ツキの空
五日目の朝、谷はよく晴れた。
雪の上に朝日が反射して、まぶしいほど白かった。診療所の裏の斜面に、リナとニコが並んで立っていた。
足元に風羽鳥が一羽止まっている。
セナだった。
薄青い風切り羽。細い首。保護された時は翼を力なく垂らしていた鳥が、今は背筋を伸ばして、空を見上げている。
「今日、放すの?」
ニコが小声で聞いた。
「うん。カイさんが、判断はわたしに任せるって」
リナは緊張した声で答えた。
昨夜、カイは、リナに言ったのだった。
『セナの飛行試験は、君に任せる。放すかどうか、決めるのも、君だ』
『わたしが、ですか』
『うん。この子を、一番長く診たのは、リナだから』
その言葉がまだ胸の中で、ずっしりと響いていた。
「準備は、いい?」
リナは深呼吸をした。それから、セナの足元に膝をついた。
「セナ。今日は、少し遠くまで飛んでみようね」
セナは首をかしげて、リナを見つめた。リナはそっとその羽に手を触れた。
飛行試験の項目はリナが自分で決めた。
一つ目。翼の力。羽ばたきの強さ。
「ニコ君。そこに立って、手を上げて」
「うん」
ニコが斜面の下に立ち、腕を高く掲げた。リナはセナを促した。セナはばさりと羽ばたいて舞い上がった。
ニコの手の上を、すっと通り過ぎる。
「高さは、十分」
二つ目。持久力。
「斜面の端から、あの岩まで。往復して」
セナはリナの指した岩へ、まっすぐに飛んだ。そして、戻ってきた。息が乱れていない。
「三つ目。着地」
セナはリナの肩に、ふわりと降りた。爪が柔らかく触れる。痛みはなかった。
「合格」
リナは小さくつぶやいた。それから、ふと、セナの背を撫でる手が止まった。
(合格、だけど)
頭の中で別の声が囁いた。
『放して、本当に大丈夫? 外は、冬だよ。餌は? 敵は?』
胸がきゅっと痛んだ。
「リナ」
背後から、静かな声がした。カイがいつの間にか、そばに立っていた。
「迷っているね」
「はい」
リナは素直に認めた。
「飛べるようになりました。体重も、戻りました。でも、放すのが怖いんです。外でうまく生きていけるか分からない」
「うん」
「ここにいれば餌もあるし、温かいし安全です。でも、それは」
リナは言葉を探した。
「保護、なんですよね。自由じゃ、ない」
カイは何も言わず、リナの横顔を見ていた。
「診ることは治すことじゃなくて、帰すことなんだって思います」
リナは小さな声で続けた。
「カイさんが、ルカさんを母竜に帰したみたいに。ツキとユエを、会わせたみたいに」
「うん」
「でも、帰すって怖いです。もう、診られなくなる」
リナの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「でも、決めました」
リナは袖で涙を拭った。それから、セナを両手でそっと持ち上げた。
「セナ。ありがとう。元気になって、くれて」
セナはリナの顔を、じっと見つめた。黒い瞳がきらりと光る。
「行っておいで」
リナは両手を空へ向かって押し出した。
セナはばさりと羽ばたいた。斜面の上へ、ぐんぐんと上昇していく。朝日を背にして薄青い翼が、きらきらと輝いた。
一度、旋回した。リナの頭上をゆっくりと。それから、谷の外へ向かってまっすぐに飛んでいった。
その後ろから小さな金色の影が、ふわりと舞い上がった。
ルカだった。
「ぷる!」
ルカは、セナの隣に並んで飛んだ。二羽が朝の空を、並んで滑っていく。
やがて、谷の尾根の向こうへ小さな点になって見えなくなった。
「……行っちゃった」
ニコがぽつりと言った。
「うん」
リナは空を見上げていた。涙が頬を伝っていた。けれど、その顔は笑っていた。
「ちゃんと帰したよ」
カイが、そっとリナの肩に手を置いた。
「立派な判断だった」
「……はい」
「ツキたちを、見に行こう」
三人は斜面を降りて、谷の入口へ向かった。
谷の入口の雪の積もった草原に、二つの白い影が、ゆっくりと歩いていた。ユエと、ツキ。母娘は並んで、谷の外れへ向かっていた。
ツキがふと立ち止まった。尾根の向こう、青い空を見上げる。それから、母の顔を見た。
ユエが静かに首を傾けた。
ツキは一歩、前へ踏み出した。雪の上に小さな蹄の跡が、ぽつりとついた。もう一歩。もう一歩。
谷の境を越えるか、越えないか。その手前で、二頭は立ち止まった。
「まだ、行かないんだ」
ニコがささやいた。
「うん。ゆっくりでいいんだよ。自分で決めるんだ」
カイは静かに言った。
その様子を、少し離れた雪の上から、じっと見つめている人影があった。
ハイゼだった。
外套の肩に雪を積もらせて、動かない。手には、小さな手帳が握られていた。けれど、書き留める手は止まっていた。
「ハイゼ殿」
カイが近づくと、ハイゼはゆっくりと顔を向けた。
「……見ていました」
「はい」
「あの鳥を放す判断を、あの少女が」
「はい。リナが自分で、決めました」
ハイゼは手帳を静かに閉じた。
「保護と自由の違いを、初めて目で見ました」
ぽつりと言った。
「私はこれまで保護することが、守ることだと、思っていました。檻の中で、安全に生かすこと」
「はい」
「けれど、あの子は檻から、出しました。怖いと言いながら。それが守ることなのだと、あの子は知っている」
ハイゼの声が、わずかに震えていた。
「報告書に、書き留めておきます。『保護個体の、野生復帰の試みについて』」
カイは微笑んだ。
そして、その時だった。
谷の入口の方から、馬の蹄の音が聞こえてきた。一頭。いや、二頭。
「誰か、来る」
ニコが背伸びをした。
雪道の向こうから、灰色の外套の騎馬が近づいてくる。先頭を走るのは見覚えのある、背筋の伸びた女性だった。
「イゼルダ殿!」
カイは思わず、声を上げた。
馬は谷の入口で止まった。イゼルダが馬上から、雪の上に降り立った。その背後に、ヴェルナーの姿もある。
「カイ殿。急ぎ、お伝えしたいことがあります」
イゼルダはいつもの冷静な声で、けれど、わずかに息を乱して言った。
「伯爵の帳簿をすべて解読しました」




