騎士と相棒
「動かしてみてください」
診察台の上で、ソラの左後ろ脚にそっと触れる。添え木を外した脚は少し細くなっていた。でも骨の位置はまっすぐだ。
指で骨をたどる。
折れた場所にわずかな、でも確かな盛り上がりがあった。骨がくっついた跡だ。ぐらつきもない。痛がる様子もない。
(うん。きれいに、繋がってる)
「ソラ、歩いてごらん」
床に降ろす。
ソラはぴくりと耳を動かし、おそるおそる、一歩。
二歩。三歩。
「歩いた!」
リナが飛び上がった。ソラはぱたぱたと尻尾を振って、リナの足元に駆け寄った。
まだ少し後ろ脚をかばう動きだ。でも確かに自分の足で立っている。
「よく頑張ったな、ソラ」
「カイさん、ありがとうございます!」
リナの笑顔がまぶしかった。
「でもまだ飛んだり跳ねたりはだめだよ。筋肉が元に戻るまであと少し」
「分かってます! ちゃんと見張ります!」
(最初に診た子が、こうして歩いてる。それだけで、報われる気がするな)
そう思った時だった。小屋の前を重い足音が横切った。
扉が静かに開いた。
入ってきたのは岩のような大男だった。背丈はドルンと変わらない。ただ無駄のない体つきで、背筋がまっすぐ伸びている。
背中に、灰色の大きな獣を背負っていた。狼だ。馬ほどもある。
「……診療所はここか」
低い声だった。
「はい。どうされましたか」
「噂を聞いた。魔獣を診る者がいると」
男は獣をそっと診察台に降ろした。作業台がみしりと鳴る。
「俺はガルド。元は騎士だった」
「カイです。こちらはリナ」
ガルドはうなずいた。村の外れの小屋に、一人で暮らしているという。それ以上、自分のことは語らなかった。そして静かに言った。
「こいつはグレイ。俺の相棒だ。……楽にしてやってくれ」
「え?」
「三日前、森の魔物とやり合って深手を負った。傷が膿んでいる」
ガルドの視線はグレイから離れなかった。
「もう、助からん。せめて、苦しまないように」
静寂が小屋に落ちた。
グレイの荒い息だけが聞こえていた。
「診せてもらえますか」
カイが言うと、ガルドの眉がぴくりと動いた。
「聞こえなかったか。楽にしてやってほしいと頼んでいる」
「聞こえました。でも診てから決めさせてください。それが、ここのやり方です」
「無駄だ」
ガルドは短く、言った。
「戦場で、何度も見てきた。傷が膿んで、熱が出た獣は助からん。俺は騎士として、数えきれないほど、そうやって見送ってきた」
その声は静かだった。けれど、奥に深い疲れが滲んでいた。
「そうでしょう。実際、助からないことも多いと思います」
カイは言った。
「でも全部が、そうではない。間に合う場合もあります」
「……」
「診て、助からないと分かれば、その時はおっしゃる通りにします。約束します。だから、先に診させてください」
ガルドはグレイを見下ろした。グレイはぐったりと目を閉じている。
荒い息。浅い呼吸。
やがてガルドは低く言った。
「……短く済ませろ。苦しむ姿は見たくない」
「ありがとうございます」
まず、グレイを落ち着かせる。
「ガルドさん、声をかけてあげてください。この子が、一番安心するのはあなたの声です」
「俺が?」
「はい」
ガルドは戸惑いながら、グレイの顔の横に膝をついた。
「グレイ。……俺だ」
グレイの耳がぴくりと動いた。
薄く開いた目が、ガルドを捉える。
尻尾がかすかに揺れた。
「そうか。聞こえてるか」
ガルドの声が少し震えた。その間にカイはグレイの口に、革紐で作った口輪をかけた。
痛みで噛みついてしまわないための安全のためだ。
「傷を見ますね」
右の肩から前脚の付け根にかけて、深く裂けていた。毛が血と膿で固まっている。鼻を突く、強い臭い。
(ひどいな)
リナが思わず、顔をそむけた。
「リナ、無理しなくていい。外で、水を汲んできてくれる?」
「いえ。やります」
リナは歯を食いしばって向き直った。
「お湯と、塩水を用意します」
カイは小さくうなずいた。
傷の周りの毛をはさみで刈る。こびりついた血を煮沸した塩水で洗い流す。傷の奥が見えてきた。
(やっぱり)
黒ずんでぐずぐずになった組織が、傷の中に残っている。
壊死した部分だ。
(これを取らないと、いくら洗っても治らない)
「ガルドさん」
「なんだ」
「傷の中に死んでしまった肉が残っています。これが、膿と熱の原因です。取り除きます。痛みは強い。でも取らなければ治りません」
ガルドは目を閉じ、深く息を吸った。
「……やってくれ」
「ありがとうございます」
小さな刃物を火であぶって清める。リナが傷口を開いて支える。
「ここ押さえてて」
「はい」
黒ずんだ組織を慎重に、切り取っていく。生きている部分との境目を見極めながら。血の色が変わるところが目印だ。
グレイが低く唸った。
「……っ」
ガルドがグレイの頭を強く抱いた。
「大丈夫だ。俺がここにいる」
その声はさっきまでの、鋼のような響きとはまるで違っていた。
(もう少し、もう少しだ)
最後の壊死組織を取り除き、傷をもう一度洗い流す。
「終わりました」
傷口は真っ赤だった。でもこれは生きた肉の色だ。
「ここからはミレーヌさんの薬を使います」
ミレーヌが調合した、蜂蜜と薬草の軟膏を傷に丁寧に塗る。
清潔な布で覆った。
ガルドはずっとグレイの頭を抱いたまま動かなかった。
* * *
それから、三日。
ガルドは診療所の隅に座り込んで、ほとんど眠らなかった。グレイの水を替え、傷の布を替えるのを手伝った。
初日は熱が下がらなかった。
「本当に助かるのか」
「まだ分かりません。でも悪くなってはいません」
カイは正直に答えた。
二日目の夜。
グレイの熱が、わずかに下がり始めた。その晩、ガルドがぽつりと言った。
「……昔、馬を看取ったことがある」
「馬、ですか」
「戦の最中に、深手を負った。何もしてやれなかった。ただ、見ているしかなかった」
ガルドはグレイの背中をそっと撫でた。
「それ以来、傷を負った獣は楽にしてやるのが、せめてもの情けだと思ってきた」
「……」
「だが、あんたは違うやり方を持っていた」
カイは何も言わなかった。ただそっとうなずいた。
三日目の朝。
グレイが自分で頭を上げた。
「水、を」
ガルドが慌てて水を差し出す。グレイは舌で水を舐めた。そしてガルドの手をゆっくりと舐めた。
「……グレイ」
ガルドは何も言えなかった。
大きな背中が、小さく震えていた。
「……生きて、る」
「はい。まだ油断はできませんが、峠は越えたと思います」
カイが言うと、ガルドは深く頭を下げた。
「すまなかった。あんたの診察を疑った」
「疑って当然です。実際、助からないことは多いので」
「だが、あんたは諦めなかった」
ガルドが顔を上げた。
その目は赤かった。
「俺は剣しか知らなかった。獣は戦う道具だと思っていた。……だが、グレイは相棒だった」
「はい」
「世話になった。何かできることがあれば言ってくれ。この恩は返す」
「ありがとうございます。いつか、お願いするかもしれません」
ガルドはふと、窓の外に目をやった。
「ひとつ、気になることがある」
「なんですか」
「森の奥で、魔物と戦った時に見たんだ。戦いの傷じゃない。弱って、ふらついた魔獣を。何頭もな」
カイの背筋がぞくりとした。
「ふらついた……?」
「ああ。まるで、酒に酔ったみたいに。ミストフォックスもいたし、川辺ではサラマンダーもおかしな動きをしていた」
(ずっと聞こえていたあの鳴き声)
カイは窓の外を見た。初夏の空が青く、広がっていた。




