院長の茶席
王立幻獣院は白い石でできていた。
壁にも柱にも竜の浮き彫りが彫られている。翼を広げた竜。尾を巻いた竜。眠る竜。見上げるほど高い門の前に白い外套の兵が二人、微動だにせず立っていた。
「こちらです」
案内の若い書記が先に立って歩いた。回廊の石の床に足音がよく響く。
静かだった。鳥の声もしない。庭の木はきれいに刈り込まれている。それなのに生き物の気配がどこにもなかった。
「カイさん」
リナが小声で言った。
「ここ、幻獣の院なのに」
「うん」
「何も聞こえません」
カイは答えず、肩のルカを軽く撫でた。ルカは外套の襟に潜ったまま、小さく喉を鳴らした。
回廊の突き当たりで書記が足を止めた。
「ご案内します。院長閣下は茶室でお待ちです」
扉の脇に一人の男が立っていた。白い外套。腰に長剣。ベルンハルトだった。
「……来たか」
「はい。お久しぶりです」
「口は慎め。ここは院の中だ」
ベルンハルトはじろりと睨んだ。けれど、それ以上は何も言わず、扉を押し開けた。
* * *
茶室はガラスの部屋だった。
天井も壁の半分も透明な板でできている。雪の降る外の景色がそのまま見えた。部屋の中は暖かく、鉢植えの白い花が咲いていた。
窓辺の椅子に老人が座っていた。
背が高かった。座っていてもそれが分かる。白い髪を後ろで束ねて、深い藍色の長衣を着ていた。両手には白い手袋。
その人はゆっくりと立ち上がった。
「ようこそ。カイ殿。そして、リナ殿ですね」
低い、穏やかな声だった。
「アルブレヒトと申します。無理を言って、お呼び立てしました。どうぞ、お掛けなさい」
「ありがとうございます」
カイは一礼して、椅子に座った。リナも隣に腰を下ろす。老人は自分の手でお茶を注いだ。白い手袋の下で細い指先がわずかに震えていた。
「おや。肩のそれは」
アルブレヒトの目がルカに向いた。
「金の竜の、幼体ですね。母竜が空に帰したと聞きました。それなのにここにいる」
「この子が自分で選びました」
カイは答えた。
「選んだ」
老人は静かに繰り返した。それから、目を細めた。
「それは、いい話ですね」
意外な言葉だった。カイは少し身構えていたのだ。
「閣下は僕たちを責めるために呼んだと思っていました」
「責める」
アルブレヒトは小さく笑った。
「責めたいことはありません。ただ、話がしたかった。私が若い頃、竜守だったことはご存じですか」
「いいえ」
「三十年、竜の世話をしておりました。この国に最後に残った白竜です」
老人は窓の外を見た。雪の庭の、ずっと奥を。
「名をヴァイスと言います。そう呼ぶと頭を少し傾けるのです」
その横顔は穏やかだった。けれど、どこか、痛みを抱えていた。
「カイ殿。百年前、この国の幻獣は千を超えていたと記録にあります」
「千」
「今、数えられるのは三百に足りません」
アルブレヒトは静かに言った。
「ミトラの里が失われてから、守り手がいなくなった。竜は谷を閉じ、幻獣は人の目から隠れ、そのあいだに密猟者が増えました」
「はい」
「私は一頭も失いたくないのです」
老人は両手を膝の上で組んだ。
「野に放せば、また捕らえられる。ならば、全てを私の庭に置く。安全な場所で守る。それが私の務めだと考えてきました」
「それで伯爵から」
「ええ。受け取りました」
アルブレヒトはあっさりと言った。
「その話は審問でいたしましょう。今日は別のお願いがあって」
「お願い、ですか」
「あなたの聴診器をお預かりしたいのです」
茶室の空気がすっと冷えた。
リナが膝の上で手を握った。ルカが襟の中でぴくりと動く。
「それから、初代の手記。二つを院の宝物庫で大切に保管する。研究して、役立てる。あなたの身にも危険が及びます。これはあなたを守るためでもある」
声は優しかった。叱るような響きはどこにもなかった。
(断りにくい)
ダリウスの言葉が頭をよぎった。
カイは聴診器をそっと握った。冷たい銀の縁に指が触れた。
「お断りします」
「理由を伺っても」
「これは道具です」
カイは静かに言った。
「診るための、道具です。患者の胸に当てて、音を聴くためのもの。僕の手の中にあって、初めて役に立ちます」
「宝物庫でも保管できますよ」
「保管された聴診器はただの銀の円盤です」
自分でも声が揺れなかったのに驚いた。
「閣下が何を守ろうとしているのかは分かりました。それが本気だということも。でも」
カイはまっすぐに老人を見た。
「診てから、決めたいんです。守る前に診たい」
老人はしばらく、黙っていた。
雪がガラスの天井の上を静かに滑り落ちていく。
「……そうですか」
アルブレヒトは小さく息をついた。怒っていなかった。むしろ、少し嬉しそうにも見えた。
「そう言われると思っていました」
「すみません」
「謝ることではありません」
老人は手袋の指でお茶の縁をそっとなぞった。
「では、審問で」
「はい」
「リナ殿」
老人はリナの方を見た。
「あなたは何か、おっしゃりたいことがありそうですね」
リナはびくりとした。それから、ぎゅっと唇を結んで顔を上げた。
「あの。院の幻獣たちは日光に当たっていますか」
「日光」
「それと、羽のある子は飛べていますか。歩き回れる広さはありますか」
カイは、はっとした。リナの声は震えていた。けれど、まっすぐだった。
アルブレヒトは目を瞬いた。それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……鋭い、お嬢さんだ」
「すみません。失礼なことを」
「いいえ。答えは審問のあとにお見せしましょう」
老人は少し寂しげに笑った。
「それまでお待ちください。きっとあなた方なら、見抜かれるでしょうから」
* * *
茶室を出たとき、雪はまだ降り続いていた。
回廊を歩きながら、リナが小さく言った。
「あの人、悪い人に見えませんでした」
「うん」
「でも、怖かったです」
「そうだね」
カイは胸の聴診器を握りしめた。
(守る、という言葉があんなに静かに怖いとは)
その時、ルカが襟の中から、首を出した。
金色の目が回廊の向こうの壁をじっと見つめている。白い高い壁の、その奥を。
「ルカ?」
「くう」
低い、聞いたことのない声だった。
ルカは壁に向かって、もう一度、くう、と鳴いた。まるで誰かに挨拶をするように。
カイはその壁を見上げた。
壁の向こうに何がいるのか、まだ、分からなかった。




