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異世界で獣医を開業しました ~魔獣は処分するものだと言われても、治せるなら治します~  作者: おはぎだんご


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ミトラの書

表紙の革は、手に吸いつくように柔らかかった。


ページをめくると、古い紙の匂いが立ちのぼった。墨は褪せているが文字は読める。几帳面な筆跡が、びっしりと並んでいた。

最初の頁に輪の印が、大きく描かれている。その下に、一行。


『ミトラの書 ――声なき者を診る者のために』


(ミトラの、書)


カイはそっとページを送った。


最初の章は、聴くことについてだった。


『診る者は、まず黙れ。獣は、言葉を持たぬ。ゆえに、体が語る。脈、息、鼓動、目の光、毛の艶、足の運び。それを、すべて聴け』


『聴くとは、耳だけのことではない。手で聴き、目で聴き、鼻で聴き、時を待って聴く。焦る者は、聴けぬ』


(……僕が、毎日やっていることだ)


胸の奥がじんと熱くなった。誰かが百年以上前に同じことを、同じ言葉で書き残している。


頁を繰る。薬草の章。外傷の章。お産の章。骨折の手当て。熱病の見分け方。

どれも実用的で、無駄がなかった。カイが前の世界で学んだことと、驚くほど近い考え方で貫かれている。


眠り蔓の項に行き当たった。


『眠り蔓。湿地に生える蔓草。その乾いたもの、または煮出した汁は、獣を眠らせる』


『鎮静に用いるは、三日を越えるな。長ずれば、肝を損なう。食は進めど肉はつかず、目は濁り、やがて命を縮める』


『ゆえに、眠らせることを、診ることの代わりにしてはならぬ。痛みを知るために眠らせ、痛みを知らぬために眠らせてはならぬ』


その一文に指が止まった。


(……レンデルさんの古い飼育書)


領都でレンデルが持ち出した革表紙の本。小さな字で書かれた警告があった。

『ただし、量と期間を誤れば、肝を損なう。数日を超えて与えてはならぬ』。

あの本はこの書の、写しの断片だったのだ。


後半の肝心な一節だけが、削り落とされて。


(眠らせるのが優しさだと、あの人は信じていた)


違う。この書は、はっきりと書いている。眠らせることは診ることの代わりにならない、と。


カイはページを繰った。


後ろの方に様子の違う頁が現れた。


筆跡が変わっていた。急いで書いたような乱れた文字。墨がところどころ滲んでいる。


『輪の月、十四の夜。鷲の旗を掲げた軍勢が、谷に来た』


息を止めて読み進めた。


『彼らは、竜と幻獣を求めていた。里の者は、守りの輪を掲げて、立ちふさがった。しかし、武器を持たぬ者に、軍勢を止める術はなかった』


『里は、焼かれた。診療所の扉は、輪の聴き手によって閉ざされた。聴き手を携えた者たちは、幻獣を連れて、山へ散った』


『母なる竜は、谷を閉じた。炎と岩をもって、軍勢を追い払った。その代わり、竜もまた、深い傷を負った』


その先は墨が潰れて読めなかった。ただ、最後の一行だけがはっきりと残っていた。


『輪は、絶えていない。声なき者のそばに、輪は、再び現れる』


カイは本を閉じた。手がわずかに震えていた。


(鷲の旗)


ベルクハイム伯爵の、紋章。


百年以上前に里を滅ぼしたのは、伯爵の家だった。そして、五年前に伯爵はその谷の土地を買い戻した。何かを探して。


(診療所の中に、あるもの)


扉の鍵。竜を従える手がかり。あるいは母竜を。


偶然のはずがなかった。


「ぷる」


ルカがいつの間にか、目を覚ましていた。カイの膝に、ひょいと前脚を載せる。金色の瞳が、本をじっと見つめていた。


「ルカ。君は本当に、何も言わないんだな」


カイは小さく笑った。ルカの頭を撫でる。


(この子は、この谷のことを、知っているのかもしれない)


母竜が谷を閉じた。深い傷を負った。あの左脇腹の古い傷は、百年前のものではない。

けれど、似た手口の捕獲未遂があったのだとしたら。


考えがまとまる前に、ルカがはっと顔を上げた。


「ぷる!」


耳がぴんと立っている。洞窟の入口を鋭く睨んでいた。


カイも息を殺した。


風の音に混じって遠くから、犬の鳴き声が聞こえた。一つではない。複数の犬が吠えながら、斜面を登ってくる。


「……見つかった」


カイは、洞窟の入口へ這い寄った。灌木の隙間から、下をのぞく。


谷から続く斜面を緑の制服の兵が、散らばって登ってきていた。十人以上。先頭に、犬を二頭連れた男がいる。

鼻を地面に擦りつけて、まっすぐ洞窟の方へ向かっていた。


(においを、追われている)


ツキの傷から、血のにおいが出ていたのだ。ルカの足跡も。洞窟の位置は、時間の問題だった。


あとどれくらい?


目測する。犬の足は人より速い。斜面の傾斜を考えると、一刻もかからない。


カイは洞窟の奥へ戻った。


ツキが目を覚ましていた。毛布の上で体を起こしている。傷だらけの足で、立ち上がろうとしていた。

けれど、脚が震えてすぐにへたり込んだ。


「ツキ。動かないで」


カイはその前に膝をついた。


(ここで戦っても勝ち目はない。ツキを連れて逃げれば、犬に追いつかれる)


どうすれば、いい?


頭の中で考えが、ぐるぐると回る。そして、一つだけ、残った。


「ルカ」


カイはルカの目を、まっすぐに見つめた。


「僕が囮になる」


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