手記を守る
夜が、来た。
館は、白い外套の兵に取り囲まれていた。庭に篝火が焚かれ、門に槍が立っている。
窓の外は雪明かりと炎の赤で、ほの暗く揺れていた。
広間に全員が集まっていた。
カイ。リナ。ニコ。ミレーヌ。ガルドとグレイ。トバ。バーサ。レンデル。イゼルダとヴェルナー。そして、ハイゼ。
卓の中央に、粗い紙の帳面が置かれている。初代の手記だった。
「夜明けまでに、決めなければなりません」
カイは静かに言った。
「あの隊長は、手記と、聴診器と、幻獣たちを、押収しに来ました。夜明けに、実力で来るでしょう」
「抵抗しますか」
イゼルダが聞いた。
「いえ。戦いません」
カイは首を振った。
「四十人に、六人では勝てない。それに、戦えば、幻獣たちが巻き込まれる」
「ではどうする」
ヴェルナーが低い声で聞いた。
「奪われないようにします。手記を」
カイは手記を持ち上げた。
「手記の原本は、診療所の地下に隠します。トバさん。隠し棚の場所は」
「あります」
トバがうなずいた。
「ミトラの者が、代々守ってきた場所です。石の台の下に、小さな空洞が。開けるには、聴き手が必要です」
「聴診器が、鍵か」
「はい。そして、隊長が診療所の扉を開けられないのは前と同じです。聴き手がなければ、誰も中には入れない」
「だったら」
ガルドが腕を組んだ。
「あんたが、聴診器を持ったまま、扉の前に立っていれば」
「それでは僕が、捕まった時に終わります」
カイは首を横に振った。
「聴診器を奪われたら、扉は開かなくなる。隊長がその扉の前で、僕から聴診器を、取り上げるでしょう。だから」
「手記を、複数に分ける」
バーサが低くつぶやいた。
「ああ。輪の者が、昔やったことさ。あの夜も、そうだった。一つの場所に、全部を置かなかった。山へ散った」
「はい」
カイはバーサを見た。
「手記の、写しを作ります。何部も。それぞれ別の場所へ、託す」
「写し」
リナが顔を上げた。
「でも、日本語は」
「僕にしか読めない。だから、リナには形をそのまま写してもらう」
カイはリナとニコの前に、紙と筆を置いた。
「意味は、分からなくていい。一画ずつ見えたとおりに写してほしい。いつか読める人が、現れた時のために」
「いつか、読める人」
ニコが、不思議そうに繰り返した。
「僕のように、遠くから来る人かもしれない。あるいは僕が、読み方を、君たちに教えるかもしれない」
「わたしやります」
リナが即座に言った。
「ぼくも」
ニコも筆を取った。
「ただし、時間がない。日の出まで六時間」
「ハイゼ殿の書記の方から、紙をお借りしました」
レンデルが、卓に分厚い紙の束を置いた。
「薄い紙です。写しを何部も取るならこれが」
「ありがとうございます」
カイはハイゼを見た。ハイゼは小さくうなずいた。
「これは私の、個人的な寄付です。査察記録とは、無関係の紙です」
その口元に、わずかな笑みがあった。
* * *
夜が更けていった。
広間の隅に小さな灯りが一つ。リナとニコが向かい合って、手記の頁を写していた。細い縦書きの文字を一画一画筆でなぞる。
「ここの線は、長い?」
「うん。上から下まで、まっすぐ」
「こっちは?」
「くるっと曲がってる」
二人の声がささやき合う。筆が紙を擦る音。時折リナがふっと息を詰める。写し間違いに気づいて、新しい紙を取り出す。
カイは傍らで口頭で、手記の内容を読み上げていた。
『最後の診療所は、西の海辺に作った』
「その言葉の、読み方を教えるね」
「うん」
「さ、い、ご」
「さいご」
ニコが口の中で繰り返した。
「診療所、だよ。しん、りょう、じょ」
「しんりょうじょ」
「そう。こう書く」
カイはニコの筆を持つ手に、自分の手を添えた。
「診察の、診」
ゆっくりと一画ずつ教える。ニコは息を詰めて、その動きを見つめていた。
その向こうでミレーヌが、薬草茶を淹れていた。バーサが年下の弟と、小声で何か話している。
ガルドが、グレイの背を撫でながら、窓の外の見張りを確認している。
イゼルダが卓の隅で、手紙を書いていた。
「ダリウス局長宛てです。帳簿の写しと、今夜の状況を」
「届けられますか」
「トバ殿の風羽鳥に」
イゼルダはヒバを、膝に乗せていた。トバがヒバの足に、小さな筒を結びつける。
「頼むよ、ヒバ。夜のうちに、領都まで」
風羽鳥は小さく鳴いた。トバが窓をそっと開ける。冷たい夜風が吹き込んだ。
ヒバはばさりと羽ばたいて、雪の夜空へ飛び立っていった。
「写しは何部できる」
「五部です」
リナが疲れた声で答えた。
指先が、墨で真っ黒になっている。目の下にくまができている。それでも、筆を止めなかった。
「最後の、頁です」
「うん」
署名の頁。滲んだ名前の輪郭をリナは、慎重に写し取った。
『どうか、続きを』
その一行をリナはゆっくりと筆でなぞった。
「……できました」
リナが筆を置いた。ニコも隣でぐったりと息をついた。
「ありがとう。二人とも」
カイは写しを一部ずつ手に取った。
「一部は、バーサさんに。ホロ村と、谷の周辺に。一部は、トバさんに。診療所の地下に。一部は、イゼルダ殿に。局の書庫に」
「承知した」
「もう一部は僕が持ちます。そして、最後の一部は」
カイはリナを見た。
「リナ。君が、持っていてくれ」
「えっ。わたしが」
「うん。君が一番、丁寧に写してくれた」
リナの目が潤んだ。
「……はい。大事に持ちます」
「手記の原本は」
カイは手記を胸に抱いた。
「僕とトバさんで、地下の隠し棚に納めます」
深夜、診療所の地下の扉が静かに開いた。
石の輪の下の、ミトラの診療所。ランプの光が、棚の古い本をほのかに照らしている。
石の台の下にトバの導きで、小さな隠し棚が見つかった。
カイは手記を、そっとそこに納めた。
石の蓋が閉じられる。
「これで、聴き手がなければ、誰にも取り出せません」
「はい」
トバが深くうなずいた。
「ミトラの者が、百年守ってきた場所です。今夜、もう一度使うことになりました」
カイは石の台に、そっと手を置いた。
(必ず、戻ってくる)
胸の中で静かに誓った。
扉を閉めて、診療所の地上へ戻ったとき、東の空が、薄く白み始めていた。
夜明けまで、あとわずかだった。




