お姉さんと
ジェラーは、お姉さんを見ていた。
返事を待っている顔だった。
お姉さんは、ぼくの手を包んだまま、何も言わなかった。
「……わかったよ」
先に目を逸らしたのは、ジェラーだった。
「俺は戻る」
「どこへ?」
「組織だよぉ」
お姉さんの指が止まった。
ぼくは、ジェラーを見た。
「ぼくたちは?」
「おめえらは話があるんだろ。済ませとけ」
ジェラーは、よれた上着の襟を引いた。
「見つからずに帰れるんですか」
「また時間を戻す。向こうの部屋にいたときの俺までな」
自分の胸を指で叩く。
「そうすりゃ俺は、バレずに戻れるって訳よ。ずーっと缶詰で働いてたことにしてるからよぉ」
「……ずっと?」
「入るなっつって閉めた部屋から、俺が出てくる。それで済む話だろうが」
ぼくたちと話したことも、元に戻る。
この人は、何も知らない顔で仕事へ戻るのだ。
「ユラ」
「なあに」
「おめえが追跡術式をぶち壊してくれたお陰でよぉ。俺以外のやつらも、相当動いてる。気ぃ付けろよ」
ぼくは、自分の首へ手をやった。
お姉さんに壊してもらった術式。
ジェラーだけが、ぼくを見つけるためにつけていたのだと思っていた。
「追跡術式の話、共有してたんですか」
「あたりめぇだろうがよぉ」
すぐに返ってきた。
「俺が独断でユラを追う訳ねぇだろ。組織じゅうで捜してるやつを、俺ひとりでこそこそ追いかけてみろ。バレるだろうが、馬鹿が」
「でも、ぼくのことは知らないって」
「おめえの名前まで教えるかよ。追う手があるっつったんだ。そいつが使えなくなったんだから、ほかを当たるだろうが」
首から手を下ろした。
ぼくが知らないところで、ぼくについているものの話がされていた。
それがなくなったことも。
ぼくは、壊れた入口を見た。
さっき確かめた外の景色を思い返す。
もう一度、見ておいたほうがいい。
「わかったよぉ。気をつけるね」
お姉さんが答えた。
ジェラーは、その顔をしばらく見ていた。
「話が済んだら、アルバデラへ行け」
「アルバデラ?」
聞き返すと、ジェラーは上着の内側を探った。
折り畳まれた紙を取り出す。
「国の名前だよぉ。海の向こうだ」
差し出されて、片手を伸ばした。
お姉さんがぼくのもう片方の手を離し、一緒に紙を広げてくれた。
地図だった。
いくつもの町と、それをつなぐ道。陸地の端には港があり、その先の海を横切って、細い線が引かれている。
線を目で追った。
ずっと先の、別の陸地まで続いていた。
「……こんなに遠いんですか」
「近所なら、とっくに見つかってるだろうがぁ」
ジェラーの指が、地図の端を押さえた。
「ここだ」
アルバデラ。
書かれた国名の下に、小さな印があった。
「俺の拠点がある」
「組織の施設ですか」
「おめえが属してる方の秘密組織だよぉ。なに聞いてたんだ、馬鹿おつむが」
ぼくは地図へ目を戻した。
ぼくが暮らしていた建物も、そこで仕事を教えていた人たちも、ジェラーが隠していたものだった。
その続きが、海の向こうにもある。
「そこへ行けば、ジェラーに会えるんですか」
「俺も理由をでっち上げて向かう。一ヶ月後だ。かならず守れや」
ジェラーの指が、地図の印を叩いた。
「先に着いたら、その地図を見せろ。俺のやつらに話は通しておく」
「一ヶ月後ですね」
「ああ」
ジェラーは、お姉さんへ目を向けた。
「おめえもだぞ、ユラ」
「うん。ぼくくんと行くよぉ」
お姉さんが、広げた地図の端をそっと折った。
ぼくは、海を横切る線をもう一度見た。
馬車で隣町へ行くのとは違う。
知らない町をいくつも通り過ぎて、陸地が終わったあとも、まだ先がある。
「ぼくくん、ここ押さえてて」
お姉さんが紙の角を指した。
言われたところを押さえると、お姉さんは折り目に沿って、地図をゆっくり畳んだ。
「はい。持っててくれる?」
「はい」
受け取って、上着の内側へしまった。
ジェラーが、その手元を見届ける。
「なくすなよぉ」
「なくしません」
ジェラーは、上着から小さな紙を取り出した。
何かが細かく書かれている。
上から順に目を通し、最後の行で指を止めた。
「不足はねえな」
「なんですか、それ」
「ここに来る前に書いた」
紙を軽く振る。
「戻った俺は、これをてめぇらに全部伝えたことだけ分かる」
ぼくは、折り畳まれていく紙を見た。
ぼくたちが何と答えたかは、戻ったジェラーには残らない。
それでも、伝えることは全部伝えたと、それだけは分かるようにしてきたのだ。
ジェラーは紙を上着へしまい、首を傾けた。
「さあて、出掛けて溜まった分の書類、地獄だな」
「頑張ってねえ」
「誰のせいだと思ってやがる」
お姉さんが、小さく手を振った。
ジェラーはそれを見て、鼻から息を吐いた。
「……長居はすんな」
「うん」
足元に、細い光が走った。
次の瞬間には、いなかった。
足音も、立ち去る背中もなかった。
さっきまで靴があったところに、床の傷だけが残っていた。
ぼくは、上着の上から地図に触れた。
紙の角が、指に当たった。
*
お姉さんと、二人きりになった。
入口へ行き、外の道を確かめた。
足音はしない。外壁の向こうにも、人影は見えなかった。
戻ると、お姉さんが手を差し出した。
ぼくは、その手を取った。
「ぼくくん」
「はい」
「お話、何からにしよっか」
お姉さんは、少し屈んだ。
ぼくの顔を覗き込んで、いつものように笑おうとした。
その顔を見たら、言うことが決まった。
「お姉さん、ごめんなさい」
笑いかけた口元が、そのまま止まった。
「……何が?」
「魔力生命体は嫌いだって、言ったことです」
「ああ」
お姉さんは、一度ぼくの手を見た。
「でも、知らなかったんでしょ」
「はい」
「だったら――」
「知らなかったから、言えたんです」
お姉さんが顔を上げた。
途中で口を挟んでしまった。
けれど、ここでやめたら、またお姉さんに話を終わらせてもらうことになる。
「お姉さんがそうだって知ってたら、言いませんでした。でも、それじゃ、お姉さんの前で言わないだけで」
うまく続かなかった。
お姉さんは待っていた。
「ぼく、何も知らないのに。全部、同じだと思ってました」
家族を殺したもの。
そう教わった。
覚えていない家族の代わりに、その言葉だけを、ずっと覚えていた。
花を選んでくれたお姉さんのことは、自分で知っていたのに。
「ぼく、お姉さんのことは、本当に大好きです」
指が、ぴくりと動いた。
「嫌いになんてなりません」
桃色の瞳を見た。
目を逸らしたら、信じてもらえない気がした。
「傷つけて、ごめんなさい」
お姉さんは、何も言わなかった。
ぼくの手を包む指が、少しずつ動いた。
握り直す場所を探しているみたいだった。
「……さっきも」
小さな声だった。
「嫌われたことにしないでって、言ってくれたね」
「はい」
「聞いてたよ」
お姉さんは頷いた。
「ちゃんと、聞いてたんだけどねえ」
笑おうとして、唇を結んだ。
ぼくは待った。
「あとから、やっぱり嫌だってなるかもって」
「なりません」
「うん」
「お姉さん」
「うん。……いま、信じようとしてるから」
ぼくは口を閉じた。
握っているだけで伝わったと思っていた。
あのとき、もう大丈夫になったと思っていた。
お姉さんは、まだ怖かったのだ。
ぼくが、嫌いだと言ったせいで。
「急がなくていいです」
そう言うと、お姉さんは、ほんの少し眉を下げた。
「ぼくくん、待ってくれるの?」
「はい」
「そっかぁ」
ぼくの手を持ち上げる。
お姉さんはそれを両手で包んだまま、自分の額へ、そっと当てた。
栗色の髪が、指に触れた。
「じゃあ、ちょっとだけ」
俯いたまま、動かなくなった。
ぼくも動かなかった。
外で風が吹いていた。
崩れた壁の隙間を通って、お姉さんの髪の先を揺らした。
「……お姉さん」
「うん」
「ぼく、ここにいますから」
返事の代わりに、指を強く握られた。
しばらくして、お姉さんが顔を上げた。
「抱っこしてもいい?」
「はい」
答えると、腕が背中へ回った。
持ち上げられるのかと思ったけれど、お姉さんは屈んだまま、ぼくを抱きしめた。
ぼくも、その背中へ腕を回した。
「あったかいねえ」
「……はい」
「ぼくくん、あったかい」
同じことを、もう一度言った。
肩に頬が触れた。
ぼくは、お姉さんの服を掴んだ。
治せるとは言えなかった。
助けられる方法も、まだ知らなかった。
でも、さっき言ったことは、どれも本当だった。
「大好きです」
耳のそばで、小さく息が止まった。
「……うん」
腕に、少し力がこもる。
「聞こえたよぉ」
お姉さんは、ぼくを離さなかった。




