査察官の決断
日の出とともに、白い外套の兵が前庭に整列した。
雪の朝だった。空が淡い桃色に染まっている。館の玄関の前にカイたちが、並んで立っていた。リナとニコ。ミレーヌ。
ガルドとグレイ。イゼルダとヴェルナー。トバ、バーサ、レンデル。その背後に幻獣たちが、息を潜めて集まっている。
ベルンハルトが前に出た。
「約束の、時刻だ」
背後に四十人の兵が、槍を構えている。
「荷はまとまったか。幻獣を馬車に積め」
「まとまっていません」
カイは静かに言った。
「何」
「あの子たちは誰も動けません。移送は、診断上、不可能です」
「診断など、不要だ」
ベルンハルトは、冷たく言い放った。
「院長閣下の、ご命令だ。兵に、実力行使を許可する」
「待ってください」
声が前庭に澄んで響いた。
ハイゼが一歩、前に出た。
昨夜と同じ、紺色の外套。けれど、その手に一冊の分厚い書物を抱えていた。
「ベルンハルト殿。私は院の査察官として、あなたに通告します」
「通告だと」
「内規、第四十七条の二」
ハイゼは書物を開いた。
「緊急時の例外として、院長命令による執行を、査察期間中に実施する場合、現地査察官の同意の署名を要する」
ベルンハルトの目が、ぴくりと動いた。
「貴官は署名したか」
「していない。する必要がない」
「そうですね」
ハイゼは穏やかに言った。
「あなたの命令書には、現地査察官の同意署名がありません。つまり、緊急時の例外は適用されません」
「屁理屈を」
「屁理屈ではありません。規則です」
ハイゼの声は揺らがなかった。
「私はこの規則を十二年間、読み続けてきました。院の誰よりも、詳しいと自負しています」
ベルンハルトの顔が紅潮した。
「貴様。罷免するぞ」
「どうぞ。ただし」
ハイゼはページをめくった。
「内規、第六十一条。査察官の罷免には、院の評議会の議決を要する。院長一人の命令では不可能です」
ベルンハルトは、ぎりっと歯を噛んだ。
「それなら評議会にかけてやる」
「結構です。王都で、受けて立ちます」
ハイゼはゆっくりと書物を閉じた。
「ただし評議会が議決を下すまで、私は査察官です。残り二日の査察期間の、全権は私にあります。その間、現地の保護個体に対する、一切の執行を停止します」
静寂が前庭に落ちた。
雪の中で誰も動かなかった。
ベルンハルトは拳を握りしめて、ハイゼを睨んでいた。額に青筋が浮いている。背後の兵が小さく、ざわめいた。
その時、イゼルダが静かに一歩進み出た。
「ベルンハルト殿。私は魔獣管理局の、幻獣担当官です」
懐から、書状を取り出す。
「ダリウス局長の署名入りの申立書です。伯爵の帳簿の写しとともに、王前審問の開催を申請します。院長閣下の関与についても、審問の場で確認を求めます」
「王前審問」
ベルンハルトの顔が青くなった。
「王の前で、院長の件を」
「はい。すでに写しは領都へ、送られています。私の手元にも、あります。ここで強引に、押収を行えば」
イゼルダは冷静に続けた。
「それ自体が、審問の場で、院長閣下の不利な証拠になるでしょう」
ベルンハルトは唇をぐっと噛んだ。
四十人の兵が、不安そうに隊長の背中を見ている。院長の命令。けれど、書面には規則の裏づけがない。
ここで強行すれば、後で責任を問われるのは現場の自分たちだ。
「……撤収」
絞り出すような声だった。
「撤収する」
「隊長」
「撤収だ! 馬に乗れ!」
ベルンハルトが怒鳴った。兵たちが慌ただしく馬に飛び乗る。白い外套が雪の上で、一斉にひるがえった。
ベルンハルトは馬に跨がりながら、ハイゼを睨みつけた。
「覚えておけ。院長閣下は、お許しにならんぞ」
「覚悟の上です」
ハイゼは静かに答えた。
「ただし一つだけ、お伝えしてください。院長閣下に」
「何だ」
「私は規則を、守っただけです。それ以上でもそれ以下でもない、と」
ベルンハルトは舌打ちをして、馬の腹を蹴った。白い騎馬の列が雪煙を上げて、谷の入口へ遠ざかっていった。
蹄の音が消えた。
前庭に静けさが戻った。
「……やった」
誰かが小さくつぶやいた。リナだった。次の瞬間、ニコがわっと歓声を上げた。
「やったああ!」
「ぷる!」
ルカが空に舞い上がって、くるくると旋回した。幻獣たちが、一斉に鳴き声を上げる。
カイは全身の力が抜けて、その場に座り込みそうになった。ガルドが、その肩をがしっと支える。
「無茶をしやがる」
「ガルドさん」
「だが、よくやった」
ガルドの口元が、わずかに緩んでいた。
カイはハイゼの方を向いた。
ハイゼは雪の中に一人立っていた。その顔は青白く、けれど、どこか、晴れやかだった。
「ハイゼ殿」
「……やってしまいました」
ハイゼは小さく苦笑した。
「院の査察官として、院長閣下の命令に、背く形になりました。王都に戻れば、評議会で、厳しい追及を受けるでしょう」
「ごめんなさい。僕が」
「いいえ」
ハイゼは首を横に振った。
「あなたが私に、診てから決める、という言葉を教えてくれたのです。私は昨夜、あの鳥を診てもらった。そして、あの少女が鳥を空へ放す姿を、見た」
雪がハイゼの肩に、静かに降りかかっていた。
「診て、決めた結果です。後悔は、していません」
その言葉は穏やかで確かだった。
「カイ殿。一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
「王都での審問に、証人として、出廷していただけませんか」
ハイゼは、まっすぐにカイを見た。
「あなたの診察の記録が、院長の不正を、裏づける最大の証拠になります。そして、あなた自身の言葉が」
カイは少しの間、考えていた。
それから、リナの顔を見た。リナは真剣な顔でうなずいた。ニコも、ぎゅっと拳を握りしめている。
「分かりました」
静かに答えた。
「行きます。診てから、決める。その結果を王都でお話しします」




