峠の雪
吹雪は昼過ぎに始まった。
峠の登り口で空が暗くなり、風が横から殴りつけてきた。局の馬車は進めなくなって、ロッドが叫んだ。
「山小屋だ! 避難小屋がこの先にある!」
雪の中を手綱を引いて、全員で歩いた。リナの手袋はすぐに白くなった。ソラは懐の中で震えていて、ルカはカイの外套の襟に潜り込んでいる。
小屋は石積みの低い建物だった。扉を押し開けると暖炉に火が入っていた。
「おや。先客ですか」
声がした。
暖炉の前に小柄な老人が座っていた。毛布を膝にかけて、背を丸めている。白髪が薄く、小さな丸い目をしていた。その隣に若い従者が一人、薪を割っている。
「失礼します。吹雪でお邪魔します」
「構いませんよ。山の小屋は誰のものでもない」
老人は穏やかに笑った。
「馬はどうしました」
「外の庇の下に繋いでいます」
「いけませんな。この寒さでは馬が凍えます」
老人は立ち上がろうとして、膝に手をついた。従者が慌てて支える。
「いえ、大丈夫です。僕がすぐに連れてきます」
カイは外へ出た。局の馬を一頭ずつ、小屋の中へ入れた。小屋の奥の土間は広く、馬が四頭は入る。
そのとき、土間の隅にもう一頭いるのに気づいた。
灰色の、小さなロバだった。老いていた。毛が薄く、背骨の線が浮いている。耳が力なく垂れていた。
「このロバは」
「私の連れです。年はもう二十五を超えました」
老人が後ろから言った。
「ここ二日、食べなくなりましてな。私も手を尽くしたつもりなのですが」
カイはロバの前にしゃがんだ。体に手を当てる。冷たい。耳の先に触れると氷のように冷えていた。
「リナ」
「はい」
「体温を診てくれるかい」
リナは頷いて、ロバの首筋に手を当てた。耳、脚、腹。それぞれ、触っていく。
「全体に冷たいです。特に耳と脚の先。呼吸はゆっくり。脈は」
指を顎の下に当てて、数を数える。
「四十。少し、遅い」
「低体温だ。寒さと食べていない影響が重なってる」
カイは老人を振り返った。
「失礼ですがこの子を診ても構いませんか」
「ええ。……お願いします。獣医さん、でしたか」
「はい」
「それは、ありがたい」
老人は深く頭を下げた。
* * *
処置は夜まで続いた。
毛布で包んで暖炉の近くに寄せる。温めた湯を少しずつ口に含ませる。ぬるい湯を詰めた小さな革袋を腹の下に置く。急に温めてはいけない。ゆっくり、ゆっくり。
リナはロバの脇に座り込んで聴診器を当て続けた。
「心音が少しずつ、はっきりしてきました」
「うん」
「呼吸もさっきより、深いです」
夜中にロバがかすかに鼻を鳴らした。それから、リナの手の中の干し草に鼻先を寄せた。
「食べた」
「ゆっくり、あげて」
「はい」
リナの目が潤んだ。老人は黙って、その様子を見ていた。
暖炉の火がパチパチと音を立てている。外の風がまだ唸っていた。
「あなたたちの診察は」
老人がぽつりと言った。
「脈を取り、体の冷えを確かめ、呼吸を数え、耳で音を聴く。それは、人の医者の、最初の手順と同じですな」
「人の」
「申し遅れました。私はオットーと言います。王宮で侍医を務めております」
カイははっと顔を上げた。
「侍医長、ですか」
「ええ。もう、引退間際の老いぼれですが」
オットーは小さく笑った。従者のベンが慌てて付け足した。
「先生は領都の貴族の方を診に行った帰りなんです。本当は馬車で戻るはずだったのに先生が、ロバが心配だって」
「ベン。余計なことを」
「だって」
オットーは咳払いをして、カイの首元に目を向けた。
「その、胸にかけている物は」
「聴診器です。胸や、腹の音を聴く道具です」
「聴く」
オットーは身を乗り出した。
「見せて、いただいても」
カイは外して、手渡した。オットーは両手で受け取った。銀の円盤。縁に刻まれた、小さな輪。老人の目が大きく見開かれた。
「……やはり」
「何がですか」
「同じです。私が一度だけ見た、あれと」
オットーの声が震えていた。
「先王の葬儀のとき、王宮の宝物庫が開かれました。目録の確認に私は立ち会ったのです。その棚の隅にこれと同じ縁の輪を持つ、銀の円盤がありました」
カイの背筋が伸びた。リナがぴくりと顔を上げる。
「名前を教えてもらえますか」
「『輪の聴き手』と。目録にはそう書かれていました」
オットーは聴診器をそっとカイに返した。
「ただ、あれが何をするものなのか、誰も知らない。ただの飾りだと思われています。誰も耳に当てたことはない」
「耳に」
「ええ。私も今、初めて知りました。これは聴く道具なのですね」
オットーは遠い目をした。
「人の胸の音は耳を直接当てて聴くしかないと思っていました。この筒があれば、もっとはっきり聴こえるのでしょう」
「はい。聴こえます」
カイは正直に答えた。
「ただ、僕がこれを使えるのは前の」
そこで言葉を切った。
「すみません。長い話になるので」
「いいのです」
オットーは静かに首を横に振った。
「王都に行かれるのですか」
「はい。審問に」
「そうでしょうな」
オットーは暖炉の火を見つめた。
「王前審問は私も列席します。侍医長として。王のお側にいる、と言った方が正しいか」
「そうですか」
「一つだけ、お伝えしておきましょう」
老人はゆっくりと言った。
「ユリウス王は書き物を最後まで読まれる方です。短くても丁寧な記録を。院長閣下は長い演説をお好みですが」
「記録を」
「ええ。診察の記録がおありなら、お忘れなく」
リナがはっと膝の上の板を握りしめた。
「あります。たくさん、あります」
「それは、心強い」
オットーは微笑んだ。
* * *
翌朝、吹雪は止んでいた。
雪の山が朝日を浴びて、まぶしいくらいに白かった。小さな灰色のロバが小屋の前で自分の足で立っていた。耳がぴんと上を向いている。
「おお」
オットーが目を細めた。
「このやつ、二日も食べなかったのに。今朝は干し草を二口も」
「お年ですから、無理はさせないで。夜は毛布を」
「ええ。ええ。承知しました」
老人はロバの首を何度も撫でた。それから、カイに向き直った。
「獣医殿」
「はい」
「王都でお会いしましょう。審問の席で」
「はい。お待ちしています」
「あなたの記録を楽しみにしています」
オットーは杖をついて、ベンの手を借りながら、小さな馬車に乗り込んだ。ロバが後ろの荷台にとことこと乗る。
馬車が白い雪の道を峠の向こうへ下っていった。
「カイさん」
リナが隣で言った。
「宝物庫にもう一つ、あるんですね」
「うん」
カイは胸元の聴診器を握りしめた。
「誰も耳に当てたことがない。そう言っていたね」
「はい」
「じゃあ、僕たちが初めて当てることになるのかな」
それは、まだ分からなかった。ただ、冷たい銀の円盤が朝日の中でかすかに温かかった。




