エルゼの帳面
その夜、エルゼは寝台の下から小さな帳面を引っぱり出した。
蝋燭の火が頼りなく揺れている。飼育係の寮の、狭い部屋だった。壁の向こうから、同僚の寝息が聞こえる。
帳面は古い麻の紙を綴じただけの、粗末なものだった。表紙に何も書いていない。ページを開くと細かい字がびっしりと並んでいた。
『第四十二番。月光鹿。メス。三歳。名、ハナ。移送より六十日、拒食。九十日、死亡。記録上は老衰』
指で一行ずつ、なぞる。
『第五十一番。銀の狐。オス。二歳。名、コハク。移送より四十日、羽毛むしりに似た、毛抜き。百二十日、死亡。記録上は自然死』
『第六十番。風羽鳥。メス。名、ヒビキ。移送より』
(十四頭)
エルゼは帳面を閉じた。手が震えていた。
三年間で十四頭。移送されてきた個体のうち、一年以内に十一頭が死んだ。どの子も若かった。老衰のはずがない。
先輩の飼育係は言った。
『新人。死んだ個体は老衰と書くんだ。そう決まってる。余計なことは書くな』
『でも、二歳です』
『書け』
エルゼは書いた。けれど、夜になると自分の帳面に本当のことを写した。
(昼間のあの人たちなら)
エルゼは唇を噛んだ。
昼間、飼育棟に来た、獣医の青年。それから、少女。少女はヨイの前にしゃがんで言った。
『ヨイ。窓、見たいよね』
名前を呼んでくれた人は初めてだった。
エルゼは帳面を胸に抱いた。それから、立ち上がって外套をつかんだ。
* * *
王都の夜は雪だった。
通りに人影はなく、街灯の火がぼんやりと滲んでいる。エルゼは息を切らして、灰色の石の建物の前に立った。魔獣管理局の、王都出張所。
門の脇に局の兵が立っていた。
「こんな時間に何の用だ」
「あの。獣医の、カイ様に」
「院の紺の外套じゃないか。どこの者だ」
「飼育係です。院の。お願いです。昼間のことで」
兵はじろりとエルゼを見た。それから、扉の奥へ声をかけた。
しばらくして、扉が開いた。
「どうぞ」
リナだった。髪を後ろで結んで板と炭を持っている。
「入ってください。寒かったでしょう」
通された部屋には暖炉があった。カイとハイゼ。ダリウス局長も椅子に腰かけていた。
「エルゼ殿。どうされました」
ハイゼの声は穏やかだった。エルゼはその場に立ち尽くして、帳面をぎゅっと握りしめた。
「これを」
差し出した手が震えていた。
「私が書いた、記録です。公式の記録ではありません」
カイが受け取って、ページを開いた。ハイゼとダリウスが左右からのぞき込む。
「……」
誰も口を開かなかった。暖炉の火がパチパチと鳴る。
カイが一つずつ、読んでいった。
「第四十二番。月光鹿。三歳。移送より六十日、拒食。九十日、死亡」
「はい」
「記録上は老衰」
「はい。三歳の鹿が老衰のはずがありません」
エルゼの声が裏返った。
「でも、書けと言われて。逆らえなくて。私はただの、飼育係で」
「エルゼ殿」
ハイゼが静かに言った。
「内規、第五十八条があります。院の職員は査察官に事実を述べることを妨げられない。それがたとえ、院長の意に反していても」
「えっ」
「あなたは事実を私に述べたのです。法的に守られます」
ハイゼは帳面から顔を上げた。
「この記録は公式の査察記録に添付します。あなたの名を出すかどうかはあなたが決めてください」
エルゼは息をのんだ。
「私の、名を」
「証人になるか、ならないか。それを決めるのはあなた自身です」
カイが口を開いた。
「エルゼさん」
「はい」
「証言すれば、院を辞めさせられるかもしれません。それは、否定できません」
「……はい」
「でも、局には獣医官の下で働く、飼育補助の席があります。もし、そうなったら」
「ダリウス局長」
「私の席だ。構わん」
ダリウスは手を軽く上げた。
「君が辞めさせられるなら、局が雇う。それは、約束する」
エルゼは口元を押さえた。涙がぼろぼろとこぼれた。
「それと」
カイがページをもう一度めくった。
「この記録を見ると亡くなった子たちには共通点があります」
「はい」
「拒食。毛抜きや羽むしり。無気力。つまり」
「ヨイと同じ、なんですね」
リナがぽつりと言った。
「ヨイもこのまま、放っておいたら」
エルゼは顔を覆った。
「でも、今日、飼育長が箱を入れてくれたんです。ヨイの檻に」
「箱を」
「ハイゼ様の、記録を見た後に。『査察官の指示だ』って。ヨイは夕方に止まり木から、降りたんです。そして、箱の中に入りました」
エルゼは顔を上げた。泣き笑いだった。
「何か月ぶりに降りたんです」
リナの目にも涙が浮かんだ。
「よかった」
「はい」
「それと」
エルゼは小さな声で続けた。
「もう一つだけ。聞いて、いただけますか」
「どうぞ」
「院長室の奥に庭があるんです。誰も入れません。院長閣下と年老いた医者の方だけ」
ダリウスの目が鋭くなった。
「庭」
「私は一度だけ、夜にあの壁の外を通ったことがあります。そのとき、聞こえたんです」
エルゼは自分の肩を抱いた。
「重い、息の音が。大きな、大きな、獣の。ゆっくり、苦しそうに」
カイは息を止めた。ルカがリナの膝の上でぴくりと耳を立てる。
(あの壁だ)
昼間、ルカが鳴いた、壁の向こう。
「エルゼさん。その息の音は聞こえたのは一度だけですか」
「いいえ。それから、何度か。冬になってから、特に。夜になると」
エルゼはまっすぐにカイを見た。
「私、証言します」
声はまだ震えていた。けれど、はっきりと言った。
「ハナもコハクもヒビキも。名前のない番号のまま、終わらせたくないんです」
ダリウスがゆっくりとうなずいた。
「ありがとう。エルゼ殿」
ハイゼは帳面を両手で受け取って、深く頭を下げた。
「確かにお預かりします。必ず、審問の場でお守りします」
リナがそっとエルゼの手を握った。
「ありがとうございます」
「……いいえ」
エルゼは涙を拭った。
窓の外で雪が降り続いている。遠くの壁の向こうで何か大きなものが息をしているような気がした。




