射出していた。


 刃は外套を裂いただけだった。


 ぼくは振り切った刃を消し、床へ身を投げた。


 男は着地する足の前にも、小さな輪を作った。


 逆向きの光が弾ける。


 滑るはずの身体が止まった。


 その肩越しに、術式が三つ。


 伏せたぼくの背に、木片が降った。


 頭上を連射が走り、壁の埃が雨みたいに降った。


 男が腕を伸ばした。


 お姉さんが椅子の残骸を拾っている。


 そちらへ一つ、術式を向けた。


「お姉さん、下がって!」


 お姉さんが柱の外へ身をずらす。


 ぼくは男の手首へ斬りつけた。


 切れた。


 浅くても、初めて血が出た。


 男はその手を引き、反対の拳を返した。


 肘の後ろが光る。


 ぼくは拳より先に、上腕を押した。


 発射される向きを外へずらす。


 拳が、ぼくの肩の向こうを抜けた。


 男の膝が腹に入った。


 息が詰まった。


 それでも、腕は放さなかった。


 刃を消し、左手に作り直す。


 その刃を隠したまま、脇へ入れた。


 男が腰を引く。


 また、浅い。


 足元に輪ができた。


 ぼくは掴んでいた腕を放した。


 男が後ろへ飛ぶ。


 袖を握ったままだったら、引きずられていた。


 お姉さんの前へ、男が戻る。


 ぼくは壁際を走った。


 腐った板を踏み抜き、割れた一枚を男の足元へ跳ね上げた。


 男はそれを踏まなかった。


 射出の角度を変え、床の穴を低く越えた。


 ぼくは踏み抜いた足を引き抜き、裏口へ転がり込んだ。


 男が着地する前に、腰の横から弾が出る。


 踵のすぐ後ろで、敷居が砕けた。


 戸口を抜け、脇へ回る。


 追ってくる首の高さへ、刃を置いた。


 扉が先に飛んできた。


 内側から、蝶番を撃ち抜かれていた。


 蹴り出された戸板に、刃が食い込む。


 押し潰される前に、戸板の端へ身を捻った。


 裂け目の向こうで、光。


 左の脇腹が熱くなった。


 庭の土へ転がり落ちる。


 ぼくが斬った位置を、そのまま撃たれた。


     *


 庭は狭かった。


 割れた水瓶。崩れた塀。隣家へ続く路地。


 ぼくは水瓶の陰へ滑り込んだ。


 追ってきた男が、裏口の柱へ手を添えた。


 指の間に、小さな光。


 すぐに手が離れる。


 覚えておかなければいけなかった。


 あそこにも、残した。


 男は水瓶の右へ回った。


 ぼくは左へ出る。


 肩の上に術式が開いた。


 足が止まった。


 弾は、出なかった。


 男の拳が来た。


 肘の後ろが光る。


 ぼくは頭を下げた。


 拳も、来なかった。


 男の左手が、ぼくの襟を掴んだ。


 身体が横へ引かれる。


 裏口の柱が、男の肩越しに見えた。


 あの前へ出される。


 ぼくは襟を切った。


 布を残し、地面へ落ちる。


 柱が光った。


 肩の上を弾が抜けた。


 さらに、二発。


 転がる先を追うように、土が続けて跳ねた。


 ぼくは水瓶へ戻った。


 男が、その陰へ拳を打ち込んだ。


 輪が弾ける。


 水瓶が砕けた。


 破片ごと押され、ぼくは塀にぶつかった。


 肩に痛みが走る。


 お姉さんが裏口へ出てきた。


 持ち出した鞄を肩に掛けている。


「ぼくくん」


 ぼくは首を振った。


 まだ、動ける。


 近づけてはいた。傷もつけた。


 次こそ、深く入れる。


 お姉さんが敷居を越えるより先に、ぼくは塀から離れた。


 ぼくは地面を掴んだ。


 手の中に、瓦のかけら。


 それを、柱へ投げた。


 男の視線が動く。


 ぼくは右手に刃を作った。


 姿を隠し、投げた瓦と反対側へ踏み込む。


 男は瓦を撃たなかった。


 腰の横から、ぼくへ連射した。


 一発目の向きが決まる前に、低く潜った。


 二発目は、さらに低い。


 跳べば、その先へ三発目が来る。


 ぼくは男へぶつかった。


 右腕を相手の肘に絡め、射線へ押し出す。


 男が三発目を消した。


 左手に、短い刃を作る。


 魔力が増えるぶんまで、隠す術式に読ませる。


 お姉さんに教わったとおりに。


 男の目は、ぼくの右腕に向いている。


 左の刃を、腹へ入れようとした。


 膝で、肘を跳ね上げられた。


 男は見えていなかった。


 でも、ぼくがさっき左手にも刃を作ったことを、忘れていなかった。


 手首が男の胸へ押しつけられる。


 空いた右手が、ぼくの左肘を掴んだ。


 肘を折られる前に、ぼくは男の肩へ頭を寄せた。


 耳の端が裂けた。


 遅れて、背後の塀が鳴った。


 男の肩越しに、光が残っている。


 さっき男が通り過ぎた、水瓶の上の空間だった。


 あそこにも、置いていた。


 頭を寄せていなければ、顔に当たっていた。


 男が、その弾と逆へぼくを押す。


 左腕が、変な向きに曲がりかけた。


 刃を消し、身体ごと回って逃がす。


 地面へ手をついた。


 その手首を、靴が踏んだ。


「っ……!」


 指が開いた。


 靴がねじれる。


 ぼくは右手の刃を、地面すれすれに伸ばした。


 男が足を引く。


 その踵に、射出の輪。


 離れるつもりだと思った。


 違った。


 男は斜めに飛び、ぼくの反対側へ着地した。


 水瓶の上に残っている光と、男。


 その間に、ぼくがいた。


 ぼくは塀へ逃げた。


 石が、連続して弾けた。


 頭を下げたまま走る。


 前に、男が着地した。


 まだ止まっていない身体に合わせ、右腕が伸びてくる。


 肘の後ろで、輪が光った。


 身体の射出に、拳の射出を重ねていた。


 ぼくは刃を捨て、両腕を挟んだ。


 衝撃で、足が浮いた。


 何かが折れる音がした。


 自分の腕なのか、ぶつかった塀なのか、わからなかった。


 地面に落ちる。


 息を吸えなかった。


 男の靴が、目の前に止まった。


 ぼくは右手に、もう一度刃を作った。


 足首を狙う。


 男は足を引きながら、ぼくの右腿を撃った。


 地面まで、一緒に抉れた。


 刃が消えた。


 今度は、本当に身体が動かなかった。


 お姉さんの声がした。


 男の肩の上に、光が開く。


 ぼくの頭へ向いていた。


 柱の脇でも、光が傾いた。


 水瓶の上に残っていた術式も。


 逃げる先を、もう探していなかった。


 全部が、倒れているぼくへ向いていた。


 手を、上げなければ。


 指先が土を掻いた。


 それだけだった。


     *


 お姉さんが、ぼくの前へ出た。


 発射音がした。


 その身体が、わずかに揺れた。


 でも、背中には何も抜けてこなかった。


 ぼくのすぐ横で、鞄が土に落ちた。


 柱の光が膨らむ。


 お姉さんが手を上げた。


 掌の前に、小さな術式ができた。


 その縁を見たときには、もう、男の背後まで光っていた。


 細い線が庭を走り、空中で枝分かれする。男の左右に、頭上に、塀の向こうに、無数の術式が一斉に閉じた。


 男の足元が弾けた。


 身体が後ろへ飛ぶ。


 着地するはずの場所にも、光があった。


 男の肩と、背後の塀の目地が、同じところで折れ曲がった。


 裏口の柱が途中から横へずれる。


 男が顔を引きつらせた。


 外套が張り、裂けた。


 浮いた両脚と上体が、別々の方向へ折れた。


 塀が潰れた。


 男の身体も、その間で砕けた。


 飛び散った石が宙でもう一度割れ、赤いものと外套の切れ端が、噴き上がる土に呑まれた。


 柱の射撃術式がひしゃげ、光を散らす。


 水瓶の上にあったものも、見えなくなった。


 音が、胸へぶつかった。


 地面が跳ねる。


 ぼくは右手で土を掴んだ。


 頭ほどもある石が飛んできた。お姉さんの横で白い面にぶつかり、砕けて上へ逸れた。


 その向こうでは、まだ塀が崩れていた。


 男はもういない。


 なのに、残った石も、下の土も、続けて抉れていく。


 お姉さんが手を下ろした。


 光が消えた。


 砕けたものが、地面へ落ちた。


 大きな音のあとに、砂を撒くような音が続いた。


 庭の奥が、なくなっていた。


 塀に隠れていた隣家の土台が見える。その手前には深い窪みができ、崩れた土が縁から滑り落ちていた。


 男が立っていた場所を探した。


 靴も、外套も、見つけられなかった。


 あの人が残した術式の位置を、ぼくはずっと覚えようとしていた。


 柱も、水瓶も。


 もう、覚えておくものがなかった。


「ぼくくん」


 お姉さんが膝をついた。


 両手が、ぼくの顔へ触れた。


「ぼくくん、聞こえる?」


 顔が近かった。


 桃色の瞳が、ぼくの目を確かめる。指が髪を分け、耳の上から流れた血に触れた。


「……聞こえます」


 お姉さんの口から、息が漏れた。


 肩が、少し下がった。


「うん……」


 もう一度、頬に触れた。


 胸元の服に穴が開いていた。血が染みている。


 その下の肌には、傷がなかった。


 お姉さんの視線が、ぼくの足へ落ちる。


 土が、血で黒くなっていた。


「いま治すからね」


 手が離れた。


 さっき、庭へ向けた手だった。


 あそこから、全部繋がっていた。


 ぼくには数えられない術式へ、お姉さんの魔力が流れていた。


 いま、どれだけ使ったんだろう。


 ぼくを助けるために、どれだけ。


 右腿へ伸びてきた指に、また光が灯った。


「やめて!」


 お姉さんの手首を掴んだ。


 右手で、強く。


「もう、使わないでください」


「ぼくくん、足から血が出てる」


「押さえます。布で、縛れば」


 左手を動かそうとした。


 指が開かなかった。


 お姉さんの手首を離せば、右手が使える。


 離せなかった。


「ぼくくん」


「歩けますから」


 足を引き寄せた。


 痛みで目の前が暗くなった。


 身体を起こせず、土の上に肘をつく。


「歩けないよ」


「でも」


 光が、傷へ触れた。


「お姉さん!」


「ここは、止めないとだめ」


 声は静かだった。


 ぼくの手を振りほどかず、そのまま傷へ掌を当てた。


 血が止まる。


 腿の痛みが、遠ざかっていく。


 ほっとしてしまった。


 それが、怖かった。


 ぼくの身体が楽になるあいだに、お姉さんの魔力が減っている。


 さっきまで動かなかった足が動く。


 それと引き換えに、この人は死ぬほうへ進んでいる。


 手首を掴んだ指が震えた。


「もう、いいです」


 光が消えた。


「もう、もういいですから」


「うん。いったん、おしまい」


 お姉さんが手を開いて見せた。


 光っていない。


 それでも、離せなかった。


 お姉さんは空いた手で鞄を引き寄せた。


 布を出す。


「こっちは巻くね。手、少し動かせる?」


 頷こうとして、うまくできなかった。


 お姉さんの手を掴んだまま、腕を持ち上げる。


 脇腹に布が当たった。


 痛かった。


 今度は、痛いままだった。


「……いまので」


 声が途切れた。


 お姉さんが、布の端を持って待った。


「どれくらい、減りましたか」


「ぼくくん」


「あと、どれくらいあるんですか」


 知りたかった。


 数字を聞いても、ぼくにはどれくらいかわからないかもしれない。


 それでも、聞かずにはいられなかった。


「一ヶ月後まで、行けますか」


 お姉さんの指が止まった。


「さっきので、行けなくなったり、してませんか」


 海の向こうの国。


 地図を渡されたときは、遠いと思った。


 いまは、その遠さが怖かった。


 ぼくが間に合わなくしたかもしれない。


「……減ったのは、本当だよ」


 お姉さんが言った。


「あと何日って、いま約束はできない」


 息を吸おうとして、喉が詰まった。


 お姉さんの顔を見た。


 胸元の穴から見える肌にも、ぼくの頬に触れた手にも、傷は残っていない。


 庭は、あんなになっていた。


 でも、お姉さんを見てもわからない。


 どこまで近づいたのか、何もわからなかった。


「ぼくが、先に」


 男の首を狙った。


 あのとき、終わらせるつもりだった。


「先に、殺せてたら」


 途中からは、手が届くだけで、次はできると思った。


 お姉さんが動くたびに、ぼくが先へ出た。


「ぼくのせいで」


「ぼくくん」


 お姉さんが屈んだ。


「顔、見せて」


 見られなかった。


 掴んでいる手首へ、額を寄せた。


 温かい。


 いまは、温かい。


「死なないでください」


 その手に向かって言った。


「ぼくを治すのに、使わないで。もう、こんなの」


 続かなかった。


 治してもらわなければ、血は止まらなかった。


 お姉さんが前へ出なければ、頭を撃たれていた。


 どちらも自分でどうにかできなかったくせに、使わないでとだけ言っていた。


 お姉さんの指が、ぼくの頬に触れた。


 光はなかった。


「わたし、ぼくくんを連れていきたいの」


 ぼくは首を振った。


 連れていってほしい。


 でも、そのためにこの人がいなくなるのは嫌だ。


「……お姉さんも、一緒じゃないと」


「うん」


「一緒じゃないと、嫌です」


「うん。だから、ここを出よう」


 お姉さんは、約束を足さなかった。


 絶対に死なないとも、大丈夫だとも言わず、脇腹の布を結んだ。


 左手首にも布を巻く。


 ぼくは、そのあいだずっと、指先を見ていた。


 また光るんじゃないかと思っていた。


     *


 立ち上がると、右足は身体を支えた。


 ついさっき、撃ち抜かれた足だった。


 一歩踏むたびに、治してもらったことがわかった。


 お姉さんが鞄を持って立った。


 その身体が、わずかに傾いた。


「お姉さん!」


 支えようとして、両腕を伸ばした。


 左手首に痛みが走った。


 構わず、その腕を抱え込む。


 お姉さんがぼくを見た。


「足、滑っちゃった」


 靴の下に、小さな石があった。


 それだけかもしれなかった。


 本当に、それだけなのかもしれない。


 ぼくは腕を離せなかった。


「ぼくくん、手首、痛いでしょ」


「右で持ちます」


 言われたことにだけ答えて、持ち替えた。


 庭の窪みを避け、家の脇を回った。


 正面の入口には、開いたケースが残っていた。


 男は、その中へ《不治》を入れて帰るつもりだった。


 ぼくは見ないようにした。


 お姉さんの中から何かが出てきた、そのあとのことを、いまは考えられなかった。


 つないだ手を引き、村の外へ向かう。


 数歩ごとに、お姉さんの顔を見た。


 目が合うたび、少し笑ってくれた。


 ぼくも、何か言おうとした。


 大丈夫です、と言えば、さっきみたいに歩けないよと返されるだろうか。


 もう歩けている。


 お姉さんが、歩けるようにしてくれた。


 ぼくは口を閉じた。


 歩くのをやめずに、その手の温かさを何度も確かめた。



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