母竜の診察
遅い鼓動だった。
とく、と鳴ってから次の音までが、長い。耳を澄ませたまま、カイは頭の中で数を数えた。
「ミレーヌさん。砂時計を」
「あるよ」
老婆が、籠から小さな砂時計を取り出した。カイは竜の胸に聴診器を当てたまま、砂が落ち始めるのを見た。
(一、二、三)
砂がすべて落ちるまで音を数える。
「……二十」
「一分で二十か」
「普通なら、もっと多いはずです。しかも、間隔が乱れています」
カイは顔を上げた。竜の鼻先が目の前にある。大きな鼻孔が遅く、浅く広がっては縮んでいる。
「息は、一分間に六回。浅い。体温は」
鱗に手を当てる。冷たかった。朝日がまだ谷に届いていない。竜の体は日光で温まる。日が当たらないと、体の火が点らない。
(低体温と呼吸抑制と、徐脈。眠り蔓の煙の、中毒だ)
領都の三頭。ホロ村の群れ。ユエ。これまで診てきたすべての症例が、頭の中で、一つの形になっていく。
(大きさが違うだけだ。やることは同じだ)
「手順を言います」
カイは全員に向かって、声を張り上げた。
「一つ。煙を絶つ。二つ。気道を確保する。三つ。毒を吸わせる。四つ。体を温める。以上です」
「分かった」
ミレーヌがうなずいた。
「わしは、毒を吸わせる方をやる。炭は、ありったけ持ってきた」
「お願いします。ガルドさん!」
門の前から駆けつけてきたガルドが、息を切らして答えた。
「何だ」
「櫓の火を、消してください。煙の元を断つ。水が、庭の池にあります」
「任せろ」
ガルドは振り返って叫んだ。
「兵たち! 水を運べ! 桶でも兜でも何でもいい!」
イゼルダの兵たちが動き出した。館の庭の池から、桶を手渡しで繋いでいく。四つの櫓へ水がかけられる。
じゅうう、と蒸気が上がった。
煙が細くなっていく。
「ドルンさん」
「ああ」
ドルンが竜の頭の上の網に、大きな鋼の鋏を差し込んだ。縄がばちん、ばちんと切れる。網がずるりと滑り落ちた。
「頭の網を、先に外してくれ」
「分かってる」
カイは竜の首の脇に回った。大きな頭が、草の上に不自然な角度で投げ出されている。気道が折れ曲がっている。
「頭を、持ち上げます。誰か、手伝ってください」
「私が」
声がした。
振り向くとレンデルが立っていた。いつもの手袋は外している。顔は煤で汚れていた。
「私は幻獣の頭の支え方を知っています」
「……お願いします」
カイは短く答えた。
レンデルは竜の首の下に肩を入れた。両腕で、大きな頭を抱え込むように持ち上げる。イゼルダの兵が数人、加勢した。
外套を何枚も重ねて頭の下に敷く。
「首はまっすぐに。顎を少し引いて」
「こうですか」
「はい。そのまま」
レンデルの手は慣れていた。無駄がなく、優しい。そっと竜の頬を撫でて、小声で語りかけている。
「大丈夫。大丈夫ですよ。皆、あなたを助けに来た」
(この人の手は、確かだ)
眠らせる優しさしか知らなかった男が、今起こすために、手を使っている。
「ミレーヌさん。炭を」
「ほれ」
ミレーヌが、大きな革袋を差し出した。中に水で溶いた炭の粉が、どろりと黒く詰まっている。
「これで足りるかい」
「足りません。倍、要ります」
「ふん。後ろに、荷車が来る。ペッポの坊主が炭を積んできた」
「ペッポ君が?」
「あの子の荷馬車が、一番早かったよ。街道を、飛ばしてきた」
その言葉の通り、草原の向こうから、荷馬車が一台猛烈な勢いで走ってきた。ナギが泡を吹きながら駆けている。
御者台のペッポが叫んだ。
「先生! 炭、持ってきました!」
「ありがとう!」
カイは胸が熱くなった。
(みんな、来てくれた)
ドルンが作った長い管が、鞄から取り出される。ガルドが竜の口をそっと開く。
巨大な牙の間に舌を前へ引き出して、気道を確保する。
管を慎重に喉の奥へ滑らせる。食道に入ったことを手の感触で確かめる。
「炭の液を少しずつ」
ミレーヌが、革袋の口を管に繋ぐ。黒い液がゆっくりと、竜の胃へ流れ込んでいった。
(頼む。吸ってくれ)
一袋、二袋。三袋。
全員が息を詰めて見守った。
朝日がようやく、谷の縁を越えた。
金色の光が草原に降り注ぐ。竜の鱗が光を浴びてほんの少しだけ、色を取り戻した。
「温かくなってきた」
誰かがつぶやいた。
カイは竜の脇腹に、再び聴診器を当てた。
とく、とく……とく。
(……さっきより間隔が詰まってる)
「ミレーヌさん、砂時計を」
砂が落ちる。数える。
「二十五」
「増えたね」
「はい。ただ、まだ、安心できません」
カイは聴診器を持ち上げた。その時、金属の円盤がふわりと淡い光を帯びた。
「……!」
光が竜の胸の鱗に伝わっていく。金色の光の糸が、聴診器と竜の体をゆっくりと往復する。脈を打つように明滅した。
「これは」
ガルドが息をのんだ。
「ああ。山の時と同じだ」
ミレーヌが、小さくつぶやいた。
「ミオの時にも、こうだったね」
カイは光を見つめた。それから、静かに首を振った。
「光は、関係ありません」
自分に言い聞かせるようにそう言った。
「大事なのは鼓動の数と息の深さです。それを見続けます」
聴診器を竜の胸に当て続ける。光が胸の奥で脈打つ。けれど、カイの目は砂時計だけを見ていた。
二十八。三十。三十二。
(上がっている)
時間がゆっくりと流れた。
ルカが竜の鼻先に、ちょこんと座っていた。小さな体を丸めて、母の鼻に額を押しつけている。
ぷる、ぷると細い声で呼びかけ続けていた。
「お母さん。お母さん。起きて」
そんな風に聞こえた。
どれほど時間が経っただろう。
日が高くなってきた。谷の草原に光が満ちる。
竜の呼吸が深くなった。
ごお……ごお……。
浅く遅かった音が確かに深く、大きくなっていく。
カイは聴診器を外して竜の胸に直接耳を当てた。
とく。とく。とく。とく。
「……四十」
声が震えた。
「一分で、四十。ほぼ、正常です」
「やったね」
ミレーヌがほっと息をついて、その場にへたり込んだ。
その時、竜の瞼がゆっくりと持ち上がった。
金色の瞳が現れた。
焦点が定まらない。けれど、ゆっくりと揺れながら周囲を見回している。そして、目の前の小さな竜を捉えた。
「ぷる!」
ルカが跳ね上がった。
母竜は喉の奥で低く鳴いた。ぐるると優しい声だった。大きな鼻先が、ルカの小さな体をそっと押した。
それから、瞳がカイの方を向いた。
カイは膝をついたまま、静かに頭を下げた。
「ご無事でよかった」
竜はしばらく、カイを見つめていた。金色の瞳に、深い光が宿っていた。やがて、ゆっくりと巨大な頭を持ち上げた。
そして、カイの胸元の聴診器に鼻先をそっと触れさせた。
淡い光がふわりと広がって消えた。




