石の輪の夜
闇の斜面を、カイは転がるように駆け下りた。
足元の石が崩れる。枯れ草に足を取られる。何度も膝をついて、そのたびに立ち上がった。
前方で、小さな金色の影が低く飛んでいる。ルカだった。
「ルカ! 待て!」
呼んでも止まらない。ルカは谷の底の霧の中へ、まっすぐに降りていく。
背後で、鋭い笛の音が鳴った。館の門のあたりだ。
振り返ると、塀の上にいくつもの松明が灯っていた。ちらちらと揺れながら、こちらへ動き出している。
(気づかれた)
息が上がる。肺が焼けるように痛い。それでも、足は止められなかった。
あの白い影は、子どもだった。館から逃げ出してきた幻獣の子。あれを兵に捕まえさせるわけにはいかない。
霧の中に、ぼんやりと石の輪が浮かんだ。
苔むした背の高い石が、ぐるりと円を描いて立っている。半分は倒れて、半分は傾いている。
夜の冷気の中で、石の肌が湿って光っていた。
ルカは、その輪の手前で降り立った。翼を畳んでじっと動かない。
「ルカ」
カイは息を殺して近づいた。ルカの視線の先を見る。
倒れた石の陰に、小さな白いものがうずくまっていた。
月も出ていない闇の中で、その毛並みだけが、ほのかに淡く光っていた。月光鹿だった。
体は領都で診たミオよりも、ひと回り大きい。けれど、細かった。肋骨が、毛の下ではっきりと数えられる。
四本の脚が、がくがくと震えていた。
(……ひどい)
額に三日月のような斑がある。耳が怯えて後ろに倒れていた。大きな黒い瞳が、カイを映して揺れている。
「大丈夫」
カイはゆっくりと膝をついた。急に近づかない。目を合わせすぎない。体を低くして、手の甲をそっと前に出す。
「怖くない。何もしないよ」
鹿はじりっと後ずさった。喉の奥で小さく鳴く。
その脚に目が止まった。四本とも足首のあたりの毛が、輪の形に擦り切れている。皮膚が赤くただれて、血の跡がにじんでいた。
(鎖の跡だ)
ルカの左前脚にあった跡と、同じ種類の傷だった。
「痛かったね。もう、つながれていなくていいんだよ」
カイは、声を落として語りかけた。鹿の耳が、ほんの少し前に動いた。
ルカが、ゆっくりと鹿に近づいた。小さな鼻先を、そっと差し出す。
鹿はおびえながらも、そのにおいを嗅いだ。同じ鎖の跡を持つ者どうしの、無言の挨拶だった。
その時、背後の斜面から犬の吠え声が聞こえた。
「いたぞ! 輪の石のあたりだ!」
「獣医もいるはずだ。逃がすな!」
松明の光が、霧の向こうで揺れている。数は七つ、八つ。足音がどんどん近づいてくる。
鹿がはっと顔を上げた。全身の毛が逆立つ。そして、弾かれたように走り出した。
「待って!」
白い影が、石の輪の中心へ駆けていく。崩れた石の積み重なりの前で、ぴたりと止まった。
それから、石の根元の暗い隙間へ体をねじ込んだ。
「そこは」
カイは駆け寄った。
石の間に人が這って入れるほどの穴が、黒く口を開けていた。中から、冷たい空気が流れ出している。
鹿の淡い光が、奥でちらちらと揺れていた。
「ぷる!」
ルカが先に飛び込んだ。
「ルカ!」
迷っている暇はなかった。犬の吠え声が、すぐそこまで迫っている。カイは鞄を胸に抱えて身を低くした。穴に頭を突っ込む。
冷たい土と石の匂い。肩がつかえそうなほど、狭い。それでも、腹ばいになって這い進んだ。
数歩進むと急に広くなった。
石で囲われた、小さな空間だった。人が二人、立てるかどうかの広さ。天井は、低い。
その正面に、丸い石の壁が立ちはだかっていた。
「これは」
鹿の体が放つ淡い光が、壁面を照らしている。苔が薄く張り付いた滑らかな円盤。直径は人の背丈ほど。表面に模様が彫られていた。
輪。
輪の内側に、小さな翼を広げたような印。
祠の石板と同じ、守りの輪だった。
その輪の縁に沿って細い溝が、ぐるりと一周している。幅は指の太さほど。深さは爪の長さほど。
溝の途中に小さな窪みが一つあった。
カイは息をのんだ。
(……聴診器の、縁)
無意識に、胸元へ手が伸びていた。冷たい金属が指先に触れる。
上の方で足音がした。
どん、どん、と。誰かが輪の石の上を歩いている。
「ここに穴があるぞ」
「隙間か。人は入れん」
「犬を入れろ」
カイの背筋が凍りついた。
吠え声が、穴の入口のすぐ近くで響いた。獣の爪が石を引っ掻く音。
鹿が壁に背を押しつけて、がたがたと震えていた。ルカがその前に立ちはだかって、小さな牙を剥いている。
(開けるしか、ない)
カイは聴診器を首から外した。
銀色の円盤。その縁にはあの小さな輪の刻印が刻まれている。
それを石の壁の溝に、そっと近づけた。




