神性存在ってなーんだ!
パンを食べ終わっても、ぼくたちは茂みの奥にいた。
お姉さんが短い袖を引っ張っている。片方を引くと、反対の肩がつっぱるらしい。
「あとで買い直しましょう」
「うん」
お姉さんが袖から手を離した。
「それで、お姉さん。不治のことなんですけど」
「あー」
困ったように笑った。
やっぱり、この話になると困った顔をする。
お姉さん自身のことは、まだ話したくないらしい。
でも、ジェラーのことなら。
同じところで働いていたのだから、ぼくの知らないことも知っているはずだ。
「じゃあ、ジェラーのことを聞いてもいいですか」
「ジェラー?」
「はい。お姉さんは、仕事のことをどれくらい知ってますか?」
「ぼくくんはさ、小さい頃から人を殺す仕事をしてたんだよね。ジェラーに言われて」
「はい。研究施設を壊してました」
お姉さんの笑みが薄れた。
「研究施設?」
「そこにいる人を殺して、渡されたものを仕掛けるんです。回収役が資料を確かめたあと、建物も壊します」
「……ジェラーが、そうしろって?」
「何度も」
知っていると思っていた。
でも、お姉さんはぼくを見つめたまま、続きを待っている。
「何を研究してるところだったの?」
「難しくて、よくわかりません。ただ、見た単語なら覚えてます。神性存在。権能。制御術式」
お姉さんの指が、膝の上の包み紙に掛かった。
「花屋に行った朝も、〈神性存在の制御〉って資料がありました」
「そこも、壊したの?」
「はい。ジェラーに言われたとおりに」
紙がくしゃりと鳴った。
「ジェラーは、研究員たちを嫌ってました。殺しても殺してもゴキブリみたいに湧いてきやがるって、よく怒ってましたから」
「……そっか」
お姉さんは、握った紙を見下ろしていた。
「知ってるんですか、その研究所」
「場所を聞いてないから、どこかはわからない。でもね」
紙から指を離し、潰れた端を膝の上で広げる。
「わたしがいた頃、あの組織は神性存在を研究してたの」
「壊すほうじゃなくて?」
「研究するほう」
ぼくは黙った。
研究している人たちと、それを殺したがる人たち。ぼくを飼っていたのは後者だと思っていた。
「別の組織の研究を、邪魔してたんでしょうか」
「かもしれない。わたしがいなくなってから、何か変わったのかもしれない」
どちらなのか、考えようとした。
何度も行ったのだ。
建物の形も、入る道も覚えている。それなのに、誰の研究所だったのかと考えると、何も出てこなかった。
「……ぼく、誰の施設なのかも、ちゃんと聞いてませんでした」
お姉さんが顔を上げた。
「ジェラーが嫌ってるから、組織の敵なんだと思ってました。ぼくに殺せって言うんだから、そうなんだろうって」
「うん」
「でも、あの人の言うことが本当かどうかも、確かめてないです」
ぼくは膝の上の手を見た。
「嘘をつかれてても、わかりませんね」
「……その可能性も、あると思う」
お姉さんは否定しなかった。
「じゃあ、ぼくは誰を殺してたんですか」
「いまの話だけでは、わからないよ」
知らない場所に入り、指定された顔を探して、殺す。終われば報告する。
何度もできた。
どんな人だったのかと聞かれたら、一人も説明できない。
「ぼく、研究のことなんて聞きもしませんでした」
お姉さんが隣へ寄った。すぐには触れず、ぼくの顔を覗き込む。
「ねえ、ぼくくん。神性存在のこと、どれくらい知ってるの?」
「それは……権能があって。制御術式で、それを制御するんだと思います」
「うん」
続けようとして、何も出てこなかった。
「いま言った言葉を並べただけです」
お姉さんが、ほんの少し笑った。
「じゃあ、その三つからだねえ。歩きながら、教えてあげる」
「……お願いします」
ぼくも息を吐いた。
「少しくらい、物知りだと思われたかったんですけど」
「見たものを覚えてたのは、ぼくくんだよ」
指が、ぼくの髪にそっと触れた。
「教えてくれて、ありがとぉ」
「ぼくも知りたいです。壊したところが、何だったのか」
お姉さんは頷いた。
「研究所、探そっか。ぼくくんが壊した跡地でもいいよぉ」
「資料は、回収されてると思います」
「建物は残ってる?」
「全部なくなるほどには壊しません。何か、残ってるかもしれません」
入る道も、逃げる道も覚えている。
仕事を終えた場所へ戻ったことは、一度もなかった。
「追手も、そこを知ってます」
「うん。だから、入る前に一緒に確かめよう。見張りがいたら無理はしない」
「わかりました」
「……行けそう?」
ぼくはすぐには答えなかった。
壊れた部屋に、何が残っているだろう。
「行きます。覚えてる場所から案内します」
お姉さんは、もう一度頷いた。
「じゃあ、まず服を買わないとねえ」
「今度は、お姉さんが選んでください」
「ぼくくんと一緒に行っていいの?」
「そのために買ったんです。……その服を」
お姉さんは肩を動かそうとして、やめた。
「今度は、ちゃんと腕が動くのがいいねえ」
「ちゃんと試してください」
町へ向かう途中、ぼくは研究室の机を思い出していた。
資料の表紙は覚えている。
その下に何が書かれていたのか、ぼくは一度も読まなかった。
◆
買い直した服は、今度はちゃんとお姉さんに合っていた。
最初の服も、鞄へしまっている。
「置いていけばいいのに」
「ぼくくんが選んでくれたから」
「失敗したやつですよ」
「うん。初めて選んでくれたやつ」
言い直す気はないらしかった。
ぼくたちは町の名前と道を確かめ、研究施設へ向かった。
そこは、何か月も前に襲った場所だ。
歩きながら、お姉さんは建物の形や資料のあった部屋を聞いた。覚えていることを答えると、そのたびに少し考えた。
けれど、すぐに話すことがなくなった。
同じ場所へ戻る道なら覚えている。誰が何をしていた場所かと聞かれると、同じ単語しか出てこない。
「……知ってることは、もう全部言いました」
「うん。ありがとぉ」
お姉さんは責めなかった。
ぼくは、次の質問を待たずに口を開いた。
「今度は、教えてください。神性存在って、そもそも何なんですか」
「うん。そこからお話ししようねえ」
お姉さんが、道の先へ目を向けた。
「人は、嬉しいとか、怖いとか、帰りたいとか、いろんな気持ちを持つでしょ。そういう気持ちからも、ほんの少し魔力が生まれるの」
「気持ちから?」
「うん。同じ気持ちがたくさん集まって、長いあいだ重なると、大きな存在になることがあるんだよ」
「生き物になるんですか」
「生き物って呼んでいいかは、難しいかなあ。でも、自分の力で周りに働きかけるようになる。それが神性存在」
ぼくは自分の手を見た。
魔力を集め、術式を使うのとは違う。誰かが組み立てなくても、何かが生まれる。
「何人くらい、集まれば?」
「人数だけでは決まらないの。気持ちの強さも、続いた時間も違うからねえ」
道端に小さな花が咲いていた。お姉さんは踏まないように、足を横へずらした。
「帰りを待つ気持ちから生まれた子がいたとして。その子は、人を家へ導くかもしれない。でも、帰ってきた人を、二度と出さなくなるかもしれないでしょ」
「同じ気持ちなのに?」
「うん。帰ってきてほしい。ずっといてほしい。待ってる人の中に、両方あったりするから」
ぼくは、歩いてきた道を振り返った。
町にいた人たちも、知らない家の中の人たちも、いろんなことを考えている。その全部から、目に見えないほど小さな魔力が生まれている。
「……壮大すぎませんか」
「あはは。そうだねえ」
「書類にあった単語の一つだと思ってました」
「書類に収まる子ばかりじゃないよぉ」
「その子が使う力が、権能ですか」
「うん。生まれた気持ちによって、できることが違うの。人がそれを扱おうとして作るのが、制御術式」
ぼくは隣を見た。
「お姉さんも、それを研究してたんですか」
お姉さんの歩幅が少し狭くなった。
「……わたしの話は、今日はここまでにしていい?」
「神性存在のことは教えてくれるのに」
「うん」
「当時のことは、言いたくないんですね」
お姉さんは道を見ていた。
「嫌われたくないの」
足が止まった。
数歩先で、お姉さんも振り返る。
「ぼく、お姉さんが好きですよ」
「知ってるよぉ」
「じゃあ、どうして」
「知ってても、怖いの」
戻ってきたお姉さんが、手を差し出した。
ぼくは握り返す。急に引かれると、まだ身体が強張る。今は、自分で取れた。
「話したくなったら、聞きます。でも、聞きたくなくなったわけじゃありませんから」
「毎日聞くって言ってたもんねえ」
「言いました」
「毎日困っちゃうなあ」
「困ってください」
お姉さんは少し笑った。
*
町を出てから最初の二日は、休憩を挟みながら歩き、急ぐところでは走った。
お姉さんはぼくの歩幅に合わせ、夜は見張りを引き受けた。
三日目の朝、隣で足音が乱れた。
「お姉さん?」
「んー……ちょっと、足がもつれちゃった」
何もない地面だった。
もう少し先でも同じことがあったので、ぼくは木陰を指さした。
「休みましょう」
「うん。少し寝るねえ」
「起きるまで、そばにいます」
「ありがとぉ」
お姉さんは幹へ寄りかかり、目を閉じた。
昼を過ぎても、起きなかった。
呼べば返事をする。水も飲む。でも、すぐにまたまぶたが下りる。
路地で倒れかけたときも、ちょっと疲れたと言っていた。
そのあと、ぼくを抱えて走り続けた人だ。
魔力を探ってみても、何が悪いのかわからなかった。
ぼくは隣へ座り、髪を撫でた。
「……ありがと」
目を閉じたまま、返事があった。
日差しが動くと、ぼくは上着を枝に掛けた。お姉さんの顔へ、影が落ちるように。
研究施設のことを考えながら、その日はずっとそばにいた。
*
四日目、お姉さんは自分から立ち上がった。
「今日は平気?」
「うん。ぼくくんに撫でてもらったから」
「それで治るんですか」
「嬉しかったよぉ」
答えを少しずらした。
ぼくが見ていると、お姉さんは髪を指で梳いた。
「ねえ、ぼくくん。ここ、何か付いてない?」
栗色の髪に、小さな枯れ葉が引っかかっていた。
「あります。じっとしててください」
お姉さんが屈む。ぼくは葉の先をつまみ、髪を巻き込まないように外した。
「取れました」
「ありがとぉ。もうない?」
「ないですよ」
屈んだまま、顔を上げない。
何かと思って頭に手を置くと、目を細めた。
「……撫でてほしかったんですか」
「うん」
「それなら、そう言ってください」
「もうちょっと撫でてぇ」
注文が増えた。
しばらくして身体を起こしたお姉さんは、何事もなかったように歩き始めた。
足取りは、昨日よりしっかりしていた。
でも、髪の枯れ葉を取って、頭を撫でたら、それでもう大丈夫だとは思えなかった。
途中で休む回数は増えた。目を閉じたお姉さんが、呼びかけに答えるまで少し待つこともあった。
起きている間は、ぼくの話を聞いてくれた。
仕事を伝えるときのジェラーの様子。研究員への悪口。通信機を踏み潰した音。
同じことを話していると、自分でもわかった。
お姉さんは、最後まで聞いた。
夕方、丘の向こうに見覚えのある外壁が現れた。
「あそこです」
崩れた入口。黒く焼けた壁。
風が吹き、外壁の上から灰が舞った。
「ぼくが壊した研究施設です」
お姉さんが隣に立つ。
ぼくたちはしばらく、同じ建物を見ていた。




