夜の難産
ドンドンドン!
扉が壊れそうな勢いで叩かれた。
「先生! カイ先生!」
飛び起きる。
窓の外は真っ暗で月が高い。深夜だ。
「ハンスさん?」
扉を開けるとハンスが、青い顔で立っていた。肩で息をしている。額には冷や汗が浮かんでいた。
「ベルが産気づいたんだが……全然産まれねえ。水は出たのに、もう二時間以上だ」
「すぐ行きます」
迷いはなかった。
道具を詰めた袋をつかむ。清潔な布、湯を入れた革袋、灰汁、ドルンに作ってもらった道具。
それから、長い革のロープ。ドルンが「いつか要るだろう」と、先に作って置いていってくれたものだ。
(まさか、こんなに早く使うことになるとは)
「リナ、起きてる?」
「はい!」
奥から、寝間着のままのリナが飛び出してきた。いつから起きていたのか、目は冴えている。
「ソラをお願いしてもいいですか。それと、一緒に行きたいです」
「うん。ソラはミレーヌさんに預けよう。急ごう」
ミレーヌの家の戸を叩くと、老婆は寝ぼけ眼で顔を出した。事情を聞くと、何も言わずにソラを受け取った。
「行っといで。こっちは任せな」
三人で夜道を駆けた。
* * *
牛小屋の中は藁の匂いと、生き物の熱気がこもっていた。灯りのもと、グラスホーンのベルが、横たわっている。
額から草のような角が、短く伸びていた。荒い呼吸。腹が大きく波打っている。
「ベル、がんばれ……」
ハンスが牛の首を撫でる。その手が小刻みに震えていた。
「陣痛はいつから?」
「夕方からだ。水が出たのが、二時間前。それからいきんでるんだが足が見えねえ」
(足が見えない)
普通なら、破水のあと、仔牛の前脚と鼻先が見えてくる。
それが出てこない。
「ベルは今までにお産の経験は?」
「初産だ。昔の牛飼いのじいさんが、『初めての子は一番手こずる』って言ってたが……」
「陣痛の間隔はどのくらいですか」
「最初は間が空いてたが、今はほとんど休まずいきんでる」
(いきんでも出てこない。間違いなく、どこかで引っかかってる)
「ハンスさん。手を洗わせてください。湯を」
「お、おう」
腕の付け根まで念入りに洗う。灰汁で泡立て湯ですすぐ。それを二度。
「リナも洗って。もし、手伝ってもらうことになるから」
「はい」
リナは緊張した顔で腕をこすった。指先が少し震えている。
「大丈夫。僕が全部、指示するから」
「はい」
準備ができると、カイはベルの後ろに回った。
「ベル、ごめんな。ちょっと中を診るよ」
静かに声をかけ、産道に手を入れた。
温かい。
そして狭い。
指先を慎重に奥へ進める。ベルが苦しそうにうめいた。
(いた)
仔牛だ。
しっかりと生きている。胸のあたりを触ると、かすかに動いていた。
(足はどこだ)
触れたのは片方の前脚。
もう片方が、ない。
(曲がってる)
手をさらに奥へ。
(見つけた。肘のところで、折れ曲がってる。頭は少し横にずれてる)
前脚の屈曲だ。
このままでは肩が引っかかって、出てこられない。
カイは手を抜いた。
「ハンスさん」
「ど、どうなんだ」
「仔牛は生きています。ただ、片方の前脚が曲がっていて、出口で引っかかっています。このままだと、母牛も仔牛も危ない」
ハンスの顔から、血の気が引いた。
「……助けられるのか?」
「やってみます。ただ、安請け合いはできません。うまくいけば、助かります」
正直に伝えた。
ハンスは拳を握りしめた。
「頼む。ベルも仔も助けてくれ」
「はい」
ここからが勝負だった。
「ベルがいきんでる間は手が押し潰される。力が緩んだ時に、仔牛を少し押し戻して脚を伸ばします」
「押し戻す?」
「はい。いったん奥へ戻さないと、曲がった脚を伸ばす隙間がありません」
腕を差し入れる。
陣痛の波が来るたびに骨まで締めつけられるように、痛い。
「ぐっ……」
「先生!」
「大丈夫です。リナ、ベルの首を撫でて声をかけ続けて」
「ベル、もう少しだよ。がんばって、がんばって」
リナの声が牛小屋に響いた。
波が引いた。
(今だ)
仔牛の肩をそっと押し戻す。指先で、曲がった脚の先をたどる。蹄の先を手のひらで包む。
「そのまま……そのまま……」
ベルがうめいた。
次の波が、来た。
「……っ!」
腕が強く、締めつけられる。押し戻した仔牛が、また前に出てこようとする。
(駄目だ、戻された)
蹄が手の中から、するりと逃げた。
「先生、大丈夫ですか!」
「……大丈夫。やり直す」
額から汗がぽたぽたと落ちた。腕が、重い。感覚が鈍くなっていく。
(焦るな。波の間を待つんだ)
呼吸を整える。
ベルのお腹の動きをよく見て、次の波が引く瞬間を狙う。
波が去った。
(今!)
もう一度肩を押し戻す。今度は蹄の先をしっかりと握り込んだ。
「ごめん、もう少し」
蹄を手の中に守ったまま、ゆっくりと引き上げていく。曲がっていた脚が、ぐ、と伸びた。
(出た!)
「ハンスさん、ロープを!」
ドルンが作ってくれた、柔らかな革のロープを手渡す。
前脚に輪をかけた。
「次の陣痛に合わせて、引いてください。ベルがいきんだ時に一緒に。決して力任せに、引かないでください」
「わ、分かった!」
ハンスとリナがロープを握る。
波が、来た。
「今!」
ぐっと引く。
ベルが全身でいきむ。
ずるり、と。
濡れた塊が、藁の上に滑り出した。
仔牛だった。
湯気を立てて、藁の上に横たわっている。
ぴくりとも動かない。
「……息、してない」
リナがかすれた声で言った。
カイはすぐに仔牛のそばに膝をついた。
鼻と口を布で拭う。粘液を指でかき出した。
藁をひとつかみ、強く、体に擦りつける。
「起きろ。頑張れ」
反応がない。
胸に聴診器を当てた。
(心臓は動いてる)
とく、とく、とく。
弱い。でも確かに鳴っている。
「リナ、こっちの藁で足をこすって。強く」
「は、はい!」
二人で必死にこすった。ハンスは少し離れた場所で、膝をついて両手を合わせていた。
「頼む……頼む……」
鼻先に細い藁を差し入れる。
軽く、刺激する。
「……ぷしっ」
小さな、くしゃみ。
そして仔牛の胸が、大きく膨らんだ。
「……っ、ぶあ!」
息を吸った。
弱々しく、でも確かに声を上げた。
「やった……!」
リナが涙声で叫んだ。
「生きてる! 生きてます、カイさん!」
ハンスが、仔牛のそばに崩れ落ちた。
「ああ……ああ……」
大きな手で、仔牛の背中を撫でる。
「生まれてくれて、ありがとうな……」
* * *
東の空が白み始めていた。
ベルが、ゆっくりと身を起こした。
荒かった呼吸が、落ち着いている。仔牛をぺろぺろと舐めはじめた。
(後産も問題なさそうだな)
母牛の様子を一通り確かめる。出血は少ない。体温も安定している。仔牛はふらふらと立ち上がった。何度か転んでまた立つ。
そして母牛の乳を探り当てて吸い付いた。
「初乳が、飲めました。もう、大丈夫です」
カイはようやく、藁の上に座り込んだ。腕が痺れている。全身が鉛のように重い。
(でもやり切った)
「カイ先生」
ハンスが深々と頭を下げた。
「ありがとう。本当にありがとう。ベルと、この子の命を救ってくれた」
「ハンスさんもリナも頑張ってくれたからです」
「いや、俺は何も……」
「ロープを引いてくれたでしょう。あれがなかったら、出せませんでした」
ハンスの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「……わたし、お手伝いできましたよね」
リナがまだ少し震える声で言った。
「うん。すごく助かった」
「えへへ……」
リナの顔が朝日で赤く染まった。
「眠くない?」
「ぜんぜん。……なんだか、すごく嬉しくて」
そう言って、リナは仔牛の背中をそっと撫でた。
藁の中で仔牛が小さく鳴いた。
その鳴き声が、村中に響いた気がした。




