帳簿の矛盾
広間の長卓に、分厚い帳簿が広げられた。
イゼルダが疲れの滲んだ顔で、頁をめくっている。その隣にヴェルナーが、黙って立っていた。向かいにカイとハイゼ。
リナとミレーヌ、レンデルも少し離れて耳を傾けている。
「これが、伯爵の私的な帳簿です」
イゼルダは低い声で言った。
「領都の邸宅の、地下書庫から押収しました。暗号で書かれていて、解読に手間取りました」
「暗号」
カイが聞き返した。
「ええ。数字と、花の名前の組み合わせです。花の名が、取引先を表していました。月光鹿の子は、白い菫。風羽鳥は、青い鈴蘭。竜は」
イゼルダは一枚の頁を指で押さえた。
「白い薔薇、と書かれていました」
その頁には細かい文字で、取引の記録が並んでいた。日付。個体の種類。納入先。金額。
「納入先の欄を、ご覧ください」
カイは頁をのぞき込んだ。そこに同じ文字が、繰り返し書かれていた。
『白竜の庭』
「白竜の、庭」
「王立幻獣院の、院長室の隠語です」
ヴェルナーが短く言った。
「院長の私的な、庭。つまり、院長が直接、受け取っていた」
ハイゼの顔から、血の気が引いた。
「……そんな、馬鹿な」
声がわずかに震えていた。
「イゼルダ殿。それは確かですか」
「確実です。他の帳簿とも、照合しました。ベルクハイム伯爵は、五年間にわたり、幻獣を院長に納入していた。表向きは、保護施設の個体の名目で」
「保護の名目で」
ハイゼは小さく、繰り返した。
「院の保護園に入るはずの個体が院長室に」
「その後の行方は不明です。ただ、納入された個体の数と、保護園の記録上の頭数は一致していません」
イゼルダは頁をめくった。
「この三年だけで百頭近くが」
「百頭」
リナが息をのんだ。
その時、ハイゼが突然、立ち上がった。
「失礼します」
足早に広間を出ていった。扉がばたんと閉まる。
「ハイゼ殿」
カイは後を追おうとした。ヴェルナーが手で制した。
「待て。一人にしてやれ」
「でも」
「あの男は、自分の組織の記録に、初めて疑いを持った」
ヴェルナーの声は静かだった。
「それがどれほど重いことか、君なら分かるだろう」
カイは足を止めた。
* * *
ハイゼは館の裏庭に、一人で立っていた。
石のベンチの上にライヒが、うずくまっている。ハイゼはその前に立ち尽くして、雪の積もった空を見上げていた。
「ハイゼ殿」
カイがそっと声をかけた。ハイゼは振り向かなかった。
「……四年前です」
低い声だった。
「私は領都の、伯爵の保護館を、査察したことがあります」
カイははっとした。
「その時、あなたが」
「ええ。伯爵の案内で、館を見て回りました。幻獣たちはみな、静かでした。毛艶も良かった。飼育係が丁寧に世話をしていると説明されました」
ハイゼの肩が、小さく震えていた。
「私は、報告書に書きました。『保護状態は、良好。特記事項なし』と」
「それは」
「あの子たちは、眠らされていたのです」
ハイゼはようやく、振り向いた。その目に涙が光っていた。
「静かだったのは、薬のせいだった。私はそれを、見抜けなかった。あなたは一目で見抜いた」
「ハイゼ殿。それは僕が、獣医だったから」
「違います」
ハイゼは首を横に振った。
「私は規則を、読んでいた。記録を、確かめていた。けれど、あの子たちの目を見ていなかった」
声がかすれた。
「あなたの査察記録を読みました。一頭ずつ体を見て目を見て、体の音を聴いて。あれが診る、ということなのですね」
「……はい」
「私はこれまで、書類を守ってきました。けれど、書類の向こうにいる子たちを、守れていなかった」
ハイゼは顔を覆った。肩が小さく揺れた。
カイは何も言わず、その隣に立った。雪が二人の肩に、静かに降り積もる。
「ハイゼ殿。一つだけ、言わせてください」
「……はい」
「あなたは昨夜、ライヒを、僕の前に出してくれました」
ハイゼははっと顔を上げた。
「処分されるはずの鳥を、十二年間、隠して守ってきた。それはあなたが、書類の向こうにいる子を、ちゃんと見ていた証拠です」
「それは」
「規則を運ぶだけの人間は、そんなことはしません」
ハイゼはしばらく、カイの顔を見ていた。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとうございます」
涙を手の甲で拭った。
「私は、決めなければなりません。院の査察官として。いえ」
ハイゼは背筋を伸ばした。
「一人の人間として」
その時、谷の入口の方から鋭い角笛の音が高く鳴り響いた。
「何だ」
「警笛です!」
誰かが叫んだ。
イゼルダが館の扉を勢いよく開けて、駆け出してきた。
「来ました!」
「何が」
「王都の、部隊です。院長直属の」
雪の谷の入口に白い外套の騎馬の群れが現れていた。数は四十は下らない。先頭の馬に白い竜を縫い取った大きな旗。
その旗はハイゼの紺色のものよりも、はるかに大きくそして、冷たい白だった。




