査察官
馬車から降りてきた男は細身だった。
四十代の初め。黒い髪を、きっちりと後ろで結んでいる。深い紺色の外套に白い竜の紋章。
顔つきは穏やかで、目だけが静かに周囲を観察していた。
雪の前庭に降り立つと、彼はまず、足元の雪を見た。それから、散らばる幻獣たちをゆっくりと見渡した。
「王立幻獣院、査察官のエルンスト・ハイゼです」
男はカイの前で足を止めて、礼儀正しく一礼した。
「北のミトラ診療所の責任者の方は」
「僕です。アルム魔獣診療所の、カイと申します。巡回獣医官を務めています」
「ああ」
ハイゼはわずかに目を細めた。
「お噂は、伺っています。ベルクハイム伯爵の件。母竜の件も」
「恐縮です」
「七日後の到着と、お伝えしましたが、予定より早くなりました。お詫びします。道が思ったより、空いておりまして」
声は淡々としていた。けれど、威圧感はなかった。むしろその丁寧さが、カイの警戒心をかえって強くさせた。
「早速ですが、査察を始めさせていただきます」
「どうぞ。ご案内します」
ハイゼの後ろに、書記が二人、兵が八人ついていた。兵は紺色の外套。槍は持っていない。腰に短い剣だけ。
カイは、リナとニコに目配せをした。二人は緊張した面持ちでうなずいた。
* * *
査察は徹底していた。
最初に館の広間。かつての檻は撤去され、藁と柔らかい布を敷いた、広い寝床になっている。
ハイゼは一頭ずつ、幻獣の前に立った。
「この子は」
「銀毛の狐です。名は、ギン」
答えたのはリナだった。ハイゼは振り向いた。
「あなたは」
「リナといいます。この診療所の、助手です」
「年は」
「十五です」
ハイゼはほんのわずかに眉を動かした。それから、書記に向かって短く言った。
「記録を。助手の名は、リナ。年齢、十五」
書記が、さらさらと筆を走らせる。
ハイゼは再び、銀狐の前に屈んだ。狐は警戒したように、ハイゼを見上げた。けれど、逃げなかった。
「診察の記録は、ありますか」
「あります」
リナが板の束を抱えてきた。ハイゼはそれを受け取って一枚ずつ目を通した。
「ギン。雄。推定三歳。体重、保護時で標準の六割。鎮静薬の長期投与の痕跡。十五日前から減薬を開始し、八日前に完了。現在、標準の九割」
低い声で読み上げる。
「採食は、自力。夜間の鳴き声は三日前から。……鳴き声は回復の兆候と、記録されていますね」
「はい」
リナがはっきりとうなずいた。
「元気になると、鳴くようになるんです」
「なるほど」
ハイゼは板を、ゆっくりと書記に渡した。
「この記録を、書いたのは」
「わたしです。カイさんに、教わって」
「字が丁寧です」
ハイゼは短くそう言った。それだけだった。けれど、リナの頬が少し赤くなった。
査察は続いた。三十頭すべて。ハイゼは一頭ずつ体を見て、目を見て記録を確かめた。時折、質問をした。
「この猿は」
「鱗猿の、雌です。名はミカン」
答えたのはニコだった。
「ミカン、とは」
「ぼくが、つけました。目が、ミカンの色だったから」
ハイゼは、ほんの少し口元を緩めた。
「いい名前です」
それから、書記に命じた。
「個体名はすべて、そのまま記録を。名前を、番号で置き換えないこと」
書記は少し驚いたような顔をしたが黙って従った。
カイはその様子を後ろから見ていた。
(この人は、ただの役人じゃない)
細部まで見ている。名前を大事にしている。けれど、だからこそ油断はできなかった。
最後に、ハイゼは玄関前の広間に戻った。窓から雪の庭が見える。
「査察を終えます」
ハイゼは書記に目配せをした。書記が一枚の書類を卓に広げた。
「まず、結論から申し上げます」
ハイゼは静かに言った。
「保護個体三十頭は、王国の財産です。幻獣保護法第九条に基づき、王立幻獣院が管理します」
「管理、とは」
「十日以内に王都の保護園へ移送します」
カイの全身が冷たくなった。
「移送」
「ええ。全頭を、です」
リナが息をのんだ。ニコがカイの袖を、ぎゅっと掴んだ。
「待ってください」
カイは一歩、前に出た。
「あの子たちはようやく、立ち直ったばかりです。冬の旅は、命に関わります」
「承知しています」
ハイゼは表情を変えなかった。
「それでも、法は法です。幻獣は局の管轄ではなく院の管轄。これまで伯爵が不法に収集し、あなた方が、善意で診ていた。その事実は、記録します。ただし、診察の権限は、魔獣診療の認可に基づくもの。幻獣の診療は、院の許可が必要です」
「それは」
「あなた方の治療に、問題があったとは、考えていません。結果は見事です。ただ、手続きとして不備があった。それだけです」
ハイゼはきちんとした口調で言い切った。
カイは唇を噛んだ。反論がすぐには、見つからなかった。法的には確かにそうだった。
ダリウス局長の手紙にも、拒めない、と書かれていた。
「反論があれば、七日以内に、書面で提出してください。院に報告します」
「……分かりました」
「それでは」
ハイゼは一礼した。それから、ふと、足を止めて振り返った。
「カイ殿」
「はい」
「あなたは、診る人、なのですね」
唐突な言葉だった。カイは目を瞬いた。
「はい」
「だとすれば、一つだけお伝えしておきます。私は、嘘が嫌いです。だから、規則どおりにしか、動きません。それが私の、できる全てです」
穏やかな声だった。けれど、その奥にわずかな痛みのようなものが滲んでいた。
「七日。診察の記録を、お待ちしています」
ハイゼはそう言い残して、書記たちを連れて、館の客間へ向かっていった。
扉が静かに閉まった。
沈黙が落ちた。
「……カイさん」
リナが小さな声で言った。
「どうするんですか」
カイは閉じた扉を、じっと見つめていた。
「診てから、決める」
静かに答えた。
「七日あれば、できることがある。あの子たち一頭ずつの、診察記録を整える。移送が、どれだけ危険か。数字と根拠で、示す」
「記録で、戦うんですね」
リナが顔を上げた。
「うん。それが僕たちにできる一番強い方法だ」
カイは腕まくりをした。
「ミレーヌさん。レンデルさん。トバさん。みんなを、呼んでください。今夜から、始めます」
雪がまた、降り始めていた。




