同じ症状
ミストフォックスは抱き上げても抵抗しなかった。霧のように淡い毛並み。
腕の中で細かく震えている。思ったより、ずっと軽かった。
「カイさん、この子……ガルドさんが言ってた子と同じですよね」
「うん。たぶんそうだ」
「どうして、こんなことに……」
「分からない。それをこれから調べよう」
早足で診療所へ戻った。道すがら、リナは何度も腕の中の狐を覗き込んだ。
「しっかり。もうすぐ、着くからね」
診察台の上に、ミストフォックスを寝かせる。
まず、体温。
(熱はない)
額に手を当て、耳の内側に指を当てる。
平熱だ。
聴診器を胸に当てる。心拍は速い。とくとくとくと、せわしなく鳴っている。
目を確かめる。
瞳孔が少し開き気味だ。光を当てても反応が鈍い。口の端からよだれが、ゆっくりと垂れていた。体を支えて立たせてみる。
ふらり。
後ろ脚がもつれた。
そのままくたりと倒れ込む。
(体の外には傷もない。骨折もない)
全身を指先で、一か所ずつ確かめる。咬まれた跡も刺された跡もない。毛をかき分けて見てもダニや虫の形跡は見当たらなかった。
(外から入ってきたものじゃない。体の中で、何かが起きてる)
「リナ、この子、いつから川にいたか分かる?」
「分かりません。でもさっきまで茂みの中で、じっとしてました」
カイは考え込んだ。
(熱がない。感染症なら、普通、熱が出る。でも神経に来る病気なら、出ないこともある。毒なら、こういう症状もあり得る。寄生虫の可能性もゼロじゃない)
材料が足りない。
「ミレーヌさんを呼んできてもらえる?」
「はい!」
ミレーヌはミストフォックスを一目見て眉をひそめた。
「こんな症状は見たことがないね」
「薬草の毒で、こういうことは?」
「ある。が、わしの知っとる毒草のどれともちょっと違う気がする」
老婆は狐の口元を覗き込んだ。
「よだれ、ふらつき、震え。それだけじゃ、断定できん。何かを食ったのか、それとも病か」
「僕も同じ意見です」
カイはうなずいた。
「原因が分からないうちは最悪の場合を考えておきたいんです」
「最悪?」
「人にも他の魔獣にも移る病気だった場合です」
ミレーヌの目がすっと細くなった。
「なるほどね」
「間違いだったなら、それでいい。でももし本当に感染症だったら、手遅れになります」
「慎重すぎる、とは言わんよ」
ミレーヌは狐の毛並みをそっと撫でた。
「あんたの慎重さは前にも見た。……好きにやりな」
* * *
三日後。
「カイ先生!」
トムが血相を変えて、診療所に飛び込んできた。腕に大きな籠を抱えている。中にぬめぬめした灰緑色の生き物が、三匹。
リバーサラマンダーだ。中型犬ほどの、水辺に棲む両生類型の魔獣。そのうち二匹は籠の中で、ぐったりしていた。
一匹はふらふらと起き上がろうとしてすぐ倒れる。
「川で見つけたんだ。みんな、変な動きをしてた」
「トム君、ありがとう。よく運んでくれたね」
診察する。
熱はない。ふらつき、よだれ、震え。
(同じだ)
ミストフォックスと、まったく同じ症状だった。その日のうちにさらに、もう一匹が運び込まれた。
リバーサラマンダーは計四頭。ミストフォックスと合わせて五頭になった。
「リナ。隔離しよう」
「え?」
「裏の納屋を使う。この子たちと、他の子を絶対に混ぜないように」
カイの声は静かだった。でも決意が滲んでいた。
診療所の裏にある、小さな納屋。ここをきれいに掃除して藁を敷いた。
診療所の本館とは別の入口をつけた。ドルンが扉の蝶番をすぐに直してくれた。ハンスが、余った藁を荷車いっぱいに運んできた。
村人たちは遠巻きに見ていた。でも誰も止めようとはしなかった。
「ソラやモコはこっちには連れてこない。ここの子たちを診る時は必ず別のエプロンを着て、終わったら、脱ぐ」
「エプロン……ですか」
「うん。体についた汚れや、病気のもとが、他へ運ばれないようにするんだ」
リナに手順を一つずつ教える。
手を灰汁で洗う。
その後、蒸留酒で指先まで拭く。使った道具は必ず、煮沸する。診察台も毎回、拭き清める。
「なんだか……すごく手間がかかりますね」
「うん。でもこれが、一番大事なんだ」
カイはリナの目を見た。
「病気は目に見えない。気づいた時にはもう広がってしまってる。だから、見えないうちに気をつける」
リナは真剣な顔でうなずいた。
「分かりました」
試しにリナに、一通りやってもらった。エプロンを着る。手を洗う。診察。エプロンを脱ぐ。手を洗う。道具を煮る。
最初は順番を間違えて慌てていた。でも三回目には手際よく、こなせるようになった。
「飲み込みが早いね」
「だって、大事なことなんですよね」
リナは少し誇らしげに笑った。
その日の夕方、村長が様子を見に来た。
「カイ殿。村の者が、噂をしておる。診療所に病気の魔獣が集まっていると」
「はい。事実です」
カイは正直に答えた。
「ただ、今のところ、人に移るという証拠はありません。原因もまだ分かっていません。でも念のため、隔離しています」
「……疫病の恐れはあるのか」
「分かりません。ただ、可能性はゼロじゃない。だから、できる限りの対策をしているということです」
村長は杖に寄りかかって、深く息を吐いた。
「大げさだと言う者もおる。魔獣など、放っておけと」
「はい」
「だが、わしはあんたを信じよう。村の者にはわしから説明する」
「ありがとうございます」
「ただし」
村長はじっとカイを見た。
「一刻も早く、原因を突き止めてくれ」
「全力を尽くします」
治療は手探りだった。原因が分からない以上、できることは限られていた。水分を少しずつ口に含ませる。
体を温める。
暗くて静かな場所で休ませる。
「それだけ、ですか?」
リナが不安そうに言った。
「今はね。何が原因か分かれば、もっとできることがある。それまで、体力を保たせる」
「分かりました」
納屋の中に五つの小さな寝息が並んでいた。
* * *
その夜。
診療所の灯りの下で、カイが記録をつけていた。見つけた場所、症状、経過。小さな板に炭で、書き込んでいく。
扉が静かに叩かれた。
「カイ殿」
村長だった。
手に一枚の手紙を持っている。
「領都から、使いが来た。……お前さんに関係することだ」
「僕に?」
「ああ」
村長は手紙の紋章を見せた。
剣と鎖の紋章。
「魔獣管理官が、五日後に視察に来る」
カイの手が止まった。
「そうですか」
「誰かが、領都に知らせたのだろう。診療所に病気の魔獣が集まっている、と」
炭を置く。
胸の奥がじわりと冷えていく。
(魔獣管理官。……病気の魔獣は処分する立場の人間)
窓の外では夜の風が、木々を揺らしていた。




