竜を呼ぶ声
咆哮は山々に反響して、長く尾を引いた。
塔の頂の窓から、カイは北の空を見た。東の空が、薄い桃色に染まっている。その下で雲の海が、ゆっくりと波打っていた。
その雲の切れ間に、金色の点が現れた。
「来た」
伯爵が満足そうにつぶやいた。
点はみるみる大きくなった。翼が見える。長い首。尾。朝日を浴びて淡い金色の鱗が、きらきらと輝いている。
家ほどもある体が雲を割って、まっすぐに谷へ向かってくる。
(母竜)
カイの喉がひくりと鳴った。
あの日、雲居山で出会った、あの竜。ルカの母。左脇腹に古い傷を持つ優しい瞳の竜が、鱗の呼び声に応えてやってくる。
「来るな!」
カイは窓へ向かって叫んだ。
「罠だ! 来るな!」
声は風に呑まれた。ガイウスの腕が、カイの首を締めるように押さえつける。
「静かに」
兵長が低く言った。
「伯爵様の、お邪魔です」
母竜は、谷の上空に差しかかった。翼が大きく広がる。ばさりと羽ばたくたびに、谷全体に風が吹き荒れた。木々がしなる。
館の窓がびりびりと震えた。
竜は旋回した。谷を見下ろしている。
呼び塔の頂の光を探している。鱗の呼び声の出どころを。
その金色の瞳が、塔の窓を捉えた。
カイは目が合った気がした。
母竜の瞳が一瞬、大きく見開かれた。窓の中に、カイの姿を見つけたのだ。かつて自分の傷を診てくれた小さな人間。
その胸に、自分の鱗の気配を感じ取っていたのかもしれない。
竜は高度を下げた。ゆっくりと、塔の方へ近づいてくる。
「だめだ。来ちゃだめだ!」
「もう、遅いですよ」
伯爵が窓辺に立って静かに言った。
「合図を」
「はっ」
ガイウスが、腰の角笛を取り上げた。それを唇に当てる。
低い音が塔の中に響いた。
ブォォォ……。
四つの櫓の見張りが、一斉に松明を掲げた。積み上げられた薪と枯れた蔓の山に、火が投げ込まれる。
ぼっ、と炎が上がった。
次の瞬間、濃い白緑色の煙がもうもうと吹き出した。
煙は空に向かって、柱のように立ち上った。四本の柱が塔を囲んで、谷の上空に巨大な檻を作る。風が煙を谷全体に撒き散らす。
「やめろ! あの煙は、毒だ!」
カイは必死に叫んだ。
眠り蔓を燃やして得た煙。大量に吸い込めば息が止まる。小さな魔獣でも危険なのに。あれほど大きな体で吸い込んだら。
(母竜が、死ぬ)
「大丈夫です」
伯爵が穏やかに言った。
「眠るだけですよ。命までは、奪いません。この日のために何度も、計算しましたから」
「計算が、正しい保証は!」
「あなたが、言うことではない」
冷たい声だった。
母竜は煙の柱の間に、飛び込んでいた。
竜は、すぐに異変に気づいたようだった。首を振る。翼を強く羽ばたかせる。煙を振り払おうとする。
けれど、煙は竜を取り囲んで離れなかった。
咳き込むような音が空に響いた。
ごほ、ごほ、と。竜の巨大な体が、がくんと傾いた。
翼の動きが鈍くなる。高度が下がっていく。
金色の鱗の輝きが少しずつ、くすんでいった。
(やめてくれ)
涙が頬を伝った。カイはガイウスの腕に爪を立てた。
「放してください! あの竜は、僕が診る!」
「それはできません」
「放せ!」
「伯爵様の、命令です」
兵長の声は、機械のように平坦だった。けれど、その手がわずかに震えているのにカイは気づいた。
(……この人、迷っている)
けれど、考える時間はなかった。
竜が墜ちた。
谷の底、館の門の少し手前の草原へ。巨大な体がずしん、と地面に激突した。
大地が揺れた。塔の石がきしむ。
土煙が舞い上がった。
伯爵が手を上げた。
「網を」
草原の両側の木立から、何かが一斉に飛び出した。
太い縄で編まれた、巨大な網。それが鉄の杭で打ち出される。空中で網が広がった。竜の体の上に、ばさりと覆いかぶさる。
十枚。二十枚。
網が次々と、竜の巨体を覆っていった。杭が地面に深く打ち込まれる。鎖が網につながれる。
竜は動かなかった。
首が草の上に、だらりと投げ出されている。金色の瞳が半分閉じていた。
「成功です」
伯爵は静かに言った。
「これで竜は、私のものだ」
その顔に勝利の笑みが浮かんでいた。
カイは膝の力が抜けて、床に崩れ落ちた。手が震えている。何もできなかった。止められなかった。
(母竜が)
視界が涙で滲んだ。
その時だった。
塔の下から獣たちの声が響いてきた。
ぴゅい、ぴゅい。きゅうきゅう。ばさばさ。
重なり合う、たくさんの鳴き声。
「……何です、この騒ぎは」
伯爵が眉をひそめた。
「館の獣たちが」
ガイウスが、窓から下をのぞいた。
「檻が、揺れています。鳴いている。一斉に」
カイは顔を上げた。
(目を覚ましている)
二日間、少しずつ減らし続けた薬。体の中から鎮静が抜けていく。そこへ母竜の咆哮と煙の気配。全員が一斉に、目を覚ましたのだ。
「何をしたのです、獣医官殿」
伯爵が初めて、険しい顔でカイを見た。
「診察をしただけです」
カイは涙を拭って立ち上がった。
「あなたの子たちは聴いていた。母竜の声を。そして、自分たちの声も」
伯爵が何か言いかけた。その時、塔の外から鋭い声が飛び込んできた。
「正面門、開けろ!」
「局の査察だ! 幻獣保護法に基づく、立入検査を行う!」
イゼルダの声だった。




