ユエの診察
診察は日が暮れるまで続いた。
ユエの体は問題だらけだった。カイは一つずつ、板に炭で書き出していった。
『体重 標準の六割。肋骨、背骨が浮く』
『体温 低い。耳先が冷たい』
『目 白目が黄ばんでいる。瞳孔の反応が鈍い』
『右の肋骨の下 張りあり。肝臓の腫れ』
『乳房 四つとも赤く腫れて、熱を持つ。固い。触ると激しく痛がる』
最後の項目に、カイは眉を寄せた。
(乳房炎だ)
乳が溜まったまま、搾られない。そこに細菌が入って、炎症を起こしている。放っておけば乳房の組織が壊れて、全身に毒が回る。
「ユエは、子を産んだことがありますね」
カイが聞くと、傍らの老人が小さくうなずいた。
背の低い、痩せた男だった。白髪を後ろで束ねて、深い皺が顔に刻まれている。
灰色の作業着の袖から、節くれだった手がのぞいていた。
館の飼育人、トバと名乗った。口数の少ない男だった。
「一年ほど前に」
「その子と、引き離されたんですね」
「……はい」
トバは目を伏せた。
「生まれて半年で離されました。伯爵様の、ご命令で。乳は、止まるはずでした。ところが薬のせいで、止まりきらなかった」
(薬が乳の出を妨げて、同時に搾ることも忘れさせた)
カイは静かに息を吐いた。
(まず、この子の痛みを和らげる)
鞄から小さな壺を取り出した。ミレーヌが調合してくれた薬草の軟膏。熱を冷まして、炎症を抑えるもの。
「トバさん。お湯を、もらえますか。手を洗いたい。それと、清潔な布を何枚か」
「承知しました」
トバはすぐに動いた。動作に無駄がない。長年、幻獣の世話をしてきた手だった。
湯が届いた。カイは手を洗って、ユエの腹の下にそっと手を差し入れた。
「少し触るよ。痛いけど我慢して」
ユエの体がびくりと震えた。けれど、逃げなかった。
温かい布を乳房に当てる。熱を逃がさないようそっと包む。しばらく置いてから指で、ゆっくりと乳を搾り出した。
固く詰まった乳は濃く濁って、血が混じっていた。
「痛いね。ごめんね」
何度も何度も。少しずつ、搾る。ユエは、歯を食いしばるように耐えていた。
やがて、乳房の張りがわずかに緩んだ。カイは薬草の軟膏を、薄く塗り込んだ。
「これでひとまず、痛みは軽くなるはずです」
次に、鎮静薬だ。
「ユエが毎日飲んでいる薬は、どれくらいですか」
トバが棚から、小瓶を持ってきた。深い緑色の汁。眠り蔓の抽出液。
「朝と夕方に、小匙で三杯ずつ」
「多いな」
カイは瓶を手に取って、中身を確かめた。濃い。少なくとも領都の三頭に使われていたものよりも、強い。
「今日から、減らします。朝と夕方、小匙一杯ずつ。明日から、さらに半分。三日で止めます」
「そんなに、急に」
トバが顔を上げた。
「急に止めると、体が戸惑って暴れます。ですがユエの肝臓は、これ以上、薬に耐えられません。急ぐ必要があります」
カイはトバをまっすぐに見た。
「その代わり、体を温める手当てと、体力をつける餌と、毒を吸う炭を、並行して使います。夜は、誰かがそばについていてください」
「……私がつきます」
トバは短く答えた。それから、少し迷って付け加えた。
「あの。他の子たちは」
「全員です」
カイは静かに言った。
「館の子たち、全員。ただし一度に全員の薬を減らすと混乱します。毎日、五分の一ずつ。五日で止める。そのための予定表を作ります」
「それは伯爵様が」
「承知している、と言いました」
カイは少し離れた場所に立つ、ガイウスをちらりと見た。兵長は無表情だった。
扉の外で衣擦れの音がした。
伯爵が回廊から、様子を眺めていた。柔和な笑みを浮かべたまま動かない。聞こえているのか、いないのか。
(聞こえていても構わない)
カイはあえて、はっきりと言った。
「減薬の計画は、館の子たちの健康を守るためのものです。鎮静を減らして、体の本来の力を取り戻す。それが、診察の方針です」
「結構」
伯爵が穏やかに答えた。
「あなたのやり方に任せましょう。ただし、館の静けさが保たれる範囲で」
「分かっています」
(分かっている)
減薬すれば、館は静かではなくなる。幻獣たちが目を覚ます。動き出す。鳴き始める。
それは伯爵にとって、都合の悪いことかもしれない。
けれど、今は構わなかった。
(目を覚ました子たちが必ず力になる)
その確信だけが胸にあった。
夜になって、ユエの体温が、少しだけ上がってきた。蜂蜜水を、自分で舐めるようになった。
カイはユエの胸に手を当てた。聴診器はない。けれど、手のひらに確かな鼓動が伝わってくる。
とく、とく、とく。
「声なき者の鼓動を」
つぶやきが、思わず唇から漏れた。
その瞬間、背後で、がたりと音がした。
振り向くとトバが、桶を落としていた。水が床に広がっている。老人は見開いた目で、カイを見つめていた。
「……今、何と」
「え?」
「今の言葉を」
トバの声が震えていた。
「声なき者の鼓動を、と」
カイは一瞬、迷った。
(この人は、知っている)
何かを知っている。そう直感した。
「ミトラの診療所の、壁に刻まれていた言葉です。祠の石板にも」
トバの顔が、ゆっくりと変わった。驚きから畏れへ。それから、ほとんど泣き出しそうな複雑な表情へ。
老人は周囲を見回した。ガイウスは扉の外に出ている。伯爵はすでに去っていた。
トバは、そっとカイの袖を引いた。
「……夜、厩舎の裏に」
低い、かすれた声だった。
「お越しください。お見せしたいものがあります」




