竜籠
二日間、カイは館の子たちを診て回った。
朝から晩まで檻の間を歩く。体温を測り、目を見て、舌を調べる。減薬の予定表を、一頭ごとに板に書き込んでいく。
トバは黙ってその横を歩いた。薬の瓶を、そっと一つずつ薄めていった。伯爵の目が届かない場所で。
二日目の夕方。
最初に変化が現れたのは、銀色の狐だった。
「……あ」
カイは足を止めた。
檻の中で狐が顔を上げていた。まぶたが、さっきよりもずっと開いている。黒い瞳がゆっくりと瞬いた。
「起きてる」
「はい」
トバが小声で言った。
「他の子たちも、少しずつ動くようになっています。夜中に鳴く子も」
風羽鳥が止まり木の上で、羽をばさりと広げた。影猫が檻の隅で、爪を研ぎ始めた。月光鹿の一頭が、ふらふらと立ち上がった。
広間の空気が、ざわめき始めていた。
(目を覚ましている)
カイの胸に小さな炎が灯った。
夜が更けて、夜明け前になった。広間の扉が重々しく開いた。
「獣医官殿。お迎えに参りました」
兵長のガイウスだった。後ろに兵が四人。
「伯爵様が、お呼びです。ご同行を」
夜が明けるにはまだ早かった。窓の外は、深い藍色に染まっている。
カイはトバと目を合わせた。老人がわずかにうなずいた。
(今日だ)
「分かりました」
カイは立ち上がった。
館の裏口から、庭へ出た。冷たい風が頬を刺す。空には満月に近い月が、白く冴えていた。
裏庭は広かった。
芝生の向こうに黒い塔がそびえていた。
石造りの高い塔だった。五階建ての建物ほどの高さ。円筒形で、窓はなく、頂に小さな屋根が載っている。
周囲の石は古びて、苔が生えていた。
その塔の周りに、四つの櫓が建てられていた。木の足場の上に、薪と枯れた蔓が高く積まれている。
見張りの兵が、各櫓に二人ずつ立っていた。
(眠り蔓の、煙)
あれに火をつければ、母竜は眠らされる。
塔の根元の扉が開いていた。そこから、冷たい風が吹き出している。
「こちらへ」
ガイウスが、扉の中へカイを導いた。
内側は螺旋階段だった。ランプの灯りが、壁に等間隔で並んでいる。石の段を一歩ずつ降りていく。
「上ではないんですか」
「地下にお見せしたいものがある、と」
地下へ。足音が反響した。下へ、下へ。空気が冷たくなっていく。
階段の底に鉄の扉があった。ガイウスが鍵を回す。重い音とともに扉が開いた。
そこは、巨大な地下の広間だった。
天井が高かった。石のアーチが闇に溶けている。壁一面に松明が掲げられ、赤い光が揺れていた。
広間の中央に檻があった。
黒い鉄の格子で組まれた巨大な檻。一辺が屋敷の部屋ほどもある。格子の太さは人の腕ほど。
床には、大きな鉄の輪が打ち込まれて、そこから太い鎖が何本も伸びていた。
(……大きい)
カイは息をのんだ。
竜が一頭入れる大きさだった。母竜のような本物の竜が。
「見事でしょう」
声がした。
檻の向こうの暗がりから、深紅の上着の男が現れた。ベルクハイム伯爵だった。いつもの柔和な笑みを浮かべている。
「これが竜籠です。ミトラの記録を元に、五年かけて作らせました。鉄は、北の山から取れる最も硬いもの。鎖は竜の力でも千切れません」
「……母竜を、閉じ込めるために」
「ええ」
伯爵はあっさりと認めた。
カイは鎖に目をやった。太い鎖の先端に、大きな足枷がついている。内側に細かい溝が刻まれていた。
その形に見覚えがあった。
(……ルカの、左前脚の傷)
あの小さな竜の、細い脚に残っていた鎖の跡。輪の形に擦り切れた毛とただれた皮膚。
あの跡と同じ模様だった。
「これは」
「ああ。気づかれましたか」
伯爵は鎖を、指でそっとなぞった。
「あの子竜の足枷は、私が型を渡して、黒鱗商会に作らせたものです。雲居山から攫わせたのも、私の依頼でしたから」
カイの全身から、血の気が引いた。
「あなたが」
「ええ。母竜をおびき出すための、囮にしようと思いましてね。ところが倉庫の摘発で、すべてが狂った。あの時は、少し腹が立ちました」
伯爵は静かに言った。穏やかな口調のまま。
「でも、結果的によかった。あなたが、あの子を治してくださった。そして、母竜の鱗を授かってきた。第二の鍵を、運んできてくださった」
「……僕を利用して」
「ええ。感謝していますよ。心から」
伯爵はにこりと笑った。その笑みを、カイは初めて、おぞましいと思った。
「あなたは、診る者でしょう。獣を治すことしか、考えていない。だから、私はあなたを恐れない。むしろあなたの技に、敬意を払っているのです」
「敬意?」
「ミトラの技を、あなたが引き継いでいる。それを、私に教えてほしい」
伯爵は一歩、近づいた。
「眠らせずに、獣と心を通わせる技。聴診器を使った、診察の秘技。あなたなら、私の幻獣たちを、もっとよく治せる。そして、竜も」
「竜を、従えるために?」
「保護するために、です」
伯爵は穏やかに訂正した。
「竜は、貴重な存在です。人の手で、守らなければならない。ここなら、安全です。飢えも寒さも、争いもない」
「それは檻です」
カイははっきりと言った。
「あなたが言う楽園は、檻です。眠らされた子たちは、生きていません。心臓が動いているだけです」
伯爵の笑みが、わずかに固まった。
「ミトラの教えは一つだけです。『声なき者の、鼓動を聴け』」
カイは続けた。
「あなたは、聴いていない。ツキの声も、ユエの声も、十二頭の声も。あなたが聴いているのは、自分の望みだけだ」
静寂が落ちた。
松明がぱちりと爆ぜた。
「……残念です」
伯爵は小さく息をついた。
「あなたとなら、手を取り合えると思っていたのですが」
ゆっくりと指を鳴らした。
ガイウスが前に出た。カイの両腕を後ろから掴む。
「何を」
「ご覧に入れましょう。夜明けの第一声を」
伯爵は檻の脇の螺旋階段を上り始めた。ガイウスが、カイを引きずるように後に続く。
階段は塔の内部を、頂まで貫いていた。
石の段を息を切らして上る。やがて、広い円形の部屋に出た。塔の頂だった。壁に大きな窓が、四方に開いている。
冷たい夜風が吹き込んでいた。
部屋の中央に、石の台座があった。
その上に小さな金色の鱗が置かれていた。
母竜の鱗。淡くほのかに輝いている。
その周囲を、巨大な石の筒が取り囲んでいた。窓の外へ向かって、ラッパのように大きく開いている。
「呼び塔」
伯爵が言った。
「鱗が、鍵。この筒が声を増幅して、山の向こうまで届ける」
東の空が、うっすらと明るくなってきた。月が西の山の端へ、沈もうとしている。
「満月が沈む、夜明けです。この瞬間が、最も竜に届く」
伯爵は鱗の前に立った。手を石の台座の溝に、置く。
低く重い音が響き始めた。
ごおお……。
石の筒が振動している。鱗が淡い金色の光を、強く放ち始めた。
「やめろ!」
カイが叫んだ。ガイウスの腕を振りほどこうともがく。けれど、兵長の手は鋼のように硬かった。
「届け」
伯爵が囁いた。
音が窓の外へ溢れ出した。山々に、谷に、空の彼方へ。
遠くで何かが応えた。
地の底から響くような、低く長い咆哮だった。




