査察官の鳥
三日目の夜、カイは眠れなかった。
館の廊下を歩いていると、窓の向こうに小さな灯りが見えた。裏庭の隅。雪の積もった石のベンチに、人影が座っている。
ハイゼだった。
外套を肩に掛けて、膝の上に何かを抱えている。灰色の、小さな塊。ランプの光に、薄い羽がちらりと光った。
(風羽鳥?)
カイは静かに外へ出た。雪を踏む足音に、ハイゼが振り向いた。
「……カイ殿」
「失礼しました。灯りが見えたので」
「いえ」
ハイゼは、慌てたように膝の上のものを、外套の内側に隠そうとした。
けれど、灰色の鳥がぴくりと身じろぎして、その翼の端がちらりとのぞいた。
左の翼がだらりと垂れていた。
「その子は」
「……伝令鳥です。名はライヒ」
ハイゼは、観念したように小さく答えた。
「十二年、私と一緒に、王都と各地を飛んでくれました」
灰色の風羽鳥はくちばしを小さく開いて、かすれた声で鳴いた。羽毛は、ところどころ白くなっている。老鳥だった。
「左の翼が、どうかされましたか」
「去年の冬、嵐の中を飛ばせました。急ぎの書状を届けるために」
ハイゼの声が低くなった。
「それ以来、左の翼が、思うように上がらない。最近はほとんど、飛べません」
カイは少しの間、黙っていた。それから、静かに言った。
「見せていただけますか」
「いえ。それは」
「診るだけです。診てから、決めます」
ハイゼはカイの顔をじっと見た。その目に迷いと疲れが、見え隠れしていた。
やがて、小さく、息を吐いた。
「……お願いします」
カイは、ベンチの隣に腰を下ろした。ランプを近くに引き寄せる。
「ライヒ。少し触るよ」
ライヒはじっとしていた。カイは、そっと左の翼を持ち上げた。羽毛の下に指を滑らせる。
肩のあたりの筋肉が、薄くなっている。付け根の関節に、わずかな熱があった。
ゆっくりと広げようとすると、ライヒが、痛そうにくちばしを開いた。
「痛みがありますね。慢性のものです」
「痛み」
「はい。神経が、傷んだのだと思います。嵐の中で、翼を酷使して、肩の神経に負担がかかった。それが、うまく治らずに筋肉が痩せて、動かなくなっている」
カイは聴診器を取り出して、ライヒの胸に当てた。
とく、とく、とく。
「心臓は、しっかりしています。体力もまだある。完全に治すことは難しい。でも」
「でも」
「痛みを和らげて、残っている筋肉を、動かせる範囲で、保つことはできます」
ハイゼの目が見開かれた。
「できる、のですか」
「ミレーヌ薬草師に頼んで、痛み止めの薬草を。それと、温めること。毎日、少しずつ、翼を動かす練習。無理に飛ばさず、短い距離から」
カイは一つ一つ、指を折って説明した。
「ただし、伝令としては、もう飛べないかもしれません。長距離は無理です」
「……そうでしょうね」
ハイゼはうつむいた。
「分かっていました」
低い声だった。夜の雪が音もなく、降り続けている。
「院には、規則があります」
ハイゼがぽつりと言った。
「伝令鳥は飛べなくなったら処分する。それが慣例です。新しい鳥に、交代する」
カイは息をのんだ。
「だから、隠していたんですね」
「はい」
ハイゼは顔を上げずに続けた。
「十二年です。私が院に入った年から、ずっと一緒でした。処分など、できるはずがない」
「ハイゼ殿」
「私の父は、鷹匠でした」
唐突な告白だった。カイは黙って耳を傾けた。
「子どもの頃、父の鷹が年を取って、飛べなくなりました。父は泣きながら、その鷹を処分しました。国の規則で、決まっていたからです」
雪がハイゼの黒い髪に、白く降りかかっていた。
「私はその時、思いました。規則さえ変えられれば、あの鷹は助かったのだ、と。だから、院に入った。幻獣と鳥獣を守る国の機関に」
「そう、だったんですか」
「けれど」
ハイゼは、自嘲するように笑った。
「入ってみると、変えられるのは規則を運用する側の、ごく一部だけでした。規則そのものを、変える力はありません。だから、私は規則を誠実に守ることしかできなくなった」
「誠実に守ること」
「ええ。それが私の、できる全てです」
初日の査察の後に言われた言葉が、カイの胸に蘇った。
(私は、嘘が嫌いです。だから、規則どおりにしか、動きません)
あれは冷たさではなかった。誠実であろうとする人間が、動ける範囲を、必死に守ろうとする言葉だったのだ。
「ハイゼ殿」
カイは静かに言った。
「僕も似たような経験があります」
「あなたも」
「前にいた場所で。規則や、時間や、いろいろな制約で、診たかった子を、診られなかったことが何度もあります」
カイはライヒの背をそっと撫でた。
「だから、今は決めているんです。診てから、決める。診る前に、諦めない。そのための記録を、残す。それが僕にできる、戦い方です」
「診てから、決める」
ハイゼは繰り返した。
「いい言葉です」
「僕の口癖です」
二人は顔を見合わせて小さく笑った。
「ライヒの治療を、させていただけますか」
「……お願いします」
ハイゼは深く頭を下げた。
「規則では、いけないのですが。私は今夜だけ規則を、少し忘れることにします」
カイはうなずいた。
翌朝、ミレーヌが調合した痛み止めの薬草が、ライヒに与えられた。温めた布が、翼の付け根に巻かれた。
ライヒは、ほっとしたように目を細めた。
その様子を、ハイゼは黙って見つめていた。
初めて、彼の口元に柔らかな笑みが浮かんだ。




