雪の前に
アルム村が見えてきたのは、旅の六日目の夕方だった。
灰色の空から、細かいものが落ちてきている。カイは馬車の窓に手を伸ばして、その一つを受けた。冷たくて、すぐに溶けた。
「雪だ」
「初雪だね」
向かいの席で、ミレーヌが薬草の籠を抱え直した。
「去年より、十日は早いよ。薪が足りるといいがね」
谷の後始末には五日かかった。幻獣たちの健診。診療所の片づけ。局の兵への引き継ぎ。それが終わってから馬車で四日。
ガルドは御者台で手綱を握っている。足元で、グレイが丸くなっていた。ドルンは、黙って窓の外を見ている。
カイの膝の上では、ルカが小さな寝息を立てていた。ぷるる、と時々喉が鳴る。
(帰ってきた)
馬車が石の壁の間を抜けると、見慣れた家並みが現れた。煙突から、煙が上がっている。屋根の上にうっすらと白い。
村の入口に人影があった。
小さな人影だった。首に木製の聴診器。腕に青い毛玉。
「リナ」
馬車が止まる前に、カイは扉を開けていた。
「カイさん!」
リナが走ってきた。その腕から、ソラが飛び降りる。きゃんきゃんと鳴きながら、カイの足元を三周した。
「ただいま、ソラ。元気だったか」
「きゃん!」
「カイさん。お帰りなさい」
リナは数歩手前で足を止めた。何か言おうとして唇を結ぶ。
カイは少しの間、その顔を見ていた。
背がまた少し伸びていた。髪が肩にかかっている。頬が、前より引き締まって見えた。
それでも、目の奥にはあの日と同じ光があった。
「ただいま、リナ。遅くなってごめん」
「いえ。手紙、全部読みました。ホロ村のことも。ミトラの谷のことも」
リナは、ぎゅっと両手を握りしめた。
「大変でしたね。本当に」
「うん。でも、みんなが来てくれた」
「ミレーヌさんもガルドさんも、ドルンさんも、行っちゃうんですもの。わたし、置いていかれたかと思いました」
「あれは、わしらが勝手に行ったんだよ」
ミレーヌが、馬車からのっそりと降りてきた。
「あんたを連れていく暇がなかったのさ。次は、ちゃんと言うよ」
「約束ですよ」
リナはむくれたように言った。けれど、その目尻が少し光っていた。
カイの肩で、ルカが目を覚ました。「ぷる」と鳴いて翼を広げる。リナの頭の上に、ひょいと降りた。
「ルカさん! ただいま、って言ってますか」
「ぷる!」
「おかえりなさい。重くなりましたね」
リナが笑う。その笑い声に、村の入口の空気が、ふわりと温かくなった。
* * *
診療所はきちんと整っていた。
扉を開けると、薬草の匂いがした。作業台は拭き上げられている。器具は煮沸されて、布の上に並んでいる。
壁の板には、あの日カイが書いた文字が掛かったままだった。
『ここから先は、一人で診ない』
その横にもう一枚、板が増えていた。リナの字だった。
『朝の準備。窓を開ける。器具を煮る。板を確かめる。ソラに挨拶する』
カイはそれを読んで小さく笑った。
「ソラに挨拶、か」
「大事なんです」
リナが真顔で言った。
「ソラが元気だと、診察がうまくいくんですよ」
「それは確かに」
その夜は、診療所にみんなが集まった。ハンスとトムが、焼いた芋を持ってきた。
村長が杖をついて、蜂蜜酒の小さな壺を抱えてきた。
「獣医殿が、また無事に戻られた。それだけで、今夜は祝いたいのですよ」
「村長。ありがとうございます」
「ミトラの谷のことは、リナ殿の手紙で、おおよそ聞いております。竜まで、助けられたそうで」
「僕一人の力ではありません」
「そう言うと思いました」
村長は、白い髭を揺らして笑った。
暖炉の周りで芋を割る。ガルドがグレイの背を撫でながら、谷の話を始めた。トムが、目を輝かせて聞いている。
「それでその竜が、でっかい鼻で、先生の聴診器を触ったんだ」
「ああ。ぴかっと光ってな」
「すげえ!」
ハンスが芋を頬張りながら、大きくうなずいた。
「先生の診療所は、とうとう竜まで診るようになったか」
「ほんの偶然です」
「偶然で、竜の命が助かるもんかい」
ミレーヌがぼそりと言った。
リナは少し離れた場所で、その様子を見ていた。膝の上のソラを撫でながら、時々カイの方をちらりと見る。
何か、言いたいことがあるような顔だった。
夜が更けて、人々が帰っていった。ガルドとグレイも自分の家へ。ミレーヌとドルンも、それぞれの寝床へ。
診療所には、カイとリナと、ソラとルカだけが残った。
暖炉の火がぱちりと弾けた。
「カイさん」
リナが静かに言った。
「ちょっとお話ししていいですか」
「うん」
「あの、明日でもいいんですけど」
「今でもいいよ」
カイは薪を一本、火にくべた。
リナは少しの間、迷っていた。それから、立ち上がって棚の方へ向かった。一番下の段から、束ねた板を何枚も抱えて戻ってきた。
どさり、と作業台に置く。
「これ、カイさんがいなかった間の記録です」
板の表面に、炭の字がびっしりと並んでいた。日付。症状。処置。経過。
几帳面な丸みのある字だった。
「全部、書いたんです。迷ったことも。呼んだ人のことも。間違えたことも」
カイは板の束を見下ろした。三十枚はある。
「……読ませてもらうよ」
「はい」
リナは、きゅっと背筋を伸ばした。その肩がほんの少しだけ震えていた。
外では、雪が静かに降り続けていた。




