王都の鐘
王都へ発つ朝は、青く晴れていた。
谷の前庭に、一台の馬車が停まっている。
ヴェルナーが領都から手配してくれた、局の馬車だった。局の兵が四人、御者台に並んでいる。
イゼルダとヴェルナーは、ハイゼの査察の見届けのために、あと二日、谷に残る。審問のために、王都で合流する手はずだった。
カイはその前で、荷を最後に確かめていた。
診察鞄。板の束。ミレーヌの薬草の小袋。胸元には聴診器と、母竜の鱗を入れた革のケース。
「忘れ物はないね」
ミレーヌが薬草籠を抱えて隣に立った。
「あんたはすぐ、何か忘れるからね」
「大丈夫です。多分」
「多分はいらないよ」
ミレーヌは、ふんと鼻を鳴らした。それから、そっとカイの袖を引いた。
「わしは、ここに残る。幻獣たちの冬の世話は任せときな」
「はい。お願いします」
「それから」
老婆は声を落とした。
「無理するんじゃないよ。あんたはすぐ一人で、背負い込むからね」
「ミレーヌさん。それは」
「リナが、いるだろう。あの子を、頼りにしなさい。あの子はあんたが思ってるよりずっと強い」
カイは思わず、リナの方を見た。リナは荷馬車の脇で、トバとバーサに、別れを告げているところだった。
「分かっています」
「ならいい」
ミレーヌは、満足そうにうなずいた。
「じゃあ、行っておいで」
「はい」
その時、後ろから小さな足音が駆けてきた。
「獣医さん!」
ニコだった。首に、木製の小さな聴診器を下げている。目が少し赤かった。
「ぼくも行きたい」
「ニコ君」
「でも、行かない。谷で待ってる」
ニコはぎゅっと唇を結んだ。
「バーサ婆ちゃんと、トバ爺ちゃんと、レンデルさんと、ミレーヌさんと、みんなで診療所を守る」
「うん」
「だから、帰ってきたらぼくが一番に出迎える。約束だよ」
「約束する」
カイはニコの頭に、そっと手を置いた。
「君が守ってくれるなら、安心だ」
ニコは涙をこらえて、えへんと胸を張った。
リナが荷馬車の方からやってきた。首に木製の聴診器。腕に小さな青い毛玉。
「ソラ、連れていっていいですか」
「うん。もちろん」
「きゃん!」
ソラがリナの腕から飛び出した。ニコの足元にまとわりつく。
「ソラ。ニコ君と、お別れだよ」
「きゃん」
ニコは、ソラをぎゅっと抱きしめた。それから、リナに向き直った。
「リナ姉ちゃん」
「うん」
「気をつけて。無理しないで。カイ先生をお願い」
「ニコ君こそ」
リナは微笑んだ。それから、少しだけ背伸びをしてニコの頭をくしゃりと撫でた。
「次に会うまでに、もっと聴診器の聴き方、上手になっててね」
「うん!」
二人は顔を見合わせて笑った。
ガルドとグレイが、馬車の後ろに並んでいた。ガルドは腰の剣を確かめている。
「王都は初めてだ。まあ、グレイが一緒なら、問題ない」
「ぐる」
グレイが短く鳴いた。
「ドルンさんが、出発の前に、この工具を入れてくれていました」
リナが診察鞄の中を確認した。見慣れた鉗子や鋏の他に新しい細長い器具が並んでいた。
「相変わらず、何も言わずに置いていくんですね」
「ドルンさんらしいな」
カイは小さく笑った。
「じゃあ、行こう」
全員が馬車に乗り込んだ。カイとリナが座席に。ガルドが御者台の隣。足元にグレイとソラが丸くなる。
ルカがカイの肩に、ひょいと降りた。「ぷる」と鳴いた。
その時、玄関の方から静かな足音が近づいてきた。
「カイ殿」
ハイゼだった。肩に灰色の鳥を乗せている。ライヒだった。左の翼に温かい布が巻いてある。
「お見送りに、参りました」
「ハイゼ殿。ありがとうございます」
「私はあと二日、査察を続けます。報告書を書き上げてから、王都へ向かいます。審問の場でまた、お会いしましょう」
「はい」
ハイゼは馬車の窓に、少し身を寄せた。
「カイ殿。一つお伝えしておきたいことがあります」
「何でしょう」
ハイゼは声を落とした。周囲に誰もいないのを、確かめるように目を走らせた。
「院の書庫で、一度だけ見たことがあるのです」
「見た?」
「百年以上前の、納入記録を。王宮の宝物庫に特別な品が、納められた、という記録でした」
カイの背筋がぴんと伸びた。
「その品の名称が」
ハイゼはゆっくりと言った。
「輪の聴き手。輪の印の刻まれた、銀の円盤。……あなたの首にあるそれと同じ形の」
カイの心臓がどくんと鳴った。
「輪の聴き手は王宮の宝物庫にもう一つあります」
静かな声だった。けれど、その言葉は雪の朝の空気を鋭く切り裂いた。
「もう、一つ」
「ええ。おそらく初代の方が、遺されたものでしょう。あるいは、その弟子たちが」
ハイゼは一歩、下がった。
「院長閣下が、あなたの聴診器と手記を、欲しがる理由はそれかもしれません。二つがそろえば」
「そろえば、何が」
「分かりません。ただ」
ハイゼは静かに目を伏せた。
「王都に着いたら、気をつけてください。審問の場だけでなくその前にも」
「……はい」
カイは胸元の聴診器を、そっと握りしめた。冷たい銀色が掌の中で、微かに温かかった。
「ありがとうございます、ハイゼ殿」
「礼は不要です」
ハイゼは小さく、微笑んだ。
「私は規則を、運んでいるだけです。ただ、今回は少し私の意志も混ぜてしまいましたが」
「それで十分です」
馬車が動き出した。
車輪が雪を踏みしめる。窓から谷の景色が、ゆっくりと遠ざかっていく。ニコがソラとともに、大きく手を振っている。
バーサが杖を高く掲げた。トバとレンデルが、深く頭を下げている。ミレーヌが、薬草の籠をぶっきらぼうに掲げていた。
白い館。青い瓦の屋根。雪の積もった、石の輪。
(続きを、やる)
カイはその景色を、目に焼きつけた。
「カイさん」
リナが隣で小さく言った。
「王都って、どんなところなんでしょう」
「僕も知らない」
カイは正直に答えた。
「でも、行ってみよう。診てから、決める」
「はい」
リナは微笑んでうなずいた。その腕の中でソラが、きゃんと鳴いた。
馬車は谷の入口を抜けた。その先に白い街道が、まっすぐに南へ向かって続いている。
遠く青い空の向こうに見えるはずのない、王都の鐘の音が、聞こえた気がした。
(第6章 完)




