荷馬車の患者
「おい、止まってくれ! 頼む!」
昼過ぎの街道で男が両手を振っていた。
道の脇で荷馬車が斜めに傾いている。荷台には麦袋が山と積まれていた。その前で一頭の栗色の荷馬が前脚で地面を掻いている。何度も、何度も。
「マルコさん?」
馬車の窓から顔を出したカイが声を上げた。荷主のマルコだった。帽子も被らず、顔が真っ青だった。
「獣医の旦那か! なんて運のいい」
「どうしました」
「ブランが朝から腹を気にしてるんだ。さっきから、横になろうとして。転がったら、荷が」
「腹を気にして」
カイは馬車を飛び降りた。リナも後ろから続く。
荷馬は自分の脇腹を振り返るように見ていた。首筋に汗が筋になって光っている。冬の空気の中で湯気が立っていた。
(疝痛だ)
カイの頭に前の世界の言葉が浮かんだ。馬の腹痛。馬の病気で最も多い。軽ければ半日で治る。重ければ数時間で命に関わる。
「リナ」
「はい」
「この子を診てくれるかい」
「え」
リナが目を見開いた。
「わたしがですか」
「うん。僕は後ろで見ている。迷ったら、呼んで」
リナは唇を結んだ。それから、聴診器を首から外して、うなずいた。
「分かりました」
「おい待てよ旦那。この子はまだ」
「この子の診察は確かです」
カイは静かに言った。マルコは何か言いかけて、口を閉じた。
リナは馬の前に立って、ゆっくりと息を吐いた。
「ブラン。診せてね」
首に手を当てる。汗が冷たい。それから、顎の下に指を当てて、脈を取った。数を数える。唇が小さく動く。
「……五十六。いつもより、速いです」
次に唇をめくって歯茎を見た。
「色は少し赤い。指で押して、戻るまで……二秒。ちょっと長い」
「脱水が始まってる」
カイが後ろから、小さく言った。リナがうなずく。
聴診器を馬の腹に当てた。左の脇腹。右の脇腹。それぞれ、上と下。四か所を順に耳を澄ませて聴いていく。
「左上、音がします。小さいけど、ごろごろ、って」
「うん」
「右上はほとんど、聞こえません。下は」
リナは眉を寄せた。
「どっちも静かです」
「腸が止まりかけてるんだね」
「はい」
リナの声が少しだけ硬くなった。
「ガルドさん」
「ん」
「この子の飼い主さんの荷馬車を道の端に寄せてください。それから、馬を歩かせます。転がると腸がねじれるかもしれないので」
「分かった」
ガルドは何も言わず、荷馬車の車輪の前に回った。意外にも素直だった。
「待て、リナ。日が暮れる前に次の宿に着かないと」
「二刻だけ、ください」
リナは振り向かなかった。
「二刻、診て。それでこの子が動かなければ、わたしが決めます」
ガルドは少し間を置いてから、口の端を上げた。
「……いいだろう。二刻だ」
* * *
一刻が過ぎた。
馬は歩かせ続けた。マルコが手綱を引いて、道を行ったり来たりしている。カイはグレイを連れて、荷馬車の脇で火を焚いていた。
「リナさん」
局の兵が心配そうに声をかけた。
「その、水を鼻から入れるなんて」
「経鼻の管です。胃に水と油を入れて、腸の動きを助けます」
リナは細い管を手に取った。ドルンが作った道具だった。鼻の穴から、そっと奥へ。声をかけながら、ゆっくり。
「ブラン。ごめんね。ちょっとだけ」
管の先に水のにおいがした。胃に入ったのを確かめて、ぬるい水を流し込む。それから、菜種の油を。
馬がぶるっと首を振った。
「いい子」
リナは額の汗を袖で拭った。それから、はっとして脈を取り直した。
「……六十八」
指が止まった。
「上がってる。さっきは五十六だったのに。歯茎も色が」
リナの顔が曇った。聴診器をもう一度、腹に当てる。耳をすませる。
「音が。ない」
(間違えたかな)
リナの手が小さく震えた。
(水を入れたのが悪かったのかな。歩かせすぎ? 止めた方が良かった?)
「リナ」
カイの声が後ろから静かに響いた。
「迷ったら、呼ぶ。だったね」
リナは目を閉じた。それから、ゆっくりと開けた。
「……はい。カイさん」
振り返った。
「呼びます。診てください」
「うん」
カイは立ち上がって、馬の隣に来た。
「さっきの水と油は正しかったよ」
「でも、脈が」
「痛みが強くなると脈は上がる。水を入れる前より悪くなったんじゃなくて、痛み止めが足りないんだ」
カイは薬草の小袋を開いた。ミレーヌの鎮痛の調合だった。
「これを飲ませよう。リナ、量は分かるかい」
「この大きさの荷馬なら、ええと小さじ三杯です」
「その通り」
リナは薬を湯で溶いて、馬の口に流し込んだ。しばらくして、馬の呼吸がゆっくりになった。前脚を掻く動きが止まる。
「歩かせて」
「はい」
* * *
夕暮れの色が街道を染めていた。
馬はゆっくりと歩いていた。時々立ち止まって、耳を動かす。その尻尾がひょいと上がった。
ぼとり、と大きな音がした。
「出た!」
マルコが叫んだ。
「出たぞ! 旦那、出た!」
「聴診器を」
リナは慌てて、馬の腹に耳を当てた。それから、目を丸くして、カイを見上げた。
「聞こえます。右の下から、ごろごろって。動いてます」
「よく、聴けたね」
カイは微笑んだ。リナの目が潤んだ。
「……よかった」
膝から力が抜けて、リナはその場にしゃがみ込んだ。ソラが懐から顔を出して、頬をぺろりと舐める。
「ありがとうな、嬢ちゃん」
マルコが帽子を取って、深々と頭を下げた。目の端が赤い。
「ブランは、相棒なんだ。十年。こいつを失ったら、俺は」
「まだ、安心はできません」
リナは顔を上げた。
「今夜は餌を少なめにして、水をこまめに飲ませてください。朝まで誰かが見ていてください。もし、また腹を気にしたら、すぐ」
「分かった。一晩中、隣で見てる」
マルコは何度もうなずいた。
「それで旦那。この恩はどうやって返せばいい」
「いりません」
カイが答えた。
「でも、一つだけ。王都に行かれますか」
「ああ。麦を市場に」
「もし、機会があれば、話してください。獣が痛がったら、まず診てもらうこと。診てから、決めること」
「診てから、決める」
マルコは繰り返した。それから、にやりと笑った。
「任せとけ。王都の市場の連中は噂が好きだ。三日で広まる」
馬車は再び、街道を南へ動き出した。
窓の外で夕焼けが赤く燃えている。リナは座席の隅で板に炭で何かを書いていた。
「何を書いてるんだい」
「今日の診察の記録です」
リナは顔を上げた。
「脈が六十八まで上がったとき、わたしは迷いました。でも、呼んで良かったです」
「うん」
「次は呼ぶまでの時間をもう少し短くしたいです。でも、呼ばないで悩み続けるよりは」
「そうだね」
カイは窓の外を見たまま、答えた。
「それでいい。それが診察の記録の、一番大切なところだ」
「はい」
リナは小さく笑って、また板に目を落とした。
ガルドが御者台から、振り向かずに言った。
「二刻じゃなくて、二刻と少しだったぞ」
「ごめんなさい」
「いや」
ガルドの肩が小さく揺れた。
「悪くなかった」




