眠りの煙
塔の外で轟音が響いた。
門が破られた音だった。続いて男たちの怒号。馬の嘶き。金属がぶつかり合う音。
「何だ」
伯爵が窓から身を乗り出した。
館の正門の前に、灰色の制服の兵が六人。先頭に立つ女性が、一枚の書状を高く掲げている。
「ダリウス局長の令状です! ベルクハイム伯爵殿の保護施設に対し、幻獣保護法に基づく、強制査察を行う!」
イゼルダだった。隣に黒い外套のヴェルナーが、剣を抜いて立っている。
「馬鹿な。なぜここが」
「ガイウス!」
伯爵が叫んだ。
「正門を固めろ! 兵を出せ!」
「……はっ」
兵長は一瞬、遅れた。それから、カイの腕を放して階段を駆け下りていった。
カイは床から立ち上がった。
(今だ)
塔の窓から、下を見る。館の庭に、緑の制服の兵がわらわらと走り出ていた。その背後で煙が風に流れて、館の方へ迫ってきている。
(煙がこっちに来る)
四つの櫓の煙が、谷全体に広がっていた。館の庭にも白緑色の煙が、渦を巻いている。兵たちが咳き込んで、膝をつき始めた。
(あの人たちも、危ない)
カイは塔の階段を駆け下りた。
途中、すれ違う兵が何人かいた。誰もカイを止めなかった。それどころではなかった。煙が、塔の入口にも流れ込んでいた。
扉を抜けて裏庭へ出る。
目の前が白くなった。
「ごほっ、ごほっ」
煙を少し吸ってしまった。目が焼けるように痛む。カイは袖で口と鼻を覆った。
(濡らさないと)
噴水が近くにあった。カイは上着を脱いで水に浸した。それを顔に巻きつけた。
煙の中を、走る。
その時、前方で誰かが叫んだ。
「獣医さん!」
「ミレーヌさん!」
煙の向こうから、小柄な影が駆けてきた。薬草籠を背負った、白髪の老婆。濡れた布を顔に巻いている。
その後ろから大きな影が、二つ。
ガルドとドルンだった。そして、グレイが黒い影のように先頭を走っている。
「無事かい」
「はい!」
「バカ者。一人で、勝手なことをして」
ミレーヌはカイの頬を、ぺしりと叩いた。それから、顔をぐしゃりとゆがめた。
「……よかった。生きててよかった」
「ミレーヌさん」
「話は後だ。母竜は」
「あそこです!」
カイは館の門の外を指した。草原に、巨大な金色の山が網に覆われて横たわっていた。
「煙を吸った。呼吸が、浅い。急がないと」
「分かった」
ミレーヌは、背負った籠を下ろした。中から何枚もの布を取り出す。
「全員、これを顔に。水で濡らして。煙を吸うんじゃないよ」
「おう」
ガルドが布を受け取った。グレイにも首に巻いてやる。ドルンが無言で、大きな鞄を開けた。
「あの網を切る。鎖を外す。それが俺の仕事だ」
「お願いします」
その時、館の中から悲鳴のような声が上がった。
「檻が!」
「獣たちが、暴れてる!」
カイははっと振り返った。
館の裏手の、広間の窓。そこから無数の影が、飛び出してきた。
銀の狐。黒い猫。風羽鳥の群れ。月光鹿の白い体。鱗猿が窓枠を伝って、器用に降りてくる。
「開いたのか」
「トバさんです!」
広間の窓辺に、白髪の老人が立っていた。両手に、鍵の束を握りしめている。檻を一つずつ開けているのだ。
「トバさん!」
「獣医官殿! 煙が、広間に入ってきます! 外へ、逃がしました!」
「ありがとう!」
カイは声を張り上げた。
幻獣たちは館の庭に溢れ出して、散らばっていった。咳き込む兵たちの間を、すり抜けていく。
煙を避けて、風上へ、塀の外へ逃げていく。
その中で数頭が足を止めた。
月光鹿だった。ユエに似た大きな雌が、ふらふらと立ち止まって、カイを見つめている。
(逃げて)
「大丈夫。外へ、出て!」
鹿は、小さくうなずいたように見えた。それから、風上へ向かって軽やかに駆けていった。
(解放された)
胸の奥が熱くなった。
でも、まだ終わっていない。
門の前の戦いは、激しくなっていた。
イゼルダの兵とガイウスの兵が、入り乱れている。ヴェルナーの剣が、緑の制服の兵の槍を弾いた。
ガルドが、グレイとともにその渦の中へ飛び込んでいく。
「ここは任せろ!」
ガルドが叫んだ。
「おまえは、竜のところへ行け!」
「はい!」
カイは走った。
門を抜ける。草原へ出る。煙の流れが、少し薄くなっている。風が、館とは反対の方向へ変わったのだ。
巨大な金色の山が、目の前に迫った。
網に覆われた、母竜の体。鱗がくすんでいる。首が草の上に横たわって動かない。呼吸の音がかすかに聞こえた。
ごお、ごお、と。
遅く、浅い。
(まだ、生きている)
その時、背後で羽音がした。
「ぷる!」
小さな金色の影が、煙を突き破って飛んできた。
ルカだった。
口に何かをくわえている。きらりと銀色に光るもの。
聴診器だった。
「ルカ!」
ルカはカイの足元に、ぽとりとそれを落とした。それから、息を切らしてぺたんと座り込んだ。
「持ってきて、くれたのか」
「ぷる」
カイは聴診器を拾い上げた。冷たい銀色が掌に触れる。
その後ろから、ドルンが走ってきた。右腕に大きな鋼の鋏。
「網は俺が切る」
ドルンは短く言った。それから、ふと、ルカの頭を大きな手でぽんと撫でた。
「よく、運んだな」
ルカは胸を張った。
カイは聴診器を首にかけた。それから、母竜の巨大な頭の脇に駆け寄った。
膝をつく。竜の鼻先に手を当てる。かすかな風が掌に触れた。
「聞こえますか。僕です。カイです」
竜の瞼がほんの少しだけ震えた。
「今から、診ます。必ず、助けます」
聴診器を竜の胸に当てる。耳を澄ます。
(……ゆっくりだ)
とく。
間が、空く。
とく……。




