穏やかな最期
その日の朝は静かだった。診療所の戸をそっと叩く音がした。
「……ごめんください」
扉を開けると腰の曲がった老人が立っていた。毛布にくるんだ何かを大事そうに抱えている。
「ロイさん……?」
「リナちゃんか。先生はおいでかね」
「はい、どうぞ」
老人はゆっくりと診察台まで歩いた。その足取りは重かった。眠れていない人の、歩き方だった。毛布をそっとほどく。
中にいたのは一匹の猫だった。いや、猫によく似た羽毛混じりの毛並みの魔獣だ。フェザーキャット。
その毛はところどころ抜け落ちて、体はひどく痩せていた。
「チビ、というんだ。もう、十五年になる」
ロイは猫の背中を指先で撫でた。
「ここ五日、何も食べんくなってな。水もほとんど飲まん。足もふらついて……」
声が細くなる。
「先生。……もう、楽にしてやってほしい」
カイはまず、ロイの目を見た。
「診せてもらってもいいですか。決めるのはそれからでも」
「ああ。構わん」
チビはおとなしかった。抵抗する力がないのだ。まず、皮膚をつまんで離す。
本来なら、すぐに戻るはずが、ゆっくりゆっくりと戻らない。
(脱水がひどい)
口をそっと開ける。
口の中が赤くただれている。強い臭いがした。
(口内炎。尿毒症のにおいだ)
最後に、お腹に手を当てる。
腎臓を探る。
小さい。そして、硬い。
(慢性腎臓病。もう、かなり進んでる)
聴診器で胸の音を聞く。心臓はまだゆっくりと打っていた。
「チビはここ最近、水をたくさん飲んで、おしっこも多くなかったですか」
「ああ。そうだった。去年の秋あたりから、水ばかり飲んでおった」
「その頃から、少しずつ悪くなっていたんだと思います」
カイは手を離して、ロイに向き直った。
「ロイさん。正直にお話しします」
「ああ」
「チビちゃんの腎臓はもうほとんど働いていません。これは年を取ると、多くの猫に起こる病気です。治すことはできません」
ロイは目を閉じた。
ゆっくりとうなずいた。
「そうか」
「ただ、できることはあります」
カイは静かに続けた。
「選択肢は三つあります。一つは水分を皮下に少しずつ補う方法。治るわけではありませんが、今よりずっと楽になります」
「……」
「二つ目は眠るように、苦しみなく旅立たせる方法。これは薬草を使います」
ロイの肩がぴくりと動いた。
「三つ目はこのまま、自然な最期を一緒に迎える方法。これは痛みを和らげるお手伝いをしながら見守ります」
「……どれが、正しいんだ」
「どれも間違いではありません」
カイははっきりと言った。
「どれを選んでもロイさんがチビちゃんを想って決めたことが正解です。迷われて当然です」
ロイは長い間、黙っていた。
窓の外から鳥のさえずりが聞こえた。
「……昔な」
ロイがぽつりと言った。
「妻が亡くなった時、チビが、ずっとそばにいてくれた。冬だった。わしが起き上がれんくなって……こいつは毎晩、布団の中に潜り込んできた」
「……」
「それから、十年。こいつだけが、わしの家族だった」
ロイの目から、一筋、涙がこぼれた。
「飯を作っても誰も食わん。それでもわしはこいつの分まで毎日作った。そうせんと家が静かすぎてな」
「もう少しだけ。もう少しだけ一緒にいたい」
「分かりました」
カイはうなずいた。
「じゃあ、まず、水分を補いましょう。きっと少し楽になります」
道具を用意する。
ドルンに頼んで作ってもらった細い針。先端に、鳥の羽の軸をつないである。
「リナ、お湯を。それと、塩を」
「はい」
煮沸して冷ましたお湯に、塩をごく少し溶かす。人の体液に近い濃さに味見をして確かめる。
「ちょっとだけ、チクッとするよ。チビ、ごめんな」
首の後ろの皮膚をそっとつまむ。針を浅く差し入れる。ゆっくりと塩水を皮の下に流し込む。
皮膚の下に柔らかなふくらみができていく。チビはじっと動かなかった。
「よく、頑張ってるな」
注入が終わると、チビは小さくぷるりと身を震わせた。
「ありがとう、先生」
ロイは深く頭を下げた。
「これを毎日、続けます。リナがお手伝いに行きます」
「リナちゃんが?」
「はい。わたし毎日、行きます」
リナが力強く、うなずいた。
* * *
それから数日。
リナは毎日、ロイの家に通った。
小さな家だった。
窓辺に、猫用の毛布が敷かれている。壁には色褪せた、女性の絵姿が飾られていた。水を替える。毛布を温める。
口の中の痛みを和らげる、ミレーヌの蜂蜜水をスプーンで少しずつ。
「ほら、チビ。ちょっとだけ、舐めて」
チビは嫌がらなかった。ほんの少しだけ舌を動かす。
「えらいね。えらい」
リナはその様子を毎日、板に書き留めていった。食べた量。飲んだ水。排泄の様子。チビは少しだけ元気を取り戻した。
「あ……見て、カイさん」
ある日、様子を見に来たカイにリナが嬉しそうに言った。チビがロイの膝の上に、よじ登っていた。
「おお」
ロイが目を細めた。
「久しぶりだな、チビ。そこが、好きだったな」
穏やかな時間が流れた。初夏のはじめのあたたかな日差しが、窓から差し込んでいた。
チビはロイの膝の上で、ごろごろと小さく喉を鳴らした。
(この時間が、少しでも長く続きますように)
カイはそっと願った。
* * *
その夜、ロイの家から、使いが来た。
「先生、すぐに来てください」
駆けつけた時、チビはロイの膝の上で、静かに丸くなっていた。
呼吸が、浅い。
ゆっくりと、ゆっくりと。
「ありがとう、先生。来てくれて」
ロイが小さく言った。
「ここまで、こいつはよう頑張った。もう、十分だ」
「はい」
カイはそっとチビの胸に、聴診器を当てた。
小さな鼓動。
とく、とくと、ゆるやかに。
ロイはチビの頭を指でそっと撫でていた。
「チビ。……ありがとうな。わしの家族でいてくれて」
とく。
とく。
……。
静かに音が途切れた。
窓の外が白み始めていた。
カイは聴診器をゆっくりと外した。
「……穏やかでした。苦しまずに、旅立ちました」
「そうか」
ロイはチビを抱きしめた。
「よかった。……よかった」
小さな、小さな声だった。
リナが後ろで、静かに涙を流していた。
* * *
診療所に戻る道で、リナはずっと黙っていた。足を止めたのは川沿いの細い道だった。
「カイさん」
「うん」
「わたし、何もできませんでした」
リナの声が震えた。
「ずっと通ったのに。何も治せなくて」
「リナ」
カイは立ち止まった。
「治すことだけが、獣医の仕事じゃないんだ」
「治せない時に、どれだけ楽にしてあげられるか。飼い主さんが、どれだけ納得できるか。それも大事な仕事だ」
リナの目から涙があふれた。
「泣いていい。僕も何度も泣いてきた」
「はい」
しばらくしてリナは手の甲で涙を拭った。
「……わたし、もっと勉強したいです」
「うん」
「治せる子を一頭でも多く、治せるようになりたい。治せなくてもちゃんと寄り添えるように」
「リナなら、なれるよ」
カイは微笑んだ。
その時、リナがはっとして川の方を向いた。
「カイさん……あれ」
川辺の茂みの中に小さな影が、うずくまっていた。
霧のような、淡い毛並み。
ミストフォックスだ。
立ち上がろうとして、ふらりとよろめく。よだれが口の端から垂れていた。
「ふらついてる」
ガルドの言葉が頭をよぎった。
(酒に酔ったみたいに)
カイは静かに息をのんだ。




