畑を荒らす理由
麦畑はひどい有様だった。青く伸びていたはずの穂が、あちこちでなぎ倒されている。
土は掘り返され、根ごと食い荒らされた跡もあった。
「ひでえだろう。今年は雨が多くて、ただでさえ育ちが悪かったのに」
農夫のハンスが肩を落とした。がっしりした体つきの中年男だ。日に焼けた腕に、土の汚れがこびりついている。
「これで三日目だ。毎晩、決まってやられる」
「ストーンボアは今どこに?」
「猟師のバルトが罠にかけた。今、村の広場に引いてきてる」
(捕まえてはあるのか)
カイはうなずいた。
「見せてもらう前に、畑を先に見せてもらってもいいですか」
「畑を? そりゃ、構わんが……」
ハンスは不思議そうな顔をした。カイは荒らされた畑の端に、しゃがみ込んだ。
足跡が深く残っていた。
大きな蹄の跡。幅広で、体重がかなりありそうだ。
跡をたどっていく。
畑の中ほどで、足跡がぐるぐると円を描いていた。
「ここで、行ったり来たりしてますね」
「ああ。食い荒らして回ってるんだ」
「食べ方を見せてください」
麦の根元をそっと確かめる。穂だけをかじったのではなかった。根ごと土ごと、ごっそりと掘り返している。
(穂を食べるだけなら、こんなに深く掘る必要はない)
さらに先へ進むと、掘り返した穴の底に白っぽい小石がいくつも転がっていた。
拾い上げる。
石の表面に歯でかじったような、細かい傷がついている。
「石をかじってる?」
「そりゃあ、獣だからな。何でも口に入れるだろう」
ハンスはそう言った。でもカイは首をかしげた。
(健康な魔獣が、石や土をわざわざ食べるだろうか)
食べ物が足りない時。体に足りない栄養がある時。そういう時に、動物は普段食べないものを口にすることがある。
(何か、おかしい)
「ハンスさん、このボアが荒らし始めたのはいつ頃からですか」
「三日前からだ。それまでは森の奥から出てこなかった」
「分かりました。広場へ、行きましょう」
* * *
広場には人だかりができていた。その中心に大きな獣がいた。
岩のようにごつごつした灰色の皮膚。鋭くせり出した牙。体は中型の犬が三匹分ほどある。
太い縄で四肢を縛られ、地面に伏せている。
「おい、診療所の先生が来たぞ」
「魔獣を診るってやつか」
人垣の向こうで猟師のバルトが、腕を組んで立っていた。日に焼けた顔の、無口そうな男だ。
「診ても無駄だ。畑を荒らす魔獣は処分する。それが決まりだ」
「決まりは分かります。でも一度、診せてください」
カイは膝をついた。
ボアがぎろりとこちらを見た。
低く、唸る。
「リナ、少し離れてて」
「は、はい」
(まず、落ち着かせよう。怯えているだけだ)
できるだけ、ゆっくり体を横に向けた。正面から目を見ない。手は見える位置に置く。
「大丈夫。何もしないよ」
ボアの唸りが、少しだけ小さくなった。
診察を始める。
まず、見た目。
(痩せてる)
大きな体に対して、肋骨がはっきり浮いている。岩のような皮膚の下の筋肉も薄い。毛艶が悪く、ところどころ、抜け落ちていた。
それなのにお腹だけが、ぽってりと張っている。
(痩せているのに、お腹だけ張っている。これは典型的な……)
聴診器を当てる。
腸の音は動いている。ただごろごろと妙に大きい。次に、口を確かめる。唇をそっとめくった。
「歯茎が、白い」
血の気がない。
貧血のサインだ。
目の縁の粘膜も同じように白っぽかった。
「何か、分かったのか?」
ハンスが不安そうに聞いた。
「まだ確かめたいことがあります。この子のフンはどこですか」
「フン? そりゃあ縛る前にそこらに……」
バルトが顎で、地面の端を示した。カイは枝を拾って、フンを慎重に崩した。
「……いた」
白い細い糸のようなものが、いくつも混じっている。動いてはいない。でもはっきり分かる。
虫だ。
「うえっ」
「なんだ、それ」
村人が顔をしかめる。
「寄生虫です。この子のお腹の中に、たくさん住み着いてる」
カイは立ち上がった。
「聞いてください」
村人たちの前で、できるだけ分かりやすく話す。
「このストーンボアはお腹の中に、虫を飼っています。虫はこの子が食べたものから、栄養を横取りする。いくら食べても体には何も残りません」
「……」
「だから、痩せて貧血になって体力もない。いつも飢えていて、食べ物を探し回る。そして、畑に来た」
「待て。つまり、悪さをしたんじゃなくて……」
「腹が減って仕方なかったということか」
バルトがぼそりと言った。
「ええ。畑で、土を掘り返して、石までかじっていたのも栄養が足りないからです。体が、足りないものを必死で探していたんだと思います」
ざわめきが広がる。
「でも畑を荒らされた事実は変わらんぞ」
ハンスが、拳を握りしめて言った。
当然の怒りだった。
一年かけて育てた麦だ。それを三日で台無しにされた。
「はい。ハンスさんの被害は本物です。だから、このままにはできません」
カイはまっすぐ、ハンスを見た。
「ただ、処分してもまた別の個体が、同じように飢えれば同じことが起きます。原因を取り除かなければ畑は守れない」
ハンスは黙った。
「治せば、この子は畑に来なくなります。僕に、任せてもらえませんか」
長い沈黙のあと、バルトが口を開いた。
「……三日だ」
「え?」
「三日だけ、待ってやる。それで駄目なら、俺が始末する」
「ありがとうございます」
* * *
診療所でミレーヌに相談した。
「虫下しかい。それなら、虫下しの実がある」
ミレーヌが乾燥した茶色い実を籠から取り出した。
「人間にも家畜にも昔から使ってきた。腹の虫によく効く」
「量はどうしますか」
「体の大きさで決める。あの子はどのくらいの重さだ」
「測りたいですね」
カイは考えた。
(体重が分からないと、薬の量を決められない。多すぎると毒、少なすぎれば効かない)
前回、薬草のことで、危うく間違えるところだった。あの失敗を繰り返すわけにはいかない。
「ハンスさんの納屋に、穀物を計る、大きな秤があると言ってましたね」
「ああ。あれなら、荷車ごと量れる」
翌朝、ストーンボアを荷車に乗せて秤で量った。
「おお、ちょうど人間の大人三人分だな」
「それなら、この量ですね」
ミレーヌと二人で、実をすり潰して量を確かめる。
「少なめから始めましょう。反応を見て足りなければ追加します」
「慎重だねえ」
「前に薬草の件で学びましたから」
ミレーヌがふんと鼻を鳴らした。
「わしの薬をそこまで疑うのはあんたくらいだよ」
「疑ってません。確かめてるだけです」
「どっちでも同じだよ」
そう言いながら、老婆はすり鉢を押さえる手を止めなかった。
薬を水に溶いて、ボアの口に注いだ。
縛りはそのまま。ただ水と餌をたっぷり与えた。
一日目は変化なし。
バルトが、毎日のように見に来た。腕を組んで、何も言わずにボアを見つめている。
二日目、ボアがゆっくりと立ち上がった。
「おお?」
足元がまだふらついている。それでも自分の足で立っている。
三日目の朝。
「カイさん! 来てください!」
リナが飛び込んできた。納屋の隅に大量の白い虫が、かたまって出ていた。
「うわ……」
思わず、顔をしかめた。でも同時に胸の奥が、すっと軽くなった。
(出てる。薬が効いてる)
ボアの様子も変わっていた。目に光が戻り、餌をがつがつ食べている。落ち着いた目で、カイを見ていた。
バルトが無言で、それを見ていた。
「三日、経ったな」
「はい。結果はどうでしょう」
バルトはしばらく、黙っていた。そして深く息を吐いた。
「……縄を解け」
「いいんですか?」
「畑に来なくなるんなら俺はそれでいい」
バルトはぼそりと言った。
「悪かったな、決めつけて」
「いえ。診てもらうまで、待ってくれて、ありがとうございます」
バルトは照れくさそうにそっぽを向いた。
* * *
数日後。
毛艶のだいぶ良くなったストーンボアを森の入口で放した。ボアは少しだけ振り返った。そしてゆっくりと森の奥へ歩いていった。
「ちゃんと帰っていきましたね」
「うん」
リナが嬉しそうに笑う。
「悪い子じゃ、なかったんですね」
「そうだね。ただ、お腹が減ってただけなんだ」
その言葉をリナはじっと噛みしめるように聞いていた。その後ろに、ハンスが立っていた。
「カイ先生」
「先生はやめてください」
「いや、先生だ。……畑のこと、すまなかった。怒鳴ったりして」
「いえ。ハンスさんの被害は本物ですから」
ハンスは少し照れたように頭を掻いた。
「それでな、先生。うちの牛がもうすぐ産みそうなんだ」
「牛、ですか?」
「ああ。グラスホーンのベルだ。初めての出産でな。ずっと心配してたんだ」
ハンスは真剣な顔で言った。
「もし、何かあったら。夜中でも頼んでいいか」
カイはうなずいた。
「もちろんです。いつでも呼んでください」
森から風が吹いた。
その奥からかすかに弱々しい鳴き声が、聞こえた気がした。
(また、あの声だ)
カイは森の方をじっと見つめた。




