声なき者の、鼓動を
三日が過ぎた。
谷の朝は静かだった。館の前の草原に、淡い霧が漂っている。その中に金色の巨体が、体を横たえていた。
母竜はまだ、そこにいた。日の光を浴びて、少しずつ体力を取り戻していた。
カイは毎朝、母竜の脇腹に聴診器を当てた。
とく、とく、とく、とく。
「……五十。もう、大丈夫です」
母竜は、満足そうに喉を鳴らした。
その足元でルカが、尻尾を振って遊んでいる。母竜の鼻先に飛び乗っては滑り落ちる。何度も何度も。
母竜の瞳が、優しく細められていた。
「すっかり、元気ですね」
隣でミレーヌが、薬草を砕きながら言った。
「ああ。これなら、飛べるだろうよ」
「はい。左の翼の引きつれも、前より軽くなっています。炭と、毎日の日光のおかげです」
「あんたが診たからさ」
ミレーヌは、ぶっきらぼうに言った。それから、ちらりとルカを見て小さく笑った。
館の裏庭の方から、小さな足音が近づいてきた。
「ぴゅい」
白い影がゆっくりと、草原を歩いてくる。脚に包帯を巻いた、痩せた鹿。額に三日月の斑。
ツキだった。
その後ろからトバが、担架を押してきた。担架の上に大きな月光鹿が、横たわっている。
ユエだった。
五日前、カイが減薬を始めた母鹿は、少しずつ目を覚ましていた。乳房の腫れも引いて、自分で蜂蜜水を飲めるようになっている。
担架が草の上に降ろされた。
ツキがぴたりと止まった。
黒い瞳が大きく揺れる。担架の上の白い体を、じっと見つめている。
「ぴゅ、い」
小さな声。震えていた。
ユエがゆっくりと顔を上げた。
視線が重なった。
「ぴゅい!」
ツキが駆け出した。包帯の足がもつれる。転びそうになりながら、母の胸に飛び込んだ。ユエが、首を巻きつけるように娘を抱いた。
長い鼻先で、ツキの額を何度も何度も撫でる。
ぴゅい、ぴゅい、ぴゅい。
重なる声が谷に響いた。
カイはそっと目をそらした。目頭が熱かった。トバがその隣で顔を覆って、肩を震わせていた。
「ああ。ようやった。ようやった」
バーサが杖をついて近づいてきた。弟の背中に手を置く。
「トバ。五年間、よう頑張ったね」
「姉さん」
老いた姉弟は無言で、肩を寄せ合った。
* * *
昼過ぎ、ヴェルナーがカイを呼んだ。
館の広間は、すっかり様変わりしていた。檻は撤去され、壁の鷲の旗は降ろされている。局の兵が書類を整理していた。
「ダリウス局長から、報せが届いた」
ヴェルナーが、一通の書状を差し出した。
「ベルクハイム伯爵は、領都に護送される。爵位は、審理が終わるまで停止。館と谷の土地は局が管理する」
「保護された幻獣たちは」
「二十七頭。全員、局の保護下に入った。体が回復し次第、自然へ帰す。山の中の、安全な場所へ」
カイは胸を撫で下ろした。
「それから」
ヴェルナーが続けた。
「もう一つ。ここからが本題だ」
書状の最後の頁を示した。
「ミトラの診療所を再建する。局の管轄の、北の診療所として。トバ殿とバーサ殿に管理を。レンデルが補助として、残る」
「再建、ですか」
「そうだ。巡回獣医官の、拠点の一つにしろと」
ヴェルナーの口元が、わずかに緩んだ。
「診る者を必要とする場所は、領都だけではない。そう、君が証明した」
「……ありがとうございます」
カイは深く頭を下げた。
「ホロ村のニコ君も、見習いとして迎えられます。バーサ殿が、そう言っていた」
「ニコ君が」
胸が熱くなった。
「リナ殿にも、手紙を書いてやれ。きっと待っている」
「はい」
* * *
四日目の朝、母竜は飛び立った。
谷の草原で巨大な翼が、ゆっくりと広がる。左の翼も右の翼と、同じように大きく羽ばたく。
ばさり。ばさり。
風が全員の髪を乱した。
母竜は一度、カイの前に降りてきた。大きな顔を低く下ろす。金色の瞳が、じっとカイを見つめていた。
「ありがとうございました。お元気で」
カイが言うと、竜はぐるると低く喉を鳴らした。それから、視線を足元のルカへ移した。
ルカは母竜の前に立っていた。小さな翼をきゅっと畳んで。
母竜がルカの額に、鼻先を触れさせる。長い静かな時間が流れた。
やがて、ルカがくるりと振り返った。
そして、とことことカイの足元へ歩いてきた。
「ぷる」
カイの足に、ぴたりと体を寄せる。肩へぴょんと跳び乗った。
「……いいのかい」
「ぷる」
「お母さんと、行かなくて」
ルカは金色の瞳を、まっすぐにカイへ向けた。それから、小さく、うなずいた。
(選んだんだ)
カイは胸が詰まった。
母竜はその様子を、静かに見守っていた。やがて、ゆっくりと頭を上げた。翼を大きく広げる。
風が巻き起こった。
金色の巨体が空へ舞い上がる。朝日を背に雲の彼方へ向かう。
一度旋回して、谷の上空を飛んだ。長い咆哮が山々にこだまする。
別れの、挨拶だった。
ルカが肩の上で高く鳴いた。
「ぷるるる!」
小さな声が青い空に響いた。
* * *
その日の夕方、カイは一人で、石の輪の下へ降りた。
聴診器を扉の溝に当てる。ごり、ごり、と石が沈む。ミトラの診療所は静かに、カイを迎え入れた。
あの夜と同じ、石の台。銅の聴診器。壁の文字。
ランプの光が、棚の古い本をほのかに照らしている。
(ここがこれから、新しい診療所になる)
トバがそう言っていた。ニコが来る。バーサが薬草を育てる。ミレーヌが時々、手伝いに来る。ドルンが器具を作る。
リナもいつか、来るだろうか。
カイは書棚を、ゆっくりと見渡した。
そして、最下段の隅に、一冊の薄い帳面が挟まっているのに気づいた。
他の本と違っていた。革ではなく、粗い紙を糸で綴じたもの。表紙に何も書かれていない。
手に取る。埃を払う。そっと開いた。
最初の頁は、この世界の文字だった。几帳面な筆跡。日付。薬草の名。症例の記録。
ミトラの書と似ていた。けれど、ところどころ見慣れない言葉が混じっている。
ページをめくる。
『第七例。馬。疝痛。腹部の聴診。腸音の消失を確認』
(腸音。この世界で、そんな言葉を使う人は、いない)
指が震えた。
さらにページをめくる。
頁の途中から文字が変わった。
カイは息を止めた。
それは縦書きの、細い筆の文字だった。
墨が褪せている。けれど、はっきりと読めた。
『異世界で、獣医をはじめました。』
視界が揺れた。
見慣れた文字。漢字。ひらがな。この世界のどこにも、存在しないはずの文字。
(日本語、だ)
手が震えて頁が揺れた。続きを目で追う。
『気がついたら、この世界にいた。聴診器だけが、首にあった。右も左も分からない。でも、目の前に、傷ついた獣がいた。診ないわけには、いかなかった』
『この世界の獣は、魔獣と呼ばれる。人は、彼らを、使い捨てにする。私は、それが許せなかった。診てやりたい。それだけで、動いた』
『村の人々が、手伝ってくれた。薬草師の老人。鍛冶屋。猟師。みんな、最初は、私を疑った。でも、結果を見せたら、変わった。診てから、決める。それが、私の流儀になった』
カイの目から涙が、ぽたりと落ちた。
『声なき者の鼓動を聴け。それだけは、どの世界でも、同じだった』
最後の頁。署名があった。けれど、墨が滲んで名前は読めない。
その下に一行だけ、添えられていた。
『もし、この文字を読める者が、いつか、ここに来たなら』
『どうか、続きを』
カイは帳面を胸に抱きしめた。
ランプの炎が、静かに揺れていた。肩の上でルカが小さく、ぷるる、と鳴いた。
(僕の前にも、いたんだ)
同じ世界から、聴診器だけを首に下げて。百年以上、前に。
聴診器が、胸元で静かに温かかった。
(僕は、一人じゃなかった)
同時に、新しい疑問が、胸の奥に生まれていた。
(あの人はどうして、ここへ来たんだろう)
(僕はどうして、ここへ来たんだろう)
答えはまだ、どこにもなかった。
けれど、カイは帳面をそっと閉じた。
「……続きを、やります」
誰もいない診療所に、小さくそう言った。
(第5章 完)




