客人
縄が解かれたのは、広間の長椅子に座らされてからだった。
兵長のガイウスが、無言でカイの手首の縄を切った。擦れて赤くなった跡を、カイはゆっくりとさする。
目の前の小さな卓に、湯気の立つ茶が置かれた。取り上げられていた診察鞄も、中身を改めたうえで、足元に戻された。
「どうぞ。毒は入っていません」
伯爵は向かいの椅子に腰を下ろして、自分の茶を口に運んだ。
「あなたを、客人としてお迎えしたい。乱暴な扱いをしたことはお詫びします」
「ツキの母親を、診ろと言いましたね」
カイは、茶に手をつけずに言った。
「条件があります」
「伺いましょう」
「ツキは、館の兵に探させないでください。見つけても、鎮静薬は絶対に使わない」
「なるほど」
伯爵はわずかに目を細めた。
「あの子は、私の財産でもあるのですがね」
「財産ではありません。生き物です」
「ふむ」
伯爵は茶碗を置いた。
「いいでしょう。あなたの診察のあいだは探させません。その代わりあなたも、館から出ようとしないこと。これでどうです」
「二つ目の条件」
カイは続けた。
「診察の間は、僕の指示を、館の飼育人に守らせてください。薬の量も、餌も日光も」
「ほう。随分と、大きく出ますね」
「できなければ、診ません」
しばらく、沈黙が落ちた。ガイウスが背後で、わずかに身じろぎをした。
伯爵は静かに笑った。
「面白い。どこまでも、獣医なのですね。あなたは」
「診てから、決めます。断るかどうかは」
カイはまっすぐに伯爵を見た。
「見せてください。あなたの、館の子たちを」
「では、ご案内しましょう」
伯爵は、ゆっくりと立ち上がった。
回廊は長かった。
白い石の廊下。高い窓から、冷たい秋の光が降り注いでいる。ガイウスと兵が二人、後ろからついてくる。
突き当たりの、重い両開きの扉が開いた。
「どうぞ。当館の誇りです」
広大な広間だった。
天井は高い円天井。光がガラス張りの屋根から、柔らかく差している。床は白と黒の石の市松模様。
そして、その両側に大きな檻が整然と並んでいた。
金色の格子。内側に敷物と水飲み。清潔だった。花さえ、飾られている。
その中に幻獣たちがいた。
月光鹿が三頭。風羽鳥が五羽。影猫が四匹。銀色の毛並みの狐に似た幻獣が六頭。鱗に覆われた猿に似た獣が二頭。
岩のような甲羅の亀が一頭。
数えれば三十近い。
どの子も静かだった。
檻の中で横たわっている。あるいは止まり木の上で、羽に首を埋めている。目は半分閉じていた。時々耳がぴくりと動くだけ。
(領都の三頭と、同じだ)
カイは唇を噛んだ。
「ご覧ください。どの子も元気で静かでしょう」
伯爵が誇らしげに言った。
「飢えもなく、寒さもなく、争いもない。ここは、彼らにとっての楽園です」
「……楽園、ですか」
カイは、ゆっくりと広間を歩いた。檻の前で足を止める。
銀色の狐が横たわっていた。毛艶は美しい。けれど、背骨が浮き出ている。呼吸が、浅い。口の端に、よだれの跡が乾いていた。
鱗猿は小さな手で、自分の腕を無意識に引っ掻いていた。皮膚が赤くなっている。
風羽鳥は止まり木の上で、片方の翼を力なく垂らしていた。羽がところどころ抜けている。
(どの子も同じだ。鎮静薬の、長期投与)
そして、一番奥の列まで来てカイは足を止めた。
空の檻がいくつか並んでいた。
その扉に、小さな札が掛かっている。名前が一つずつ書かれていた。その上から墨で、横線が引かれている。
『ハル』『ソウ』『イヴ』『ノア』『コハク』。
数えると、十二枚。
「これは」
「ああ」
伯爵は、軽く手を振った。
「残念なことに、体の弱かった子たちです。レンデルを雇っていた頃は、もう少し、持ちが良かったのですが」
「十二頭が、死んだ」
「自然のことです。幻獣は、繊細ですから」
カイの手が、握りしめられた。爪が、掌に食い込んだ。
(違う。この子たちは、薬で、死んだ)
怒りが、喉まで込み上げた。けれど、今ここで声を荒げても、何も変わらない。
(診てから、決める)
深く、息を吸う。それから、吐く。
「分かりました」
カイは、伯爵に向き直った。
「診察します。ただし、先に、ユエを」
「結構」
伯爵は、満足そうにうなずいた。
「こちらです」
広間の奥の、小さな扉。その向こうは、静かな個室だった。
窓が一つ。床に、藁と布が敷いてある。その中央に、一頭の鹿が、横たわっていた。
月光鹿。ツキと同じ、白い毛。額に、三日月の斑。けれど、体は、ずっと大きい。
痩せていた。肋骨が、毛の下で、はっきりと浮いている。後ろ脚には、鎖の跡。腹の下の乳房は、異様に張って、赤黒く腫れていた。
(ひどい)
カイは、そっと膝をついた。
鹿は、まぶたを半分だけ開けて、ぼんやりと天井を見ていた。呼吸が、浅い。
カイは、ゆっくりと、鹿の鼻先に、手の甲を差し出した。
「……ユエ」
名前を呼ぶと、鹿の耳が、ぴくりと動いた。
黒い瞳が、ゆっくりと、カイの方を向いた。焦点が、定まらない。けれど、鼻が、ひくひくと動いた。
カイの手のにおいを、嗅いでいる。
その手には、まだ、洞窟の土と、蜂蜜水と、ツキの毛のにおいが、残っていた。
鹿の瞳が、大きく揺れた。
喉の奥から、かすれた声が漏れた。
「……ぴゅ、い」
ツキと、同じ声だった。
カイの胸が、締めつけられた。伯爵や兵が、見ている。それでも、小さく、ささやいた。
「大丈夫。ツキは、生きてる」
鹿の目が、潤んだ。涙が、ぽろりと、白い毛に落ちた。




