輪を失った者
館の前庭は静まり返っていた。
戦いは終わっていた。
緑の制服の兵たちは武器を捨てて、膝をついている。何人かは煙を吸って咳き込みながら、仲間に抱えられていた。
灰色の制服の兵が、その間を水の桶を持って走り回っている。
その中央に、ガイウスが立っていた。
剣を鞘に収めて。
「……伯爵様の命令はもう聞けません」
兵長は低く言った。向かい合う先に、イゼルダが立っていた。
「理由を聞かせてください」
「兵が、倒れています。伯爵様は煙の中でも持ち場を離れるな、と」
ガイウスは膝をついている部下たちを見渡した。
「彼らは、私の兵です。命令で、死なせるわけにはいかない」
「それが、あなたの判断ですか」
「はい」
イゼルダは書状を静かに畳んだ。
「ガイウス殿。あなたの身柄は、局が預かります。ただし協力すれば罪は軽くなる」
「協力します」
ガイウスは迷わず答えた。
「館の帳簿は、私が保管しています。薬の購入記録。幻獣の搬入記録。死んだ十二頭の、死因の控え」
「全部、ですか」
「はい。ずっと、気づいていました。おかしいと。それでも、命令には背けなかった」
兵長の声がかすかに揺れた。
「私は卑怯でした」
「……記録は、証拠になります」
イゼルダは短く言った。それが赦しの言葉でないことも、拒絶でないことも、ガイウスには分かったようだった。
兵長は深く頭を下げた。
その時、館の正面扉がゆっくりと開いた。
伯爵が出てきた。
深紅の上着。乱れのない髪。柔和な笑み。まるで、これから茶会に出るかのような、落ち着いた足取りだった。
その手に小さな金色の鱗を握っていた。
「やあ。皆様、おそろいで」
誰も答えなかった。
伯爵は前庭を、ゆっくりと見渡した。それから、館の門の向こう、草原の方を見た。
金色の巨大な体が、草原に起き上がろうとしていた。
「……ほう」
伯爵の笑みが少しだけゆがんだ。
「まだ、息があるのですか。しぶとい」
「伯爵」
ヴェルナーが前に出た。
「ベルクハイム伯爵。幻獣保護法違反、および、幻獣の不法な収集、鎮静薬による虐待、竜の捕獲未遂。局長の令状により、あなたを拘束する」
「これはこれは」
伯爵は軽く手を上げた。
「物々しいことだ。しかし、証拠は」
「ここにあります」
声が、した。
振り向くとレンデルが立っていた。煤で顔を汚したまま、一冊の古い本を胸に抱えている。
「レンデル」
伯爵の目が細くなった。
「お前、局に寝返ったのか」
「寝返ったのではありません」
レンデルは本を、イゼルダに差し出した。
「これは私が、伯爵様から授かった飼育書です。眠り蔓の項に、注意書きがあります。『数日を超えて、与えてはならぬ』と」
「それがどうした」
「その、続きがないのです」
レンデルは、ページをめくって見せた。そこには鋭い刃物で切り取られた跡が残っていた。
「この本の後ろの頁は、切り落とされていました。私が授かった時にはすでに。伯爵様が、お渡しになる前に」
沈黙が落ちた。
「ミトラの書の原本には、続きがありました」
カイが静かに言った。
「『眠らせることを、診ることの代わりにしてはならぬ』。その一文が、削られていた。伯爵が、わざと切らせたのでしょう」
「……」
「レンデルさんが、悪意なく、眠り蔓を使い続けるように。そして、幻獣たちが静かなままであるように」
「面白い推理だ」
伯爵は穏やかに笑った。
「しかし、証拠にはならない」
「いいえ」
ガイウスが一歩、前に出た。
「帳簿には、伯爵様の署名があります。飼育書の頁を切るよう、私に命じられたのも伯爵様です」
「ガイウス」
「事実です」
伯爵はゆっくりと兵長を見た。それから、小さく息を吐いた。
「……ずいぶん頼りない兵を、育ててしまったようだ」
その笑みが初めて、冷たく凍りついた。
伯爵は鱗を握ったまま、草原の方へ歩き出した。
「どこへ行く」
「見せたいものがあるのですよ」
誰も止められなかった。伯爵の足取りはあまりにも自然で、毅然としていた。
草原の中央で、母竜は体を起こしていた。
網は、すべて切り落とされている。巨大な体が朝日の中で、金色にきらめいていた。左の翼をゆっくりと広げる。
まだ、本調子ではない。けれど、その目は確かに力を取り戻していた。
伯爵は竜の前に立った。
人間の何倍もある巨体を見上げる。
「竜よ」
伯爵が鱗を高く掲げた。
「この鱗が、ここにある。お前の一族の、血。お前は私に従う。そう、定められているのだ」
竜は動かなかった。金色の瞳が、じっと伯爵を見下ろしている。
「従え」
伯爵の声がわずかに上ずった。
「従え! ベルクハイムの名において!」
母竜は静かに首を傾けた。
そして、伯爵の手の鱗に鼻先を寄せた。
ふっ、と息を吹きかける。
鱗が伯爵の手から、ふわりと浮かび上がった。空中でくるりと回って、竜の前脚の上に静かに降りた。
「……な」
伯爵の顔から笑みが完全に消えた。
竜はその鱗を前脚で、そっと拾い上げた。それから、ゆっくりとカイの方へ顔を向けた。
カイは前へ進み出た。
竜が大きな顔を低く下ろす。その口から鱗が掌の上に、ころりと落ちた。
淡い金色。手のひらほどの大きさ。温かかった。
「……ありがとうございます」
カイは鱗を胸に押し当てた。
「お返しします。これは、あなたの鱗です。でも」
竜が目を細めた。
「あなたはこれを、僕に託してくださった。大事に、持っています」
竜は小さく、喉を鳴らした。
伯爵が膝をついた。
誰も触れていないのに、足が折れたのだった。
「馬鹿な。馬鹿な。竜は、従うはずだった。ミトラの者は、竜を従えたと」
「従えたのでは、ありません」
カイは静かに言った。
「一緒にいたんです」
「……何」
「診る者として。声なき者の、そばに。それだけです」
カイは、伯爵の前にしゃがみ込んだ。
「あなたは、聴こうとしなかった。竜の声も。幻獣の声も。ルカの声も」
伯爵は顔を上げた。その目は血走っていた。
「あなたは何を、聴いているのだ」
「鼓動です」
カイは答えた。
「声なき者の。生きているという、音です。あなたの鼓動も聞こえます。ずいぶん、速い」
伯爵の肩が震えた。
ヴェルナーが静かに近づいた。伯爵の腕を、取る。
「立ってください」
「……私を捕らえても」
伯爵はかすれた声で言った。
「無駄だ。竜を求める者は、私だけではない。王都には、ずっと大きな方々が」
「その話は局で、聞きましょう」
イゼルダが静かに答えた。
「すべて記録します」
伯爵は何かを言いかけて口を閉じた。それから、小さく、笑った。
それは、柔和な笑みではなかった。
何かが抜け落ちたような、空虚な笑みだった。
兵たちが伯爵を連れていく。その背中はいつもよりも小さく見えた。
カイはその背中を、しばらく見つめていた。
(あの人も、聴いてほしかったのかもしれない)
そんな考えがふと胸をよぎった。けれど、すぐに首を横に振った。
「……カイさん」
後ろからそっと声がした。
ミレーヌだった。
「少し休みな。顔が真っ白だ」
「はい」
カイはその場に、ぺたんと座り込んだ。肩の力が一気に抜けた。
朝日が谷の草原を、金色に染めていた。




