初代の手記
その夜、診療所にランプが一つだけ灯っていた。
作業台の周りに、四人と一匹が集まっている。リナ。ニコ。バーサ。足元にソラとルカ。
カイは作業台の上に、粗い紙を糸で綴じた帳面を置いた。
「これが谷の診療所で見つけた手記です」
「紙が、ずいぶん古いね」
バーサが目を細めた。
「文字は、この世界のものと、日本語が混ざっています。日本語は、僕にしか読めません。ここから先は、僕が読み上げます」
「にほんご」
ニコが、不思議そうに繰り返した。
「僕の、生まれた国の言葉です」
カイは静かに言った。リナがはっと息をのんだ。
「カイさんが、前にいた世界の」
「そう。この手記を書いた人も、おそらく、同じ場所から来た人です」
ランプの炎がゆらりと揺れた。
カイは帳面を開いた。縦書きの細い文字。墨が褪せているが一文字ずつ、はっきり読める。
「前に読んだところは省きます。ここからです」
息を整えて読み始めた。
『この世界に来て、三年が過ぎた。聴診器だけが、あちらの世界のものだった。縁に刻まれた輪の印は、こちらに来てから、いつの間にか浮かんできた。理由は分からない。ただ、この印が、私を導いているような気がする』
「いつの間にか、浮かんだ」
リナがささやいた。カイは胸元の聴診器を、そっと手に取った。
「僕のも、そうでした。前の世界で、毎日握っていた聴診器には、こんな印はなかった。この世界で気がついたら、縁に刻まれていた」
「同じ、なんですね」
「うん」
カイは続きを読んだ。
『三年で、七つの村に診療所を作った。弟子もできた。みんな、獣を診る手を持っている。彼らに、最初に教えた言葉がある。声なき者の鼓動を聴け。あちらの世界で、私の先生が、私に教えてくれた言葉だ』
そこでカイの声が止まった。
「……カイさん?」
「ごめん。ちょっと、思い出していた」
カイは小さく息をついた。
「僕にも、先生がいたんです。獣医学の、教授でした。厳しい人だった。講義の最初の日にこう言いました」
ランプの光が、カイの横顔を照らした。
「動物は喋らない。だから、君たちは体を聴きなさい。脈を、息を、目を、毛並みを、足の運びを。それが診るということだ、と」
静寂が落ちた。
「同じ、言葉ですね」
リナが小さくつぶやいた。
「うん。同じだ」
カイは手記の文字を、そっと指でなぞった。
「この人の先生と、僕の先生は、別の人だったかもしれない。でも、同じ言葉をどちらも受け取ってる。それはどの世界でも、変わらない、獣医の根っこなんだと思う」
バーサが静かにうなずいた。
「続けておくれ」
「はい」
カイはページをめくった。
『弟子の中に、ミトラという名の少年がいた。耳のいい子だった。猫の腹の音から、病を言い当てた。私が教えるよりも、早く覚えた。あの子は、きっと、私よりも遠くまで行く』
「ミトラ」
ニコが目を丸くした。
「里の、名前だ」
「そう。里の名前は、この少年の名前から、つけられたんだと思う」
カイは読み進めた。
『私は、いつまで、ここにいられるだろう。体が、少しずつ、動かなくなってきた。けれど、後悔はしていない。獣を診るために、私は、この世界に来たのだと思う』
『最後の診療所は、西の海辺に作った。私の体が動かなくなったら、そこで終わりにする。もし、この文字を読める者が、いつか現れたなら、その場所を訪ねてほしい。そこに、私の記録の続きがある』
「西の、海辺」
バーサが、ゆっくりと繰り返した。
「ずいぶん、遠いところだよ。この国の、西の端だ。わしの婆さんが一度だけ話していた。潮の匂いのする町に昔、輪の者が住んでいたって」
「そこに続きが」
リナが息を詰めた。
カイは最後のページを開いた。署名が滲んでいる。名前は読めない。その下に、一行。
『どうか、続きを』
「……ここで、おしまいです」
カイは帳面を閉じた。
誰も、すぐには口を開かなかった。ランプの炎だけが、静かに揺れている。
「あの」
リナがおずおずと言った。
「カイさん。一つだけ、聞いてもいいですか」
「うん」
「カイさんは、前の世界に帰りたいですか」
その問いは小さな声だった。けれど、診療所の空気がぴんと張りつめた。
カイは少しの間、答えなかった。
ランプの光を見つめながら、考えた。前の世界の診察室。白衣。終わらない夜勤。倒れた日の記憶。
そして、この世界で出会ったたくさんの顔。
「正直に言うと、分からない」
静かに答えた。
「前の世界にも、診たかった子がたくさんいた。診きれなかった子も。でも、今は」
カイは顔を上げた。リナとニコとバーサと、ソラとルカを順番に見た。
「ここが、僕の居場所だと思ってる。診てから、決める。そう言ってきたけど、帰るかどうかは、まだ診きれていない」
「診きれていない」
「だから、続きをやります」
カイは手記を胸に抱いた。
「この人がどうして、ここへ来たのか。僕がどうして、ここへ来たのか。その答えは、西の海辺にあるのかもしれない。それを診に行く」
「わたしも行きます」
リナが即座に言った。
「ぼくも!」
ニコも手を挙げた。
「ぷる!」
ルカも翼を広げた。
カイは思わず笑った。
「まだ、先の話だよ。すぐには行けない。でも、いつか、必ず」
「約束ですよ」
「約束する」
バーサが暖炉の端で、にやりと笑った。
「いい弟子たちを持ったね。獣医さん」
ランプの炎がゆらりと揺れた。窓の外では雪が、音もなく降り積もっていた。




