お待ちしておりました
「囮に、なる」
カイが言うと、ルカは小さな頭を横に振った。
「ぷる、ぷる」
「聞いてくれ。ここで全員が捕まれば、ツキは助からない。誰かが先に出て、兵を引きつける。その間に君が、外へ助けを呼びに行くんだ」
ルカは金色の瞳で、カイをじっと見た。そして、もう一度、首を振った。
「分かってる。離れたくないんだろう。僕もだ」
カイはルカの顔を、両手でそっと包んだ。
「でも、君にしかできないことがある。君は空を飛べる。北の山を越えて助けを呼べる」
ルカの瞳がかすかに揺れた。
カイは鞄から、一枚の板を取り出した。炭で手早く書き込む。
『館に伯爵。罠だった。ミトラの診療所を開いた。聴診器とミトラの書は、洞窟に隠す。ツキは洞窟にいる。助けを。ニコ、バーサさん、ヨハンさんへ』
短く書いて板を細い紐で、ルカの首に結んだ。
「ホロ村へ行くんだ。ニコ君が、いる。バーサさんも。きっと、助けてくれる」
「ぷる……」
「頼む、ルカ」
ルカはしばらく、カイの顔を見つめていた。それから、ぱっと翼を広げた。洞窟の天井近くまで舞い上がって、ふわりと降りてくる。
カイの頬に、小さな頭を押しつけた。
「うん。ありがとう」
「ぷる」
ルカはツキの方を向いた。ツキの鼻先に自分の鼻を、そっと触れさせる。短く、鳴いた。ツキも小さく鳴き返した。
それが別れの挨拶だった。
カイは聴診器を首から外した。冷たい銀色の円盤を、じっと見つめる。
(これは渡せない)
これがなければ、あの診療所の扉は開かない。伯爵に渡れば、何が起きるか分からない。
洞窟の奥の岩の割れ目に、聴診器とミトラの書を押し込んだ。上から、石と枯れ草で隠す。
ツキの傷を覆った布を、もう一度確かめて、毛布を深く掛けてやった。
「ごめんね。ここで待っていて。必ず、迎えに来る」
ツキはぴゅいと小さく鳴いた。黒い瞳に不安が滲んでいる。それでも、じっとカイを見ていた。
洞窟の外から犬の吠え声が、すぐ近くまで迫っていた。
カイは母竜の鱗を入れた革のケースを、胸の内側に押し込んだ。それから、洞窟の入口から、外へ這い出した。
朝の光が眩しかった。
斜面の下に緑の制服の兵たちが、立ち止まって、こちらを見上げていた。先頭の犬が洞窟の入口に向かって、激しく吠えている。
「あれだ!」
兵たちが槍を構えた。
カイは両手を高く上げて、ゆっくりと斜面を降り始めた。
「抵抗しません。ここにいるのは僕だけです」
カイは、洞窟から遠ざかるように、わざと声を張った。犬の鼻先を洞窟から外す。兵たちの視線を自分に集める。
その瞬間、洞窟の上空を金色の小さな影が、すうっと横切った。
ルカだった。
朝日を背に北の空へ、まっすぐに飛んでいく。誰もそれに気づかなかった。全員の目が、カイに向けられていた。
(行け、ルカ)
心の中でそっと祈った。
「獣医だ。縄をかけろ」
「持ち物を調べろ」
兵たちがカイを取り囲んだ。腕を後ろ手に縛られる。鞄が引き剥がされた。
「聴診器は?」
隊長らしい男が鋭く聞いた。背の高い、冷たい目をした中年の男だった。深い緑の制服に、銀の肩章がついている。
「持っていません」
「嘘をつくな。診療所の扉を開けたのはあなただろう」
「扉は閉めました。聴診器は、谷のどこかに落としました」
男の眉がぴくりと動いた。
「……探させろ。谷の隅から隅まで」
別の兵がカイの胸元を探った。革のケースが、引っ張り出される。
「これは」
「母竜の鱗です。もらったものです」
男はケースの中の淡い金色の鱗を、じっと見つめた。そして、それを自分の懐に収めた。
「伯爵様に、お渡しする。連れていけ」
洞窟のことは誰も、口にしなかった。犬はカイのにおいに引きずられて、洞窟から離れていく。
(ツキは、見つからなかった)
カイは胸の奥で、小さく息をついた。
* * *
館の門は近くで見ると巨大だった。
鉄の門扉が軋みながら開く。石畳の前庭を兵に連れられて歩いた。花壇には、秋の花が整然と植えられている。
大理石の噴水が、静かに水を吹き上げていた。
領都の伯爵邸と、よく似た造りだった。美しく、整って、そして冷たい。
玄関の大きな扉が、内側から開いた。
「お連れしました、伯爵様」
中は広い広間だった。高い天井。磨かれた床。壁には鷲の旗が掛かっている。
その中央に、一人の男が立っていた。
深紅の上着。金の刺繍。銀が混じった髪を、きちんと撫でつけている。五十を少し越えたくらいの、品のいい顔立ち。
柔和な笑みが、口元に浮かんでいた。
「ようこそ、獣医官殿」
ベルクハイム伯爵は両手を広げた。
「お待ちしておりました」
カイの足が止まった。
「……待っていた?」
「ええ。もう、ずいぶん前から」
伯爵は穏やかに言った。
「あの小さな鹿が、排水の格子を抜けた時から。いえ、あの格子は私が外させたのです。あなたが、必ず追うと思って」
カイの全身が冷たくなった。
「ツキを、わざと逃がしたのですか」
「ツキ、というのですか。あなたがつけた名ですか。いい名だ」
伯爵は微笑んだ。
「あの子は、よく働いてくれました。あなたを、輪の石まで連れていってくれた。聴き手を、鍵穴に近づけさせてくれた」
「あの子は薬を絶たれて、死にかけていた!」
「ええ。だからこそあなたは必ず追った。獣医とは、そういう方だ」
伯爵は静かに続けた。
「ご安心を。あなたは、あの子を助けてくださった。感謝していますよ」
カイは、縛られた手を握りしめた。怒りで、視界が赤く染まりそうだった。
「聴診器はどこです」
「ありません」
「ええ、そう仰るでしょう。探させます。急ぎません」
伯爵はゆったりと言った。
「あなたには先に、診ていただきたい子がいます」
「診る気は、ありません」
「ユエ、という名の、月光鹿です」
その名にカイははっとした。
「……ユエ」
「ええ。五年前から、この館にいる母鹿です。毎日、鎮静薬を与えて、静かに暮らしてもらっています。ところが近頃、具合が悪い」
伯爵は一歩、近づいた。
「ツキの、母親ですよ」
カイの喉がひくりと鳴った。




