街道の朝
「左前、熱はなし。右前もなし」
朝の冷たい空気の中でリナが馬の脚に手を当てていた。
谷を発って二日目の朝だった。宿場の馬屋の前で、局の馬車の二頭の馬が白い息を吐いている。リナはしゃがみ込んで蹄の裏を一つずつ確かめていた。
「蹄叉に石は挟まってない。爪の割れもなし。歩様は昨日と同じ」
首にかけた木の聴診器を外して、板に炭で書きつける。
「リナちゃん。それ、毎朝やってるのか」
御者台から、局の兵が顔を出した。年嵩のロッドだった。
「はい。馬も患者さんですから」
「馬は馬だろう。歩けなくなったら、そこで考えればいい」
「歩けなくなってからだと遅いんです」
リナは顔を上げて、まっすぐに答えた。
「雪道は脚に負担がかかります。熱が出るのはいつも最後です。その前に脚の毛の張りとか、蹄の乾き具合とかで分かることがあるので」
ロッドは目を丸くして、それから帽子を直した。
「……そうか。そりゃ、悪かった」
「いえ」
「じゃあ、そっちの栗毛。右の後ろが昨日から少し気になってたんだが」
「はい。診ます」
リナが立ち上がった。ロッドは慌てて御者台を降りてくる。
その様子をカイは馬車の脇から眺めていた。
(僕は何も言っていない)
数か月前なら、リナはまずカイの顔を見た。今は見ない。自分で決めて、自分で手を動かしている。
「ぷる」
肩の上でルカが小さく鳴いた。「よかったね」と言っているように聞こえた。
「うん」
カイは小声で答えた。
「そうだね」
「おい、獣医殿。突っ立ってないで荷を積め」
ガルドが馬車の後ろで荷を縛りながら言った。足元でグレイが大きなあくびをする。
「あの子はもう一人前だ。お前が見張ってなくても動く」
「見張ってたわけじゃ」
「顔に出てる。親みたいな顔だ」
「……そうですか」
カイは自分の頬をそっと撫でた。ガルドが鼻で笑った。
* * *
その日の夕方に馬車はホロ村に着いた。
柵に見覚えのある札が下がっている。雪がうっすらと積もった道の先にヨハン村長が立っていた。腕を組んで仁王立ちだった。
「来たか」
「ヨハンさん。お久しぶりです」
「久しぶりでもない。ひと月半だ」
ヨハンは顎を引いた。それから、馬車の後ろを覗き込む。
「あの小僧は」
「谷に残りました。見習いとして、診療所を守っています」
「そうか」
ヨハンの眉がほんの少しだけ下がった。
「元気にしてるんだな」
「はい。バーサさんとトバさんが一緒にいます」
「なら、いい」
それだけ言って、ヨハンは背を向けた。
「今夜はうちの納屋を使え。馬と狼とチビどもの寝床もある。寒くはない」
「ありがとうございます」
納屋には干し草が敷かれていて、中央に小さな火鉢が置かれていた。
夕食には羊の肉と根菜のスープが出た。運んできたのは小柄な女性だった。ニコの母だった。
「お世話になります」
「いいえ。こちらこそ」
母親は深く頭を下げた。手が少し荒れている。
「あの子は。ちゃんと食べていますか」
「はい。僕が見た限りではおかわりをしていました」
「まあ」
母親は口元を押さえて、笑った。それから、そっと目の端を拭った。
「あの子が字を書いて送ってくれたんです。『ぼくはげんきです。みんなをまもります』って」
「ニコ君らしいですね」
「リナさん。お姉さんなんですってね。あの子がよく書いてました」
「あ、はい」
リナは少し照れて、うなずいた。
「ニコ君、すごく、頑張ってます。耳がいいんです。聴診器の音をすぐ覚えて」
「そうですか」
母親は膝の上から小さな包みを差し出した。
「これを持っていってください。羊の毛で編んだ手袋です。王都は寒いと聞きましたから」
「いただけません。ニコ君のお母さんの」
「あなたの分ですよ」
母親はやさしく笑った。
「あの子をよろしくお願いします。それと、あなたも無理をしないで」
リナは手袋を受け取った。ぎゅっと握りしめて、頭を下げる。
「……はい。ありがとうございます」
* * *
夜、納屋の外に出るとヨハンが柵にもたれていた。
「獣医」
「はい」
「昨日の昼、白い外套の男が二人、うちの村に来た」
カイは息を止めた。
「獣医の二人連れを探している様子だった。若い男と少女だと」
「それで」
「通っていない、と言っておいた」
ヨハンは無表情だった。
「嘘はあまり好きじゃないがな。あいつらの目つきが気に入らなかった」
「ヨハンさん」
「勘違いするなよ」
ヨハンは顔をそらした。
「あの小僧の面倒を見てくれた礼だ。それだけだ」
「……ありがとうございます」
「先に行ったようだぞ。王都の方へ」
「はい」
「気をつけろ。白い外套は街道の宿を全部押さえるつもりかもしれん」
ヨハンはそれだけ言って、納屋の方へ戻っていった。
カイは夜空を見上げた。雲の切れ間に星が一つ見えた。
(王都まではあと八日)
胸の聴診器が冷たい夜気の中で静かにぬくもっていた。




