ツキの手当て
細い抜け道は、山の腹をぐるりと貫いていた。
岩の隙間を、腹ばいになって進む。曲がりくねった道を、ランプの炎だけを頼りに一歩ずつ。
後ろから、鹿のかすかな足音がついてくる。時々止まって荒い息をした。
どれほど歩いただろう。やがて、前方にぼんやりと青白い光が見えた。
「出口だ」
カイは、最後の岩の隙間を抜けた。冷たい風が顔を打った。
そこは山の中腹の洞窟だった。入口は、低い灌木と岩に隠されている。外は、うっすらと夜が明けかけていた。
東の空が、灰色から薄い桃色へ溶けていく。
眼下に霧に沈んだ谷が見えた。白い館の屋根が霧の中から、わずかに顔を出している。
「ここなら、見つかりにくい」
カイは洞窟の奥へ鹿を導いた。
乾いた土の床に、荷物から出した毛布を敷く。その上に鹿をそっと寝かせた。鹿は抵抗しなかった。
もう、立っている力も残っていないらしい。
「診せてね。痛いところに触れるけど、少しだけ我慢して」
カイはランプを近くに置いて、鹿の体を調べ始めた。
まず、全身を見る。
痩せていた。肋骨が一本一本、はっきりと浮き出ている。毛は艶こそあるが、背骨に沿ってところどころ抜けていた。
体重は、年齢に見合う半分ほどだろう。
体温を測る。耳に指を当てる。冷たい。
(低い)
目をのぞく。瞳孔が大きく開いたまま。光を当てても反応が鈍い。
そして、全身が細かく震えていた。耳がぴくぴくと痙攣している。口の端から、よだれが糸を引いて垂れた。
(この症状は)
見覚えがあった。領都で診た三頭と同じ、眠り蔓の鎮静薬。それを長く与えられた体が、急に薬を断たれた時の、離脱の症状だった。
ツキは館を逃げ出してから、一滴も薬を口にしていない。体が薬のない世界に戸惑って、暴れているのだ。
(まずい。この震えは、強い)
放っておけば、発作を起こすかもしれない。手足がこわばり、呼吸が乱れる危険もある。
「ルカ。この子を、温めてくれるかい」
「ぷる」
ルカは、すぐに鹿のそばに寄った。小さな体を、鹿の腹に押しつける。翼を広げて、体を包むように覆った。
ルカの鱗がほのかに温かい。母竜の鱗と同じ、日の光の温もりだった。
その間、カイは鞄から小さな革袋を取り出した。ミレーヌの薬草と炭の粉。蜂蜜の壺。
水筒の水を小さな碗に注ぐ。蜂蜜を一匙。ほんの少しの塩。
「飲んでごらん。甘いよ」
スプーンを、鹿の口元に近づける。鹿は顔を背けた。
「大丈夫。毒じゃない」
カイは自分の指に蜂蜜をつけて舐めて見せた。それから、もう一度スプーンを差し出す。
鹿は、しばらくカイの顔を見つめていた。やがて、おそるおそる、舌を伸ばした。
ぺろり。
「そう。上手だ」
少しずつ、少しずつ、蜂蜜水を口に運ぶ。鹿はごくりと喉を動かした。
次に、炭の粉。水に溶いて黒い液を作る。少量ずつ口の端から流し込む。毒を吸い出す手当てだ。
「これは、お腹の中の悪いものを吸ってくれる。苦いけど頑張って」
鹿は顔をしかめた。それでも、飲み込んだ。
次は脚の手当てだった。
四本の足首の傷。毛が擦り切れて、皮膚が裂けている。膿んでいる箇所もあった。
カイは清潔な布を温かい塩水に浸して、傷をそっと拭った。鹿がびくりと脚を引く。
「痛いね。ごめんね」
ルカが鹿の頬に、鼻先を押しつけた。ぷる、ぷる、と低く喉を鳴らす。大丈夫、と言い聞かせているようだった。
鹿の震えがわずかに和らいだ。
膿を押し出して、洗う。ミレーヌの軟膏を薄く塗る。布を当てて軽く巻く。
四本の脚の手当てが終わる頃には、洞窟の外の空が、すっかり明るくなっていた。
「よく頑張ったね」
カイは、聴診器を鹿の胸に当てた。耳を澄ます。
とく、とく、とく。
速い。そして、不規則だった。けれど、一つ一つの音はしっかりしている。
(生きる力は、残ってる)
胸の奥に小さな安堵が灯った。
「君に、名前をつけようか」
カイは鹿の額の斑に、そっと指を触れた。薄く三日月の形をしている。
「ツキ。どうかな」
鹿は黒い瞳でカイを見つめた。耳がゆっくりと前へ傾く。それから、小さく、「ぴゅい」と鳴いた。
「気に入ってくれた?」
ルカがふんと鼻を鳴らした。それから、ツキの頭を前脚でぽんぽんと叩いた。
「ルカ。ちゃんと仲良くしてね」
ルカはそっぽを向いた。けれど、尻尾が嬉しそうにぱたぱたと動いていた。
カイは思わず笑った。
(この子たちは、ちゃんと心を通わせている)
そう思うと、胸がじんわりと温かくなった。
昼になる頃、ツキの震えは、ほとんど収まっていた。蜂蜜水を何度も飲み、炭の水も飲み込んだ。
ルカの体温に抱かれて、うとうとと眠り始めている。
カイは洞窟の入口から、外の様子をうかがった。
谷は静かだった。館の屋根が霧の隙間から、かすかに見える。兵の姿は遠くの斜面に、ぽつぽつと動いていた。探しているのだ。
(見つかる前に、次の手を考えないと)
洞窟の奥へ戻り、鞄を開けた。
ミトラの診療所から持ち出した一冊の本。革の表紙に、輪の印が刻まれている。
カイはそれを、そっと取り出した。
(この本に、何かが書いてあるはずだ)
ランプを近くに寄せる。ツキとルカの寝息を聞きながら、ゆっくりと表紙を開いた。




