リナの診察日誌
朝になっても、カイは板を読んでいた。
窓の外は一面の白だった。屋根にも畑にも、薄く雪が積もっている。
暖炉の火は落ちていたが、ルカが体を丸めて、残り火のそばで眠っていた。
徹夜で読んだ。それでも、疲れは感じなかった。
(これは)
一枚、一枚。丁寧に日付の順に並べ直す。
『一日目。ハンスさんの牛が、乳を飲まない。体温は平熱。食欲なし。腹を触ると、左側が少し張っている。ミレーヌさんを呼ぶ。第一胃の動きが弱い、と言われた。干し草の量を減らして、様子を見る』
『三日目。牛が食べ始めた。乳も出る。ミレーヌさんに、どうして分かったか聞かれた。腹の音を聴いたから、と答えた。いい耳だ、と言われた。うれしかった』
『七日目。トムのモコが、爪を割った。一人で診た。止血して、包帯を巻いた。迷わなかった。でも、後で、傷を洗う水の温度を、確かめ忘れていたと気づいた。冷たすぎた。モコに謝った』
最後の一文に、カイの口元が緩んだ。
(モコに謝った、か)
板には、こんな記述も混じっていた。
『十二日目。夜中に、村のおばあさんの鶏が、苦しそうだと言われた。診たら、のどに何か詰まっていた。指では取れなかった。怖かった。ドルンさんを呼んで、細い鉗子を借りた。取れた。ドルンさんは、何も言わなかったけど、鉗子を置いていってくれた』
『十五日目。ホープが倒れた。役人が来た。一人で診た。途中で迷った。ミレーヌさんを呼んだ。ホープは助かった。役人は、報告書に「適切に行われていた」と書いてくれた。わたしは、泣いた』
そこから先は、カイの知っている話だった。手紙で読んだ。けれど、板の文字を直接読むのはまるで違った。
(一人でよく、ここまで)
感情が胸に込み上げてきた。
「……あ」
背後で小さな声がした。振り向くとリナが、戸口に立っていた。寝間着の上に、上着を羽織っている。目が腫れぼったかった。
「カイさん。まさか徹夜で」
「読んでた」
「えっ。全部ですか」
「全部」
リナの顔がさっと赤くなった。
「ご、ごめんなさい。字が、汚かったでしょう」
「綺麗だったよ。ものすごく」
「ほんとですか」
「ほんとに」
カイは板の束をそっと揃えた。それから、リナの目をまっすぐに見た。
「いくつか、聞いていいかな」
「はい」
「七日目の、モコの爪。水が冷たかったことに、どうやって気づいた?」
「え、えっと」
リナは少し考えてから答えた。
「モコが、洗っている間、体をぶるぶる震わせたんです。最初は、痛いからだと思いました。でも、後で水に手を入れたらすごく冷たくて」
「それで?」
「次からは、診察の前に、必ず手首で水の温度を測ることにしました」
「それはいい習慣だ」
カイはうなずいた。
「十二日目。鶏の喉の詰まり。指で取れなかった時、君はどうした?」
「怖くなりました。でも、板に書いたことを思い出したんです。迷った時」
「呼ぶ」
「はい。それでドルンさんの工房まで走りました」
「夜中に?」
「走りました」
カイは、思わず吹き出しそうになった。
「ドルンさんは、何て言った?」
「何も言わなかったです。でも、扉を開けてくれて鉗子を三種類、出してくれました。それで」
「細いのを選んだ」
「はい。どれがいいか鶏の喉を見せて聞きました。そうしたら指でこれだって」
「ドルンさんらしいな」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑いが少しずつ、静まっていった。カイは板の束の一番上に手を置いた。
「リナ。この記録は、とてもいい」
「……ありがとうございます」
「ただの診察の記録じゃない。迷って考えて人に聞いて直した。その全部が、書いてある。診る人にとって、一番大事なことが」
リナの目が潤んだ。それを袖でぐいと拭う。
「でも、全部正しかったわけじゃないです。間違えたことも」
「間違えたことを書けるのがすごいんだ」
カイは静かに言った。
「僕も前の世界で、たくさん間違えた。間違えた記録は、誰にも見せたくなかった。でも、今は思う。あれを残していれば、もっと多くの子を救えたはずだって」
「カイさんも、間違えるんですか」
「毎日してるよ」
「うそです」
「ほんとに」
リナは目を丸くした。それから、ぷっと吹き出した。
「ミレーヌさんが、よく言ってます。カイさんは頭はいいけど、ときどき抜けてるって」
「あの人は、よく見てるな」
朝日が窓から差し込んだ。雪の白さに反射して診療所の中が、眩しいほど明るくなった。
「カイさん」
リナがふいに背筋を伸ばした。
「お願いがあります」
「うん」
「次の巡回に。わたしも連れていってください」
カイはすぐには答えなかった。
リナはまっすぐに、カイの顔を見ていた。声は震えていた。けれど、目は逸らさなかった。
「診療所は、ミレーヌさんが見てくれます。ガルドさんも、ドルンさんもいます。ソラも、一緒に連れていきます」
「うん」
「わたし、もっと、色んな子を診たいんです。この村の子だけじゃなくて。ホロ村のニコ君みたいに、困っている子が、他にもいるはずだから」
声が少し揺れた。
「それにカイさんが一人で、危ない目に遭うのはもう嫌なんです」
最後の一言は小さかった。
カイは胸の奥が、じんと熱くなるのを感じた。
(この子は、いつの間にか)
見上げていた頃の少女は、もういなかった。同じ目の高さで同じ方向を見ている、一人の診る人が、そこに立っていた。
「分かった」
「えっ」
「次の巡回に、一緒に来てくれ」
リナの顔が、ぱあっと明るくなった。
「ほ、本当ですか」
「ただし条件が、いくつかある」
「はい! 何でも」
「一つ。僕の指示に、従うこと。二つ。迷ったら、すぐに呼ぶこと」
「はい」
「三つ。毎日、記録を書くこと。今みたいに、全部」
「はい!」
リナは、跳ね上がりそうになるのを、必死にこらえているようだった。足元でソラがきゃんと鳴いた。
「それから、もう一つ」
「まだ、あるんですか」
カイはいたずらっぽく笑った。
「ソラに挨拶を、忘れないこと」
リナは目を瞬かせた。それから、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「はい。必ず」
暖炉の端でルカが「ぷる」と鳴いた。まるで、拍手でもするように小さな翼を、ぱたぱたと動かしていた。




