老飼育人の首飾り
館が寝静まったのは、夜半を過ぎてからだった。
カイは見張りの兵の目を盗んで、客間を抜け出した。館の者たちはカイを「客人」と呼びながら、廊下に兵を立たせている。
けれど、深夜の巡回の隙間には短い空白があった。
厩舎の裏は、冷たい風が吹き抜けていた。
積まれた干し草の影に、小さな人影が立っている。
「来てくださいましたか」
トバだった。手に、小さなランプを持っている。炎を外套の内側に隠して、光が漏れないようにしていた。
「お約束でしたから」
「こちらへ」
トバは厩舎の裏の石壁の、崩れかけた隙間へカイを導いた。人が一人通れるほどの狭い通路。奥に、物置のような小部屋があった。
壁に古い農具が掛かっている。床には藁の束。
トバは扉を閉めて、ランプを床に置いた。
「ここなら、誰にも聞かれません」
「あなたは、何者なんですか」
カイは率直に聞いた。
トバはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと襟元に手を入れた。
細い革紐を引き出す。
その先に小さな金属の輪が下がっていた。
指の先ほどの、青銅の輪。内側に、小さな翼を広げたような模様が刻まれている。
ランプの光を受けて鈍く輝いた。
「……輪」
カイは息をのんだ。
「守りの輪です。私の家に、代々伝わるものです」
トバは輪を掌に載せた。
「私は、ミトラの末裔です。と言っても里が滅んでから、百年以上、血は薄まりました。名乗る者も、ほとんどいません」
「あなたが」
「里が焼かれた夜、私の先祖は、幻獣を連れて、山へ逃げました。そして、麓の村にひっそりと住み着いた。以来、代々の者が、谷を見守ってきました」
トバは静かに続けた。
「五年前、谷に館が建つと聞いて、私は、館の雇い人に応募しました。素性は隠して。伯爵様は、疑わなかった。幻獣の世話に慣れた、無口な老人が欲しかったようで」
「どうして、中に入ったんですか」
「里の跡を、守るため。そして、いつか輪の聴き手が現れた時に導くために」
トバは顔を上げた。皺だらけの顔に、涙が光っていた。
「あなたがユエの前で、あの言葉を言った時。私は一度、死んだのかと思いました。聞こえるはずのない声が聞こえたのかと」
「声なき者の鼓動を」
「はい。ミトラの教えの、最初の一行です。いまや、誰も知らぬ言葉のはずでした」
トバは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。この五年、私はずっと一人でした」
カイは、返す言葉が見つからなかった。ただ、老人の肩にそっと手を置いた。
「トバさん。頭を、上げてください。僕はあなたに、聞きたいことがあります」
「何でも」
「伯爵の、本当の狙いは何ですか」
トバの表情が、ゆっくりと引き締まった。
「伯爵様はミトラの技を、欲しがっているのです」
「技」
「眠らせずに、幻獣と心を通わせる技。ミトラの者は、薬も鎖も使わずに、竜さえも従えたと言われています。伯爵様は、それを知りたい。診療所の、書庫が目当てです」
「……ミトラの書」
「はい。あの扉の向こうに、すべてがあると、信じておられる」
カイはミトラの書の最後の頁を思い出した。
『鷲の旗を掲げた軍勢が、谷に来た。彼らは、竜と幻獣を求めていた』
「あなたの先祖を滅ぼしたのは、伯爵の家ですね」
「はい」
トバはうなずいた。
「ベルクハイム家は、百年以上前、この谷を襲いました。竜を従えれば、国が手に入ると考えて。母竜の怒りで、軍勢は退けられました。ところが、家に伝わる記録には、別のことが書いてあるのです」
「別のこと」
「ベルクハイム家は、竜を従えた一族として栄えた、と。偽りの歴史です。伯爵様はその偽りを、本物にしたいのです」
カイの脳裏に、伯爵の穏やかな顔が浮かんだ。柔和な笑みの奥に冷たい炎のようなものが、ずっと燃えていた。
(幻獣を、愛しているのではない)
あの人は、取り憑かれているのだ。先祖の偽りの栄光に。
「最終的に伯爵は、竜を狙っているのですね」
「はい」
トバの声が低くなった。
「雲居山の母竜を」
カイの血が凍った。
「どうやって」
「塔です」
「塔?」
「館の、裏庭にあります。石造りの高い塔。ミトラの里にあった、『呼び塔』の再現です」
トバは続けた。
「里の者は、傷ついた竜を診るために、塔を使いました。母竜の鱗を塔の頂に置いて鳴らす。すると鱗の主がその音に応えて、谷へ降りてきた。竜が助けを求める時にも使われました」
「鱗が、鍵」
「はい。伯爵様は五年かけて、塔を直しました。足りなかったのは鱗でした」
トバは、カイの目をまっすぐに見た。
「今日、兵があなたから取り上げた金色の鱗」
カイは胸を押さえた。革のケースがあった場所。
「母竜の鱗は、あなたが持っていた。伯爵様はそれを五年かけて、探していたのです。あなたが、第二の鍵だった」
「……僕が」
「そして、鱗は今夜のうちに塔の頂へ運ばれました」
トバの声がかすれた。
「二日後の夜明けに鳴らされます」
カイは立ち尽くした。
(二日後)
あと二日しかなかった。
「止められますか」
「私一人では、無理です。塔には、常に兵が立っています」
「眠り蔓の煙は」
「塔の周囲の、四つの櫓に、薪と眠り蔓が積まれています。母竜が降りてきたら、一斉に焚いて、眠らせる計画です。網と鎖で、捕らえる。地下の竜籠に、閉じ込めるために」
(……竜籠)
その言葉が、頭の奥に引っかかった。ルカの左前脚の、古い傷。鎖の跡。
(ルカも、あそこにいたのかもしれない)
怒りが胸の底から、静かに湧き上がってきた。
「トバさん。あなたは、外と連絡が取れますか」
「はい。私の部屋に、風羽鳥が一羽います。ヒバという名です。伝書に使える」
「姉君はいますか。麓に」
トバははっと目を見開いた。
「どうしてそれを」
「勘です。あなたの話し方が似ていたので」
カイは小さく笑った。
(バーサさんと)
あの老婆の、ぶっきらぼうな口調。『ああ、あんたも持っているのかい』という言葉。
トバはしばらく黙っていた。それから、静かにうなずいた。
「……姉はホロ村の近くで、羊飼いをしています」
「やっぱり」
カイはほっと息をついた。
「その、ヒバに手紙を託してください。『輪の聴き手が、館にいる。二日後の夜明けに、塔が鳴らされる。助けを』と」
「承知しました」
トバは深くうなずいた。それから、ふと、顔を上げた。
「その日の夜明け前に、伯爵様は、あなたを塔へ連れていくでしょう。あなたの目の前で、鳴らしたいはずです。その時が機会です」
「機会」
「塔の騒ぎの間、館の子たちの檻は、見張りが薄くなります。減薬した子たちの中に、目を覚ましている子が、いるかもしれません」
カイは唇を引き結んだ。
(今日の昼に減らした薬で、どこまで目を覚ましているか)
確かめるしかなかった。
その時、扉の外で足音がした。
二人は息を止めた。ランプの炎をトバが手で覆い隠す。
足音は通路の前で止まり、それから、ゆっくりと遠ざかっていった。
「……巡回です」
トバがささやいた。
「戻ってください。あなたがいないと分かれば疑われます」
「はい」
カイは立ち上がった。扉の前で振り返る。
「トバさん」
「はい」
「それまでにできることを、全部やりましょう」
老人は深くうなずいた。その手の中で小さな青銅の輪が、静かに光っていた。




