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異世界で獣医を開業しました ~魔獣は処分するものだと言われても、治せるなら治します~  作者: おはぎだんご


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ミトラの診療所

聴診器の縁が、溝の窪みにぴたりとはまった。


こと、と小さな音がした。


カイはそっと息を吐いた。円盤を窪みに押し込んだまま、ゆっくりと回す。溝に沿って縁が滑っていく。


一周。


内側で、何かが噛み合う音がした。石と石が擦れる、低い響き。


ごり、ごり、ごり。


丸い石の壁が、内側へゆっくりと沈んでいった。冷たい風が、闇の奥から吹き出してくる。乾いた、古い紙のような匂いがした。


「開いた」


カイは聴診器を引き抜いた。壁の沈み込みが止まる。


その時、頭上から犬の吠え声が降ってきた。入口のすぐ近くで、爪が石を掻いている。


「入れ!」


カイは鹿とルカを、開いた隙間へ押し込んだ。自分も体をねじ込む。内側から壁の縁に手をかけて力一杯押し戻した。


ごとん。


重い音とともに石の円盤が、元の位置に戻った。


静寂が落ちた。


カイは壁に背をつけて、ずるずるとしゃがみ込んだ。心臓が、耳の奥でどくどくと鳴っている。


(……閉まった)


聴診器を引き抜いたら、扉は動かなくなった。つまり、この扉は輪の聴き手がなければ開かない。


外から、くぐもった声が聞こえた。


「消えたぞ。穴の奥が、行き止まりだ」


「ただの窪みか」


「いや、伯爵様の仰ったとおり、石の下に何かあるのかもしれん。だが、開け方が分からん」


足音が行ったり来たりする。やがて、その声が遠ざかっていった。


カイはゆっくりと顔を上げた。


淡い光が、闇の中でちらちらと揺れていた。月光鹿の子の毛並みだった。鹿は部屋の隅で、小さく丸まっている。

その体が放つ月のような光が、周囲をぼんやりと照らしていた。


「……ありがとう。助けてくれたんだね」


カイは鹿に向かって静かに言った。鹿は答えなかった。ただ、大きな黒い瞳でじっとカイを見つめていた。


ルカがカイの肩に飛び乗って「ぷる」と鳴いた。


「ああ。僕たち、すごいところに来ちゃったな」


カイは鞄から、小さなランプを取り出した。火打ち石でそっと火を灯す。


橙色の光が広がった。


「……これは」


息が止まった。


そこは診療所だった。


石造りの広い部屋だった。天井は、アーチ状に組まれている。壁には、木の棚がずらりと並んでいた。棚の上には陶器の壺。

ガラスの瓶。乾いた薬草の束。

中央に、石の台が据えられている。診察台のようだった。傍らに、金属の器具を並べた台がある。


カイはゆっくりと、足を踏み入れた。


埃が薄く積もっている。けれど、思ったよりもきれいだった。

空気が乾いているせいか、薬草も器具も、時間が止まったように残っている。


器具の台に近づいた。


鋏。鉗子。細い針。小さな刃物。ドルンが作ってくれたものとよく似た形のものが、整然と並んでいた。

その横に、見慣れた形のものがあった。


銅の筒に革を巻いた、ラッパのような道具。片方の端が広がり、片方が細い。


「聴診器だ」


声がかすれた。


円盤ではない。けれど、これは確かに胸の音を聴くための道具だった。カイが首から下げているものとは形が違う。

それでも、同じ目的のために作られたものだと一目で分かった。


壁の一面が書棚になっていた。分厚い革表紙の本が、ぎっしりと並んでいる。背表紙には、輪の印が小さく刻まれていた。


石の台の奥の壁に、文字が彫られていた。


『輪の聴き手にのみ、扉は開く』


その下にもう一行。


『診る者は、戦う者ではない。守る者は、奪わぬ者である』


「……輪の者の、診療所」


カイはゆっくりと息を吸った。


祠の石板。バーサの話。イゼルダの手紙。すべてが、この場所につながっていた。


ミトラの診療所。百年以上前に滅んだ守り手たちが、魔獣と幻獣を診ていた場所。


「ぷる」


ルカが肩から降りて、診察台の上にちょこんと座った。台の石は冷たく乾いている。ルカは前脚で、石の表面を撫でた。

そこだけ埃が拭われて、つるりと光った。


「ルカ。君は、ここを知っていたのかい」


答えはなかった。けれど、ルカの金色の瞳は、懐かしいものを見るように診療所を眺めていた。


その時、頭の上から、足音が降ってきた。


「……ここだ。輪の石の真下だ」


はっとして天井を見上げた。くぐもっているが、男の声が確かに聞こえる。


「この下に空洞がある。石を叩いてみろ。音が、軽い」


こん、こんと石を叩く音が響いた。カイは思わず身をすくめた。


「伯爵様は、扉は鍵でしか開かないと仰っていた。鍵は獣医が持っている、と」


「では、あの獣医は」


「中だ。間違いない。出てくるまで、ここで待つ」


足音がいくつか、天井の上で止まった。


カイは唇を噛んだ。


(伯爵様が、仰っていた)


あの兵たちは最初から、扉の存在を知っていた。そして、鍵がカイの聴診器だということも。


(僕をここへ、誘い込んだ?)


血の気が引いた。


あの排水の穴から逃げ出してきた白い鹿。館の兵はすぐに追ってきた。けれど、追いつかなかった。

まるで、逃げ道を作ってやるように。


(逃がされたんだ)


冷たい汗が背筋を伝った。


鹿がかすかに鳴いた。足元で小さく震えている。カイはその背に、そっと手を置いた。


「大丈夫。君を、誰にも渡さない」


自分に言い聞かせるようにそう言った。


ランプの炎が、ゆらゆらと揺れた。その光がふいに片側に傾いた。


(風?)


炎が奥の壁の方へ、細く流れている。診療所の最奥。書棚の裏側。


カイはランプを高く掲げた。


書棚の端に隙間があった。壁との間に人が一人通れるほどの細い隙間。そこから、微かな冷気が流れている。


「出口が、ある」


カイは鞄に書棚から取った一冊の本と、器具台の小さなランプを、手早く詰め込んだ。そして、聴診器を首にかけ直す。


「行こう。ここで、待ち伏せされるわけにはいかない」


鹿が顔を上げた。ルカが先に隙間へ飛び込む。


カイは最後にもう一度、診療所を振り返った。ランプの光が、棚の古い本をほのかに照らしている。

石の台。銅の聴診器。壁の文字。


(必ず、戻ってくる)


胸の中でそう誓った。それから、細い隙間へと身を滑り込ませた。


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