開院の日
谷は雪に覆われていた。
四日の旅の末、馬車が尾根を越えた時、カイは息をのんだ。
白い雪の谷の底に、見慣れた白い建物が建っていた。かつて伯爵が、別邸として建てた館。
屋根の青い瓦の上にも、雪が積もっている。けれど、以前のような冷たい印象は薄れていた。
玄関の上に、新しい看板が掛かっている。
『北のミトラ診療所』
文字は素朴な彫りだった。トバが彫ったのだという。
「着いたね」
ミレーヌが窓の外を眺めて、ぽつりと言った。
馬車が門をくぐる。鉄の門扉は、開けっ放しになっていた。その向こうに人影が見える。
「獣医さん!」
白い息を吐いて、小さな影が走ってきた。ニコが、馬車の窓から飛び出していた。
「バーサ婆ちゃん、見て! 谷が、変わってる!」
「ああ、本当だね」
バーサも窓から顔を出した。
「ずいぶん、きれいになった」
馬車が止まった。カイは扉を開けて、雪の積もった前庭に降りた。
前庭には、色とりどりの小さな影が散らばっていた。
銀色の毛並みの狐。鱗に覆われた猿。黒い猫。薄青い翼の鳥。風羽鳥が雪の上に降りて、羽をばさばさと動かしている。
どの子も、体が一回り大きくなっていた。目がきらきらと光っている。
「みんな」
カイは思わず、つぶやいた。
「元気になったんだ」
「獣医官殿」
玄関から白髪の老人が、杖もつかずに歩いてきた。トバだった。その後ろにレンデルが、手袋をはずして頭を下げている。
「お待ちしておりました」
「トバさん。レンデルさん。ご無沙汰しています」
「幻獣たちはみな、順調に回復しております」
レンデルが丁寧に言った。
「減薬は、すべて完了しました。体重もほとんどの子が、標準に戻りつつあります」
「素晴らしいです」
「いえ。獣医官殿の、お教えのおかげです」
レンデルは深く頭を下げた。目の下のくまは、すっかり消えていた。
「それから」
トバがにやりと笑った。
「今日はもう一つ、いい日になりますよ」
「え?」
その時、谷の入口から馬車の音が聞こえてきた。
ごとごとと重い車輪の音。灰色の外套の局員が、御者台に座っている。荷台の幌が揺れていた。
「あれは」
レンデルが息をのんだ。
馬車は前庭に入ってきた。局員が御者台から降りて、カイに一礼する。
「領都よりご依頼の個体をお連れしました」
荷台の幌が、ゆっくりと開かれた。
その中から三つの小さな影が顔を出した。
白い毛並みの、小さな月光鹿。細長い風切り羽の、風羽鳥。黒い毛並みの、影猫。
「ミオ。リン。ヨル」
レンデルの声が震えていた。
三頭は荷台から降りた。ミオが真っ先に、レンデルの足元へ駆け寄った。小さな頭を、レンデルの膝に押しつける。
リンがレンデルの肩にとまって羽を震わせた。ヨルが足首に体をすり寄せた。
「……ああ」
レンデルは、その場に膝をついた。三頭を両腕で抱きしめる。
「会いたかった。会いたかったよ」
声が涙で掠れていた。
カイは静かに、その光景を見守っていた。
その時、前庭の別の方向から小さな足音が近づいてきた。
「ぴゅい」
白い毛並みの痩せた鹿が、そろそろと歩いてくる。額に三日月の斑。ツキだった。
その後ろから大きな母鹿のユエが、ゆっくりとついてくる。
ミオが顔を上げた。ツキを見つめる。
三頭の月光鹿が向かい合った。
ミオがぴゅい、と鳴いた。ツキがぴゅい、と返した。ユエが静かに首を伸ばして、ミオの額に鼻先を触れさせた。
銀色の小さな角の芽。三日月の斑。同じ種の同じ光を持つ者たちが、静かに、互いの存在を確かめ合っていた。
「同じ種の仲間に会えたんですね」
リナが小さくつぶやいた。
「うん」
カイの胸がじんと熱くなった。
ルカが肩から、ふわりと飛び立った。ミオたちの周りを、くるくると旋回する。ぷるる、ぷるると楽しげな声で鳴いた。
風羽鳥のリンが、それに応えるように翼を広げた。
前庭に春のような温かい空気が広がっていた。
ソラは、リナの腕の中で、尻尾をぱたぱたと振っていた。ミレーヌが、そのソラを、じろりと見た。
「あんたは、まだ幻獣に触るんじゃないよ。病気を持ち込んだら、大ごとだ」
リナは慌てて、ソラを抱き直した。
「ようこそ」
トバが静かに言った。
「北のミトラ診療所へ。今日が、開院の日です」
カイは胸を張って、前庭を見渡した。
(続きを、やる)
この谷の診療所がこれから、新しい始まりを迎える。
そう思った時だった。
谷の入口の方からラッパの音が、高く鳴り響いた。
全員がはっと顔を上げた。
雪道の向こうから、紺色の外套の騎馬が、列をなして近づいてくる。先頭の馬の旗に白い竜の紋章。
その後ろに、黒塗りの馬車が一台。
「あれは」
トバが険しい顔をした。
「王立幻獣院の、旗です」
カイは静かに息を吐いた。
(予定より、早い)
七日後と言っていた。まだ五日しか経っていない。
「全員、落ち着いて」
カイは小声で言った。
「僕が出迎えます。リナ、ニコ君。君たちは、幻獣たちのそばにいて」
「はい」
「うん」
雪を踏む蹄の音が近づいてくる。前庭の門をくぐって、黒い馬車が止まった。
扉がゆっくりと開いた。




